長月、菊月、紅葉月、などと呼ばれる9月は仲秋の名月の季節でもあります。
月の月とでも言いたいくらいにこの季節の月は美しく輝きます。日本人は星よりも月が好きなようで、昔から歌や俳句に詠まれてきましたし、月に関する言葉もいろいろです。
「月と鼈(すっぽん)」は天と地の開きがあって、比べものにならないこと。「月に明かす」は月を見ながら夜を明かすこと。「月に磨く」というのは月光によって風景が一層美しくなることを指します。「月に叢雲(むらくも)花に風」といえば世の中はとかくうまくいかない、障害が多いことのたとえです。「月の前の燈」は、大きな月明かりの前での燈は見る影もないことから、けおされている様子。「月を指せば指を認む」は、月を指して教えているのに、月を見ないで指を見ているという意味です。道理を説いているのに本質を理解せず、枝葉末節にとらわれているということでしょうか。
「鯛は花は見ぬ里もあり今日の月」と詠んだのは井原西鶴です。豪華な鯛料理や絢爛たる桜の名木といった華やかなもののないひなびた里もあるのだろうが、今日の月だけはどこでも同じように明るく輝いているに違いない。ひなびた里であればなおさら月の光は美しいのだろう、という意味でしょうか。西鶴は大阪で活躍した多才な人ですから、鯛にも桜にも恵まれていたでしょう。そんな西鶴が月を見て思い浮かべたのはひなびた里だったというのも面白いことです。月は人にものを想わせるといいますが、西鶴は
>どんなことを想って詠んだのかしら。
月は古くから人々の暮らしの指針でした。月の動きと月齢で日を数え、潮の満ち引きで時刻が判ることから、太陽と共に生活のよるべとして崇拝もしてきました。神話では太陽神を天照大神、月神を月読尊と呼びますが、月読とは月齢を数えることです。昔の人は三日月が夕方の西空に姿を見せると逆算して2日前が新月だったことを知ります。1日を朔日と書くのは、朔の字が遡って数えるという意味があるからだそうです。三日月に小豆や豆腐を供える風趣が残っている地方もあるようですが、それは三日月が月初めの具体的な目印になるからです。もちろん満月も重要な目印でした。仲秋の名月に団子やススキ、里芋を供えて芋名月とも呼ぶのは稲作以前の古い収穫祭の名残も含んでい
>るようです。
その月に兎が住んでいるという伝説は古く、中国では漢代の「楚辞」に書かれているほか、馬王堆古墳から出土した布にも月と兎、蟾蜍(ひきがえる)が描かれています。中国の伝説に、10個の太陽が一度に出て、焦土となろうとした時、9個の太陽を射落として人々を救った弓の名人がいます。その人は西王母(伝説の仙女)から不老不死の仙薬をもらうことができました。でも、まだ飲まないうちに妻の嫦娥(じょうが)が盗んで月へと逃げ、月の精になったという話があります。嫦娥がなったのは月の精ではなく蟾蜍という説もあって、この悪い蟾蜍が丸い月をむしばむともいいます。嫦娥月奔(じょうがげっぽん)という言葉もあって、詩に詠まれたりもしています。
唐代になると仙人、兎、蟾蜍、桂樹が一般的な月の姿で「月桂鑑」という鏡の裏には中央に桂樹、左右に蟾蜍と仙薬を搗く兎が描かれているようです。8世紀の初め、長安の都にあったという高級料亭「張手美家」は節日にちなんだ献立で知られ、仲秋には”玩月羹(がんげつかん)”という月見団子を作って人気を集めたとか。宮廷では観月の催しが行われ、管弦の調べが流れ、詩が詠まれました。
月と兎の話はインドにもあります。森の動物たちのところへ神様が来られることになって、それぞれ木の実などを持って集まりました。ただ兎だけは、その日に何も用意することができず、結局自らを火の中に投じて、神様への捧げものとしました。神様は哀れみ、心根を感謝して月へと送ったのです。この説話は釈迦前世譚「ジャータカ」がもとになっていますが中国の兎伝説もここから出発しているのかも知れません。
大陸からの月伝説は蟾蜍を消し、仙薬を餅へと変えて日本に伝わりました。宮中で観月会が行われるようになったのは文徳天皇(850〜858)の頃といわれ、風流を重んじた宇多天皇、醍醐天皇の時代に盛んになりました。月見の宴では庭を整え、供え物
>を飾り、地泉には一対の竜頭鷁(りゅうとうげきす)の船を浮かべて管弦、詩歌、舞楽で優雅に過ごしたことが絵画にも描かれています。源氏物語でも須磨に流された源氏が、わび住まいの館から月を眺め、清涼殿で催される宴を想い、都に残してきた紫の上を恋う場面があります。遠く離れていても同じ月をみることで心を通わせるのですね。月の夜は人を物思いに耽らせるもの。今年の名月は誰と眺めましょうか、誰と心を通わせましょうか。
仲秋の名月は9月21日(土)です。猿沢池の采女祭、唐招提寺の観月讃仏会、大神
>神社観月祭、新薬師寺観月会、など各地で観月の催しが開かれます。
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