| 「門を出れば我も行人秋のくれ」蕪村
“行人”とは道を行く人のことです。門を出て通りに一歩踏み出すとそこにはいろいろな人々が行き来しています。年齢も身なりも、蕪村が生きた時代なら身分だって違っていたことでしょう。ゆっくりと歩みを進める人もいれば、小走りだったり急ぎ足だったり。笑ったり話たりする人がいるかと思えば、うつむいて悲しみに耐える人もいるはずです。家を出て歩き出せば、自分だってそんな人々の中の一人となという感慨でしょうか。木々の葉は風に舞い、草は枯れ、蕭条として移りゆく自然の営みがしみじみと身にしみるのがこの季節です。しかも夕暮れ時。古くから秋の夕暮れをさまざまに歌ってきました。昼から夜へのほんの束の間。つるべ落としの秋の日といわれるほど足早に過ぎる一刻だからこそ歌わずにはいられなかったのかも知れません。
とはいうものの、近世初頭まで“秋の暮”は秋の終わりの頃という意味と秋の夕暮れの意味、両方に用いられていたようです。芭蕉の門人の一人である許六は“秋の暮”が秋の夕暮れであることを「篇突」の中で説き、去来も「旅寝論」で“秋の暮は秋の夕なり”と言っていますから、芭蕉の頃からは秋の夕暮れとして定着していたのでしょう。
夏目漱石は「行人」という小説を書いていますが、蕪村の句から題のヒントを得たのでしょうか、漢籍にも通じていた人ですからその一節からとったのでしょうか。いずれにしても、この小説にはそこはかと寂しい悲しみさが流れていたように思います。燈火親しむ候ですから、もう一度読み返してみようかしら。
秋の夜は月が冴え冴えと美しいのですが、星を見ると明るい一等星がひとつだけ。“みなみのうお座”にあるホーマルハウトで、魚魚の口という意味の星には、みずかめ座から不老長寿の酒が流れこんでいるといわれています。水瓶を持っているのは、オリンポス山にある神様の酒蔵の番人である美少年ガニメデス。みずがめ座の西にあるやぎ座は牧神パンの変身した姿です。陽気で気のいいパンは葦のたて笛パンパイプを吹きながら踊っていました。そこに現れたのが怪物テュホンで、一緒にいた神々はナイル川に飛び込み魚となって逃げました。これがうお座やみなみのうお座になったのです。パンはといえば、慌ててしまって川の浅瀬に飛び込んでしまったので、水に浸かった半身は魚になったものの、上半身はやぎのまま空へ昇ったのだとか。
夏や冬の星座に比べると、秋の星座は月のの明かりに隠れがちです。でもいろんな物語を語りかけてもくれますから、時々は見上げてみてはいかがでしょう。特にうお座、みずかめ座、やぎ座はこの季節の主役ですよ。星占いだけではなく、本当の星座がどこに輝いているかを確かめる良い機会だと思います。
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