吉野と桜

 吉野といえばまず思い浮かぶのが桜でしょう。花の頃には全山が花雲、花霞に包まれ、散り時なら風の道が花びらで描かれるほで、山裾から下千本中千本上千本、そして奥千本へと約一月をかけて咲き継いでいくのです。ほとんどが白山桜という種類で、花と共に若葉が萌え、清楚な花に陰影が漂いますから、尚更心が惹かれます。吉野と桜の結びつきは古く、天智天皇(668〜671)の頃、今なら超能力者とでも言うのでしょうか、役小角(えんのおずぬ)という人が大峰山で修行している時に金剛蔵王権現を感得して、桜の木にそのお姿を刻んだことに始まると伝えられています。これ以来、桜の木は御神木として手厚く守られてきたのです。「桜一本首一つ、枝一本指一つ」とまで言われるように、厳しく伐採を禁じる一方、桜の寄進や献木もさかんに行われるようになりました。一目千本、桜尽くしの山は人々の手によって作られてきたのですね。

 霞とも雲とも見える吉野の桜には神仏が宿り、人々はさまざまな思いや祈りを込めて守ってきたのです。桜に心を奪われた平安時代の歌人西行は、吉野の深い山の中に庵を結んで3年もの間たった一人で過ごしています。都の人々は吉野の桜にどれほど憧れたことでしょう。亀山天皇(1259〜1274)はそれまで紅葉の名所だった京都の山に吉野の桜を移しただけでなく、山の名前も吉野にある嵐山という地名にちなんで名付けたほどです。今では京都の嵐山がすっかり有名になってしまいました。

 吉野の桜といえば、いかにも華やかですが、山を歩いて感じるのは修験の山の深さです。花のうねりは見る場所によってさまざまな景色を繰り広げ、ここに身を隠すと容易には探索できないのでは、と思われます。源義経の物語や南北朝の舞台となったのも、この山の深さがあったからのことでしょう。夢のように咲く桜の裏のは悲しみや憤りが秘められて、いよいよ美しいのです。

 文禄3年(1594)、吉野山に絢爛たる花見の宴を張った豊臣秀吉は千石を寄進しています。そして、華やかな宴の様子は屏風絵にも描かれました。吉野山は絵画の題材や工芸の文様としても、度々取り上げらられるようになります。京焼の代表作として知られる野々村仁清の色絵吉野山図茶壺、尾形光琳の弟子である渡辺始興の吉野山図屏風などを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

 桜前線の対象にもなり、日本全国どこでも見られるソメイヨシノは、江戸末期に今の東京都豊島区にあった染井村の植木屋が交配して作ったものですが、最初は桜の名所吉野にちなんで「吉野桜」と命名したようです。でも吉野の桜とは種類が違うというのでソメイヨシノに変えたとか。いずれにしても桜といえば吉野なのですね。眼下に下千本、中千本を見渡す花矢倉では、風の向きによって花びらが谷から舞い上がることもあります。遠くに見える金峯山寺蔵王堂の大屋根も、谷も山も見渡す限りの桜、桜。そんな桜の山には不思議なお話が伝えられているのです。

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