| 3月も下旬になると桜前線の北上がニュースになります。そして4月、全国各地にある桜の名所は、絢爛たる花絵巻が解かれていきます。中でも筆頭はやはり吉野でしょうか。全山を山桜の淡い色で染め上げる壮麗な風景と刻み込まれた歴史の深さは、桜の国広しといえども吉野の右に出る所はありません。吉野は桃源郷ならぬ“桜源郷”ともいえそうです。
吉野と桜の結びつきは天智天皇(668〜671)の頃にまで遡ります。役行者が大峯山で修行している時に感得した金剛蔵王権現を桜の木に刻んで本尊にしたことから。以来、桜の木は御神木として手厚く保護される一方、寄進や献木が盛んに行われるようになって、一目千本の桜山になったのだとか。
万葉集には桜や吉野の歌はありますが、吉野の桜を詠んだものは見あたりません。吉野川の清らかさや雪の歌はあるのに。当時の吉野は美しい自然の山として知られていたのでしょうか。花にしても中国から伝えられた梅に心を寄せる人が多く、桜の歌ははるかに少ないのです。紫宸殿(平安京内裏の正殿)の前に植えられていたのも右近の橘、左近の梅でした。吉野の桜を歌ったもので最も古いとされるのは「古今和歌集」にある紀友則の「み吉野の 山辺に咲ける桜花 雪かとのみぞ あやまたれける」。この歌が詠まれた平安中期頃から吉野の桜は王朝人の憧れを一身に集めるようになっていきます。左近の梅も山桜が取って変わり、人々は吉野の桜を詠むようになっていったのです。
桜の心を奪われた漂泊の歌人・西行はついに奥深い吉野の山中に庵を結んで3年を過ごしました。都人の吉野恋いは数々の名歌となって残されることになりますが、中でも亀山天皇(1259〜1274)の思い入れは深く、それまで紅葉の名所だった嵯峨野に吉野の桜を移したほどです。山の名前も嵐山としましたが、これは本来吉野にもとからあった嵐山の地名なのです。
吉野の桜は見る場所によってそれぞれの景色を繰り広げてくれます。花のうねりをみているとそれだけで目がくらんでしまいますが、よく見ると修験の山としての深さが感じらられ、ひとたびこの地に身を隠せば、容易に追求することのできない地形だと想像はつきます。源義経主従の物語や南北朝の舞台となっていくつもの哀話が残されているのも山の深さがあればこそ。松尾芭蕉の門人の一人各務支考が「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠んだように、華麗な花衣の裏には悲哀と憤怒が秘められていて、一層吉野の桜は美しく咲いて散ります。
吉野の桜はほとんどが白山桜。花と同時に若葉が萌え、清楚な花にほのかな陰影を添えます。桜は吉野駅あたり一帯の下千本、如意臨時付近の中千本、水分神社近くの上千本から西行庵を囲む奥千本まで約一月をかけて咲き継いでいきます。眼下に下千本、中千本を見下ろす展望台では、風に吹き具合によっては谷から花びらが舞い上がる夢のような光景を目にすることもできるのです。山も谷も埋め尽くして、春の吉野は桜、桜。
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