KCN-Netpressアーカイブス

人と心とふれあいと
Vol.16


関西大学名誉教授
関西大学名誉教授
網干善教さん
(あぼし よしのり)

歴史に魅せられた志しに生きる


 明日香村で生まれ育った網干さんは、物心付くころから発掘現場を身近に見、歴史という茫漠として広がる世界へと心を傾けてこられました。発掘現場というのは昭和八年と十年に行われた石舞台古墳の調査。飛鳥発掘史の冒頭を飾るだけでなく、日本の考古学史でも画期的な調査といわれる現場に網干少年は、父と共に何度も通っていたのです。

  「京都大学の浜田耕作・末永雅雄両博士がお若い頃です。私の家は寺でしたから、夕食が済むと碁や将棋をしに近所の方が集まるのですね。作業員として手伝ってる人も多かったから、僕にいろいろ話してくれるのです。父に連れられて現場には良く行きました。それに、子供が行くとお菓子をいただいた。偉い先生方の発掘というので、上等のお菓子が差し入れられていたのでしょうね、おいしい思い出です」

  畝傍中学へ進学した網干さんは考古学部に入り、いよいよ本格的に歴史の世界へと踏み込んでいきます。「同じクラスで同じ部にいたのが東大寺別当の上司永慶君です。東大寺に行ってなければ考古学者になっていたでしょう。クラブの先生が橿原考古学研究所に連れて行ってくれたのです。その時の所長が末永先生。子供の頃石舞台で先生に会ってます、と言うと『そういえば、小さな子が来とったな』と覚えておられて、ここへ来て勉強したらいいと言ってくださったのです。土日は必ず行きました。そして発掘に同行。錚々たるメンバーの中に中学生が一人入れてもらって、何よりの勉強になりました」末永先生の愛弟子として大学へ進み、研究生活を送ることに。

 昭和二九年、第三次石舞台調査、そして考古学への関心を全国的規模で集めた高松塚の発掘などさまざまな発掘を手がけ、素晴らしい成果を実らせてこられました。活躍は日本だけでなく、昭和五八年からはインドの仏跡である祇園精舎も総責任者として指揮。そして、論文の発掘調査はもとより思索を深め、身近な疑問を取り上げての随筆、考古学を平明、軽妙な語り口で聴衆を引き込む講演など活躍は多岐に渡ります。

 そんな網干さんの精神の根っこにあるのは母の思い出。「幼い頃から、僕が出かける時、母は門までついてきて後ろ姿に手を合わせて拝むのです。学校へ行く時ももちろん、とにかく毎日。ずっと当たり前と思っていたのですが、中学生になった頃母は病気をして杖をついていたのですがそれでも拝むから、どうしてかと聞いたんです。すると、母の願いは、産んだ子供が立派に成長すること。家を出てもしも災難がふりかかるのなら、大難は小難に小難は無難にしていただきたいから神仏、天地の神々に祈るのだと答えました。大学生になってもそうでした。僕も青年ですから、友人にいろいろ誘われるのですけどね、そして誘いにも乗るんですが頭の中に絶えず母の姿と言葉があり、心配かけまいと思いました。母は動ける間は、ずっと続けていました」祇園精舎で転落事故、肋骨を痛めた時、倒れながら思い浮かんだのが母のこと。万一この怪我で寿命が三カ月縮むとしたら、何かで補わなければと考えたそうです。ヘビースモーカーで知られていた網干さんは禁煙を決心。「自分の不注意で怪我して、母の墓前に何と言えばいいか、申し訳が立たないと思った時、煙草がすっと頭から消えました。苦痛は全くありませんでした」

 活版印刷にこだわった「日本古代史稿」、ライフワークとしての大著「高松塚古墳の研究」(同朋舎刊)、書き溜めた論文のまとめ、新しい論文の資料収集など多忙な中でも心は常に歴史を自由自在に行き来し、来游来歌といった楽しそうな表情が心に残ります。


「飛鳥の風土と歴史」
「飛鳥の風土と歴史」関西大学出版部



人と心とふれあいとメニューページ / TOPページ