金峯山寺で毎年7月7日に行われる伝統行事に「蓮華会蛙飛び」があります。7日という日は金峯山寺を開いた役行者の縁日で、お寺にとっては特別の日。特に7月7日は役行者が産湯をつかったと伝えられる大和高田市奥田にある弁天池の清らかな蓮の花を蔵王権現に供える蓮華会が営まれますが「蛙飛び」と呼ばれるユニークな行事もおこなわれ、夏の吉野山に歓声があがり、大いに賑わうのです。

―役行者って誰?―
 金峯山寺を開いたという役行者とはどんな人だったのでしょうか。さまざまな伝説が残されていますが、「続日本紀」や聖武天皇の頃、薬師寺の僧景戒が書いた「日本霊異記」などには役行者のことが記されています。「日本霊異記」には役優婆塞(えんのうばそく)の名前で書かれていますが、優婆塞とは在家で仏教の修行をする人のことです。役行者、役小角、役優婆塞といろいろに呼ばれますが、同じ人のことです。
 舒明天皇6年1月(634)に御所市茅原(ちはら)で生まれた役行者は、名前を小角(おずぬ)といいました。父は高賀茂朝臣真影麻呂(たかがものあそんまかげまろ)、母は都都岐(つづき)。賀茂一族は古代から葛城地方の豪族として知られています。税を集めたり、皇居や寺院、古墳などの造営のための人々を束ねる役を果たしていましたから、役行者が鬼神を操るという説話もこんなところから生まれのでしょうか。

 役行者は幼い頃から優れた素質を持ち、土で仏像や仏塔を作ったり、伝えられたばかりの仏教を学んでいたようです。成長するにしたがって、ただ仏教を学ぶだけでなく、さまざまな欲望を断ち切ることが人間完成への道であり、国家平安、万民幸福の実現につながると悟りました。葛城山に登って苦行と修練の生活をしている時、大峯連峰の姿に惹かれ、熊野から大峯に入り、金峯山山上ヶ岳で一千日の苦行を実践したのです。

行者が乱れた世の中を救う為、仏の出現を念じていると、最初に釈迦如来が現れました。行者は今の日本では人々に本当のお姿が見えないのではと更に祈りました。次に現れたのは柔和な千手観世音菩薩でしたが、末法悪世の人々にはふさわしくないと祈りを新たにしたそうです。すると今度は弥勒菩薩が現れました。でも行者は悪魔をも降服させるような強いお姿をと更に祈り続けると天地が揺れ動き、とどろき渡る雷鳴と共に大地の間からすさまじい憤怒の形相の蔵王権現が現れました。行者はこれこそ末世の人々を救う守護神だと、深く感謝してそのお姿を桜の木に刻んだのです。金峯山寺ができたのも、吉野山が桜の名所になったのも役行者がいたからなのですね。

 葛城山から大峯、金峯の山々で長く苦しい行を重ねた行者は強い精神力と清らかな人間性、超人的な力で多くの人々を救って、尊敬を集めるようになりました。行者の伝説には毎夜五色の雲を呼び寄せ、空中に飛び出しては大勢の仙人と遠くまで出かけたとか、思うままに鬼を使うことができて、葛城山から金峯山への長い橋をかけようとした、などというものもあります。その橋は神々にも命じたのですが、葛城一言主神は自分の容姿が醜いのを嫌がって、顔の見えない夜だけしか手伝わなかったために橋が架けられなかったと伝えています。行者は一言主神に怒り、葛で神を縛って岩窟(がんくつ)に押し込めたのだそうですが、これは行者の力の大きさが有名だったことの表れでしょう。

ところが弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は行者の名声を妬んで文武天皇へ讒言(ざんげん)をしてしまいます。行者は呪術を使って空へと飛び去ってなかなか捕まえることができなかったのですが、母を人質として捕らえられてついに姿を現し、伊豆大島へと流されました。このことは「続日本紀」に記されています。二年後(701)に無実の罪と分かって大和へと帰りました。帰国後間もなく亡くなったと伝えられていますが、箕面の山から空へ向かって行ったとか、母を鉢に乗せて海を渡り、唐の国へ行ったなど神秘化された話も残ります。平安時代に行者の尊称を贈られ、千百年忌にあたる寛政11年(1799)光格天皇は神変大菩薩という尊称を賜っています。日本にはたくさんの高僧名僧が人々を救ってきましたが、神変大菩薩という大きな尊称からは、その偉大さが窺えます。

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