昭和24年5月3日奈良県出身大阪育ち。山奥から当時一番のハイカラ小学校追手門小学部に入学その後大学を卒業。三年間京都の呉服屋に就職後、家業の林業を継ぐ。JC(青年会議所)入会後現在はRC(ロータリークラブ)で奉仕活動させて頂いている。
現在、特に不景気で斜陽産業の筆頭と言われる林業をそのままに新しい事業を、平成1361日に介護支援事業の会社設立に至った。駆け足の紹介である。これから先は、現在まで印象に有る残ってる事柄を幾つか部分的に語って見たい。先ず、3歳には母屋を継ぎに養子に行く。行かされる方が表現は正しい、なにしろ小さい頃だから。その頃からよく口にして食べていたのが、黄な粉に砂糖をまぶして、ごはんにぶっ掛ける黄な粉ごはん。それも殆ど毎日であったらしい。でも中学部位までは背は高い方で過ごしたが今は、面影がないかもと感じる。原因はこの食事だったと確信に近い。小学部の頃はやはり野球少年で背番号はご多分に漏れず三番をユニホームに縫い付けてもらって、はしゃいでいた。 

昭和34926日この日はまたまた人性の最大の節目となると予測も出来なかった。伊勢湾台風として、記録されてる日である。当時小学校4年生でこの日より前半に書いた様に、ハイカラ坊っちっやん学校に二週間後には入学していた。そこは、異様であった。何故か?それは、それまでは一応自分が坊っちやんで来て自分が何となく中心で動いていた様に感じていたからである。生まれてから丸坊主が普通なのに回りは坊っちゃん刈も普通に見えなかった。遊びの方もチャンバラごっこ、ベッタン兎に角田舎風の遊びが、プラモデル、友達の家でケーキを頂きながらお話したり、映画を見に行ったり、勉強しあったりにいきなり変わった
でも今思えば、自分に合っていたかも知れない。学校での休み時間は勿論、野球。チームで校庭のグランドの取り合いもよくした。
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