KCN-Netpressアーカイブス

人と心とふれあいと
Vol.10

 

自分を語る手段としての俳句


俳 人 津田 清子さん
(「圭」代表、朝日新聞大和俳壇選者、奈良市在住)


 今ほど俳句人口が多い時代はないといいます。俳句の専門誌もたくさん出版されているし、新聞や雑誌の投稿欄も良く見かけます。

 17文字という最も短い詩には、人生や宇宙までも詠み込む無限の広がりがあって魅せられるようです。誰にでもできそうで、踏み込むとその深さに足がすくむのが俳句なのかも知れません。そんな俳句の世界を自在闊達に駈け、おおらかに詠む津田清子さんのお話を伺いました。

「望遠レンズできれいな景色を見て詠んで、そんなものを俳句と思っている人も多いけれど、俳句は自己探求です。つまらないものに驚いているとつまらない人間になってしまう。自己表現が俳句なのに、景色ばかりを詠んで、報告になってしまうことが多いようです。例えば蝶が飛んでいるのなら一緒に飛びましょうよ」

「虹二重神も恋愛したまへり」という句を詠んで、師山口誓子を驚かせたことは有名な話。二重の虹を見て感動し、一句とまでは思っても神々の恋愛までの発想へは結びつかないものです。このあたりが、人間のスケールということでしょうか。

 「私の先生は橋本多佳子というとてもきれいな人でした。その先生に私は俳句のことを何も知らないで入門して、たくさん俳句を作っては見てもらっていたんです。あんまりいろんな句を作るものだから、山口誓子に見ていただくことになったの。無茶苦茶な句で困らせたんだと思います」

 津田さんの処女句集の序文に山口誓子は「私にしてみればこれは格闘であった。私と清子との格闘であった。その格闘によって清子は私の裡に割り込んで来た。私はそれによって拡大された」と書いています。才能と才能のぶつかり合いで磨かれていったということでしょう。羨ましい関係です。

「今は俳句にとって最低の時代だと思います。俳句が俗にまみれている。俳句大会と雑誌、先生が多すぎます。安易なところで妥協するから良くならない。感動を見える言葉で表現すること、言葉はまずくてもその人らしい句を作って欲しいですね」

今年6月には2度目の南アフリカのナミビア砂漠へ行く予定とか。どんな雄大な句が作られるのか楽しみです。



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