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郷里「山口県徳地町」は、佐波川の上流の数か村が統合して、戦後に誕生したが、江戸時代から稲作と林業が主体で、副業の和紙の紙漉きも盛んで、「徳地半紙」は有名である。特筆したいのは「俊乗坊重源」の事蹟である。治承4年(1180)平重衡の兵火によって東大寺一山の炎上焼滅の後、再建の勧進として「俊乗坊重源大和尚」が任せられ、大仏殿造営の材木を周防の国「徳地」の杣山に求めた。その膨大で巨大な材木を筏に組んで、佐波川に百余ヶ所の堰を築いて流したと言う遺跡が現存する。町内に「重源の郷」と言う行楽施設があり賑わっている。これらの遺跡や資源の里、緑と清流の郷が私の故郷である。 |
| 曽祖父「嘉兵衛」から祖父「嘉市」、そして父「峯一」と続いて、私は父「峯一」の次男で、山口県佐波郡徳地町大字堀の「中村」と言う山間の過疎の郷に生まれ育った。 |
| 3、予科練:脱落 |
| 担任の先生が、私の進路について「師範学校」へ行けと薦めたが、父は先生になることは乗り気でなく軍人になれと言った。世間のことは何も解らない純真な少年は、素直に軍人の道に進み、昭和12年(1837)17歳で予科練(飛行予科練習生)に入隊した。 |
| だが途中で血沈検査不良で搭乗員不適となり、脱落して航空整備に転科されたが、結果的には同期のパイロットたちは、殆どが若い命を散らすこととなった。 |
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昭和 6年(1931)から始まった満州事変は、昭和12年には華北で日華事変に拡大して、昭和16年(1941)12月、日本海軍の真珠湾奇襲で太平洋戦争が始まった。 |
| 4、ミッドウエイ海戦 |
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昭和17年(1942)4月、航空母艦「隼 鷹」に乗り組み5月下旬に慌ただしくミッドウエイ作戦に参加した。 |
| 米軍は情報網で日本軍の行動を細密に把握していたのである。 |
| たちまち海戦になったが、我が海軍の精鋭母艦「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4艦は撃沈され、日本海軍は徹底的に惨敗し打撃をうけた。私の乗艦「隼鷹」は、アリューシャン海域から急遽現場に駆けつけたが、海戦は終り、味方の敗残者を救助して引き上げるのが精一杯であった。もし乗艦「隼鷹」が会戦していたら必ず沈没していたであろう。 |