視知子の生い立ち

 

 


私の誕生

西暦1933年 昭和8221日 午前8時45分頃

家族の期待と不安の中 体重3600g 身長51cmの丸々と太った女の子が産院で元気よく第一声をあげました。

 父は早速名前の事で強い運気を授かる様に、清明神社へ走り見てもらって決定したのが視知子(私)です。

 

家族

 家族は父、母、祖母の三人で、京都市上京区で電器・硝子卸販売店で店子を三人使って盛大に商売を営んでいました。

 

赤ん坊時代

小さい時から健康優良児で忙しい中,両親や皆の暖かい愛情を一身に受け小さな私の一挙一動に笑ったり悲鳴をあげたりの毎日でした。お蔭様で大きな病気一つせず手の掛からない赤ん坊でした。母の母乳も良く出たそうでずっと母乳で育ちました。

 

兄弟

 

それから昭和11年(喜紹)14年 (順三) 17年(勝巳) 21年(彰)と弟ばかり4人誕生し女の子は私一人の5人兄弟になりました。 

 


ほろり、思い出

 

終戦後半世紀以上過ぎた今、6年間の戦時教育に明け暮れた小学生の頃を思い出します.

昭和12年(1937幼稚園に入園

昭和14年(1939

嘉楽小学校に入学し4年生まで通いましたが嘉楽小学校が中学だけになるので、区域別に分かれ私の町内は乾隆小学校に移転する事になりました。その頃は数学、国語を近所で(教師だった方)に習いそろばん、習字はお寺えと今で言う塾へ通っていました。家が商売をしていたので母が勉強を見られないとの理由です.いくらかのんびりした時代で戦争と言う言葉は知って居ても幼い故か実感が無かったと思います.

昭和16年(1941

3年生の12月8日に太平洋戦争が勃発しました。

3年生なりに<ピンッ>と張り詰めた気持ちで運動場に並び(本8日未明・・)の放送を聞きました.戦争が激しくなるに伴い物資が不足する様になり食糧も配給制度となりました。

昭和17(1941)

当時私は小学4年で10歳でした。昭和204月に小学校が国民学校となり、毎月8日は大詔奉還日として北野神社や健勲神社へ参拝して戦勝を祈願する様になりました。

世の中戦争一色になりました。

昭和18年(1942

我が家でも父に赤紙がきました。父は当時の支那事変も経験しており、甲種合格で健康そのものでしたので絶対戦地へ行くものと皆が心配していたのが、軍属として相国寺の防衛隊へ入隊しました。それで一週間に一度は家の様子を見に帰れて私たちは心丈夫でした。家には母と私と3男(1歳)の3人でした。祖母と弟2人は田舎へ疎開しました。

昭和19年〜20年(1943~1944

戦局は益々厳しくB29の本格的な本土空襲が始まりました。家の内外にも防空壕が掘ってあり警戒警報や空襲警報が発令されると電灯の傘に付けてある黒い布を被せて部屋を暗くして息を潜めていました。そんな雰囲気が子供心にも恐ろしく嫌いでした。「撃ちてし止まん」「欲しがりません勝つまでわ」は当時の流行語でした。学校では警戒警報のサイレンが鳴ると上級生が下級生の面倒を見ながら走って帰りました。

私達の過ごした小学時代は物質的には決して恵まれて居たわけでわありません。しかし、それをカバーして余りある精神的な何かを見つけ心豊かに生きた時代だったとおもいます。

 

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