葉月、月見月、萩月とも呼ばれる8月。連日の暑さに食欲はもとより、料理する意欲までも落ちてしまいがち。
炎暑の午後、友人との話し合いで一段落ついた時「今夜何にする」と夕食の心配を口にした人がいました。すかさず、「冷奴とお刺身。台所の火を使うのが億劫になるわよ、この暑さ」とか「今日は外食にする」などの声に頷く人の多いこと。
暑中見舞いに「麦茶とそうめんで生きています」なんて書いてきた人もいました。本当にこう暑くては作る方も食べる方も大変です。
夏の食事として喜ばれるそうめんは奈良時代に日本へ伝えられています。そうめん自体は中国後漢時代(25〜220)の記録にある索(さく)餅(べい)が原型だといわれています。索餅は索(さく)麺(めん)や麦(むぎ)縄(なわ)とも呼ばれていたようで「正倉院文書」や長屋王邸から出土した木簡にもそんな言葉が記されているとか。千数百年もの昔に大陸から伝えられた珍しい食べ物はどんな器に盛られ、どんな味付けだったのでしょうね。二杯酢のようなものにニンニクを合わせたソースだったとも伝えられていますが、いずれにしても貴族だけが味わえる特別な一品だったことは間違いなさそうです。
そうめんが作られてきたのは桜井市の巻向川と初瀬川が流れる三輪山のふもと。神の住む聖なる三輪山は古くから人々の篤い信仰を集め、さまざまな伝説にも彩られています。万葉の故地、歴史の舞台としても知られる三輪の里は豊かな土地と清らかな水、気候にも恵まれて美しくもおいしいそうめんを作り続けてきたのです。
そうめんが庶民の食べ物になったのは江戸時代になってから。伊勢街道に沿った宿場町として栄えた三輪の里では旅人の口を喜ばせ、お腹を満たしました。江戸の将軍、京都の禁裏へも献上してその名を高めたようです。小豆島、播州、九州島原などお伊勢参りの途中に立ち寄った人々の中にはその製法を学んで持ち帰り、町の産業にさせたところもありました。そうめんの産地が三輪の里より西に広がるのは伊勢参詣の通り道だったから。伊勢より東の人々はわざわざでなければ三輪へ足を伸ばすことがなかったからです。
お中元にそうめんが贈られるのは、蔵で寝かせ梅雨を越すとそうめんのコシが強くなり、茹でのびしにくくなることを「厄をこす」と言うことに由来するともいいます。厳しい夏に「無事厄をこしてお健やかに」との願いが込められているのですね。
そうめんをいただく時に欠かせないのが薬味。山葵や唐辛子のほかに葱、茗荷、生姜など細かく刻んだ薬味が味を引き立たせ、一層箸も進みます。さて、細かく刻むためにはよく切れる包丁の存在が大きいようです。奈良は昔から刀鍛冶の伝統を受け継ぎ、奈良刀として知られています。かつての繁栄が包(かね)永(なが)という地名で今に残る菊一文殊四郎包永の包丁はさすがの切れ味です。この夏、一度試しては如何でしょう。
花火、海水浴、帰省、盆踊りなど行事の多い季節ですが、暑さの中にも7日は立秋、23日に処暑、31日は早くも二百十日を迎え、秋の気配がしのび寄るのも8月。たっぷりの薬味を整えてそうめんの喉越しを味わいながら秋の足音に耳を澄ませてましょうか。
* 菊一文殊四郎包永:奈良市若草山麓488・TEL0742-26-2211
(近鉄百貨店でも買うことができます)
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