土曜10時 水 津  泰 「自 分 史」H.13.12.22

私は、大正9年(1920)1月20日の生まれで、もうすぐ82歳になる。21世紀まで生きた事は、真に幸せなことで、命の尊さと平和の有難さを考え、「日日是好日」である。顧みれば、逆境の苦難あれば順境の平穏もあり、悲運の結果が好運に変わり、生き甲斐と心温まる生涯であり、1度の人生まさに「人間万事塞翁馬」の感である。

.先祖:嘉兵衛

萬延元年(1860)3月3日、江戸城の桜田門外で大老「井伊直弼」が惨殺された。いわゆる「桜田門外の変」で、折から参勤交代のお供で上京中の、長州藩士「水津嘉兵衛」

(私の曽祖父)はその場に通り合わせ、その惨劇を目撃して身の凍るような思いをした。

 曽祖父「嘉兵衛」は、若いころ萩の毛利藩に奉公した。維新の廃藩で嘉兵衛は郷里に帰り寺子屋を開いて、村の子弟を教導したそうで、当時江戸へ上がってきたことは、大変な知識人として評判になり,多くの塾生が集まったそうである。

2、郷里:重源の里  

郷里「山口県徳地町」は、佐波川の上流の数か村が統合して、戦後に誕生したが、江戸時代から稲作と林業が主体で、副業の和紙の紙漉きも盛んで、「徳地半紙」は有名である。特筆したいのは「俊乗坊重源」の事蹟である。治承4年(1180)平重衡の兵火によって東大寺一山の炎上焼滅の後、再建の勧進として「俊乗坊重源大和尚」が任せられ、大仏殿造営の材木を周防の国「徳地」の杣山に求めた。その膨大で巨大な材木を筏に組んで、佐波川に百余ヶ所の堰を築いて流したと言う遺跡が現存する。町内に「重源の郷」と言う行楽施設があり賑わっている。これらの遺跡や資源の里、緑と清流の郷が私の故郷である。

 曽祖父「嘉兵衛」から祖父「嘉市」、そして父「峯一」と続いて、私は父「峯一」の次男で、山口県佐波郡徳地町大字堀の「中村」と言う山間の過疎の郷に生まれ育った。
3、予科練:脱落
 担任の先生が、私の進路について「師範学校」へ行けと薦めたが、父は先生になることは乗り気でなく軍人になれと言った。世間のことは何も解らない純真な少年は、素直に軍人の道に進み、昭和12年(1837)17歳で予科練(飛行予科練習生)に入隊した。
 だが途中で血沈検査不良で搭乗員不適となり、脱落して航空整備に転科されたが、結果的には同期のパイロットたちは、殆どが若い命を散らすこととなった。
 昭和 6年(1931)から始まった満州事変は、昭和12年には華北で日華事変に拡大して、昭和16年(1941)12月、日本海軍の真珠湾奇襲で太平洋戦争が始まった。
4、ミッドウエイ海戦

 昭和17年(1942)4月、航空母艦「隼 鷹」に乗り組み5月下旬に慌ただしくミッドウエイ作戦に参加した。

 米軍は情報網で日本軍の行動を細密に把握していたのである。
 たちまち海戦になったが、我が海軍の精鋭母艦「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4艦は撃沈され、日本海軍は徹底的に惨敗し打撃をうけた。私の乗艦「隼鷹」は、アリューシャン海域から急遽現場に駆けつけたが、海戦は終り、味方の敗残者を救助して引き上げるのが精一杯であった。もし乗艦「隼鷹」が会戦していたら必ず沈没していたであろう。
5、救援決死隊  
 昭和19年(1944)1月に、乗艦「隼鷹」は中部太平のトラック島基地に在泊し、飛行機隊だけが前進基地の南太平洋ニューブリテン島の、ラバウル飛行場に作戦進出した。
 攻撃作戦が始まったが、さらに最前線の危険なキャビエング基地に、決死の救援隊を派遣する事となり、私が指揮官で派遣されることに決定した。翌日は指揮官以下25名が日の丸の鉢巻をしめて見送りを受けた。往きは飛行機で送られたが、10日も経たぬうちに作戦変更で飛行機隊は内地へ引き揚げ転進した。我々には何の指示もなく戦況は悪化した。

 それから約2か月余りジャングルに潜んで危険に耐え、4月中旬に陸路と海路を辿ってラバウルの基地に帰り着いた。残留本体の大部分は既に輸送船で脱出したが、それもラバウルを出た途端に敵機の爆撃で輸送船は沈没した。もし私が決死隊に行かず残留隊でこの船に乗っていたら、恐らく私の人生はここで終わり、今日は無かったであろう。

6、特攻任務と終戦  
 ラバウルからの脱出は途絶し絶望の状態であった。私は現地守備隊に編入されて、ラバウル海岸陣地の迎撃小隊長として、敵の水陸両用戦車の上陸進攻に備えて、準備と訓練を繰り返した。火薬を固めて地雷を造り、それに信管をつけて背中に背負い、「敵の戦車が上陸してきたら、それに飛び込んで戦車のキャタビラを爆破、擱座させる」、と言う任務の決死の自爆作戦で、もちろん自分も爆死するのである。私は真っ先に飛び込む決心であった。
 米軍はラバウルは置き去りにして、20年8月15日の終戦まで上陸進攻はなく、我々は生き延びることになった。終戦後、豪軍が上陸して我々は捕虜となった。日本軍は芋を作って自活すると言う収容所生活であった。一部は使役に駆り出されたが、ソ連のシベリア捕虜のような過酷な労働も無く、約8か月後の昭和21年の5月に帰還復員した。
7、戦後の出発 
 日本の敗戦は、民族がはじめて味わう屈辱であり悲劇であった。私たちが神国日本は不敗と、昨日まで信奉していた国家観や思考が、180度転換の社会になったのである。
 復員後とりあえず山口市に出て、山口経専(現山口大学)に経済学を学ぶこととした。さらに、「防府貨物自動車(株)」に入り整備工場長を勤めたが、昭和30(1955)1月、航空自衛隊に入隊し、「幹部候補生学校」の教官を命ぜられ、教壇に立つ生活が始まった。
8、全日空教官  
 高度経済成長時代に入り航空各社は機数の増加に追われ、競って搭乗員養成増強に努めた。昭和44年(1969)、全日空からの要請で航空自衛隊を辞めて全日空に入り、「乗員訓練所」の教官になった。それから11年間パイロット訓練に精進したが、このころ教えた訓練生が、今ではそれぞれ立派な機長として、国内線や国際線の空に活躍している。
9、日本航空学園  
 昭和55年(1980)1月、全日空を定年退職して山梨の「日本航空学園」に勤めることになり、「日本航空大学校」、「日本航空高等学校」の教壇にたち、学生や生徒との交流は暖かい思い出であり、多くの教え子たちと今でも懐かしい交流がある。
 奈良の我が家を空家にして約10年間、夫婦で山梨に住んだが、毎日富士山を仰いで感動した。四季の景観に優れ、休日には温泉めぐりや、山登りやハイキングを楽しんだ。
10、病魔との共生  
 昭和64年(1989)1月7日、昭和天皇崩御で年号が「平成」と改められた。その年の3月末で「日本航空学園」を退職し、約30余年間の教壇生活に別れを告げた。
 あるとき排尿に異常を感じて受診したところ、精密検査の結果「前立腺癌」との診断を告知され、思いも懸けぬ落とし穴に愕然の思いである。手術によらず注射療法の治療による事とし、月に1回の「リュープリン皮下注射」で経過し、幸い骨や内臓えの転移も無いとのこと確認し、まずは満5年を経過して病魔と共生の思いである。
11、塞翁が馬
 狭い花壇に四季の花が咲き、家庭菜園で季節の野菜も、新鮮で台所の賑わいがある。種種の果樹の味覚と成長も楽しみで、「日日是好日」、毎日が尊く生きることが幸せである。
 17歳で海軍に入り戦争に参加したが、運良く命を永らえて、齢82歳をむかえるのは何かに護られた幸運で感慨深いものがある。まさに「人間萬事塞翁馬」の感である。 (終)