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スポーツ(プロは除く)は競技する人達が楽しくすることが出来ればそれで十分 −NHKの放送番組は“障害者スポーツ”が多すぎ、長過ぎる−

 1月22日のNHKテレビニュースは、「国枝慎吾(38)現役引退 車いすテニス世界王者」と言うタイトルで,次の様に報じていました。
(長すぎることを見ていただくために全文を掲載します)
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国枝慎吾(38)現役引退 車いすテニス世界王者
2023年1月22日 12時44分 NHK

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 車いすテニスの世界王者で、すべての四大大会と
パラリンピックで優勝する「生涯ゴールデンスラム」を達成するなど、数々の偉業を成し遂げた国枝慎吾選手が現役を引退することになりました。

 関係者によりますと、世界ランキング1位の国枝選手は、22日をもって現役を退く引退届を国際テニス連盟に提出したということです。

 38歳の国枝選手は、おととし東京パラリンピックのシングルスで金メダルを獲得し、去年には長年の悲願だったウィンブルドン選手権を制して、すべての四大大会とパラリンピックで優勝する「生涯ゴールデンスラム」を達成しました。

 関係者によりますと、その後はモチベーションの維持に悩み、今月はじめに引退を決断したということです。

 国枝選手は長年、世界の車いすテニス界をリードしてきた第一人者で、四大大会のシングルスでは歴代最多となる28回の優勝を誇るなど、前人未踏の記録を次々と打ち立ててきました。

 パラリンピックには2004年のアテネ大会から5大会連続で出場し、シングルスでは2008年の北京大会と2012年のロンドン大会で連覇を果たし、おととしの東京大会で3つ目の金メダルを獲得しました。

 国枝選手は来月にも記者会見を開いて、引退を決めた詳しい理由などを説明する予定だということです。

 SNSで表明「最高の車いすテニス人生」

 国枝選手は22日の正午前、自身のSNSを更新し、22日をもって現役を引退することを明らかにしました。

 この中で国枝選手は「2023年1月22日付けで引退することになりました。夢がかなった東京パラリンピック後から引退についてはずっと考えており、昨年念願のウィンブルドンタイトルを獲得してからは、ツアーで戦うエネルギーが残りわずかであることを感じる日々でした。昨年10回目の年間王者になったことでもう十分やりきったという感情が高まり、決意したしだいです。2006年に初めて世界1位になってから17年。最後まで世界1位のままでの引退は、カッコつけすぎと言われるかもしれませんが、許してください」としています。

 また、車いすテニスの競技がさらに発展していくことへの願いや、自身の活動を支援してきたスポンサー企業や関係者、それに家族のほか、ライバル選手たちやファンへの感謝を述べ「2月7日に記者会見を予定しているので、私の気持ちを詳しくお伝えしたいと考えています」としています。

 そして最後に「最高の車いすテニス人生でした。今後も車いすテニスへのご声援をよろしくお願い致します!」とつづり、自身の代名詞でもある「オレは最強だ!」ということばを添えました。

“魔法のことば” 「オレは最強だ!」

 国枝選手が初めて世界ランキング1位になったのは2006年10月、22歳の時。それから実に20年近く、車いすテニス界の頂点に立ち続けてきました。

 そのモチベーションの支えになったのが、「オレは最強だ!」という、“魔法のことば”です。

 このことばを送ったのは、国枝選手が全幅の信頼を寄せるオーストラリア人のメンタルトレーナー、アン・クインさんです。

 2人の出会いは2006年1月、全豪オープンの会場でした。

 当時の国枝選手は、世界ランキング10位に入るか入らないかの選手。それがたった10か月で世界ランキング1位に上り詰めました。

 いったい何があったのか。

2人が出会った日、国枝選手はクインさんに「僕は世界一になれると思いますか?」と尋ねました。クインさんが「そう思う?」と尋ね返すと、国枝選手は「なりたいです」と答えました。でも、クインさんの目には、その姿は「自分自身を信じていないような感じ」に映ったといいます。

 そこで、こんなアドバイスを送りました。

 「『なりたい』ではなく、『なる』と毎日言いなさい」

 さらに、クインさんは国枝選手を選手用の食堂に案内し、皆の前で「オレは最強だ!」と叫ぶよう促しました。こうして“魔法のことば”を伝えたのです。

 「慎吾、鏡の前で毎日『オレは最強だ!』と言い続けなさい」

 国枝選手は、このことばとともに日々のトレーニングを積み重ね、10か月後、世界ランキング1位になりました。

 国枝選手は後に「試合にすごく集中しやすくなったし、心が強くなるからこそ、練習もさらに強い強度で取り組むようになった」と話しています。

 国枝選手は試合中、弱気になりそうな時にこのことばを思い出すため、白いテープに「俺は最強だ!」と手書きで書いてラケットの内側に貼っています。

 “魔法のことば”と出会ってから15年後、国枝選手にとって決して絶好調ではなかった、東京パラリンピック。その時も、鏡の前で何回も何回も言い聞かせ、自信が持てなかったみずからを奮い立たせたといいます。

 「オレは最強だ!」

 この言葉によって、国枝慎吾という最強のプレーヤーが生み出され、最強であり続けることができました。

 “みせながら勝つ選手”になれるよう努力
 2009年、25歳の国枝選手は職員として勤務していた大学を退職。プロ転向を宣言しました。

 安定を捨てて、実力勝負の世界に飛び込んだ理由は「障害者スポーツの普及と発展のため、“みせながら勝つ選手”になれるよう努力したい」。

 その言葉どおり、自身をレベルアップさせ、かつての車いすテニスではほとんど見られなかった強打のトップスピンのバックハンドを取り入れたほか、ネットプレーを積極的に取り入れるなど競技力の向上に貢献しました。

 “みせながら勝つ選手”を体現することでライバル選手たちも進化し、結果的に競技全体のレベルを底上げさせてきたのです。

 そして何よりも大きな影響を与えたのが、次世代の選手たちです。

 16歳ながら世界ランキングで上位を争う小田凱人選手は、9歳の時に左足に骨肉腫が見つかり、車いす生活になった中、映像で目にした国枝選手の圧倒的な強さに刺激を受け、車いすテニスのプロ選手になる道を選びました。現在は国枝選手と同じようにスポンサーの支援を受け、プロ選手として活躍しています。

 また、日本女子のエース、28歳の上地結衣選手は車いすテニスを始めた11歳のころ、神戸の大会で国枝選手のプレーを見て「これが本物の車いすテニスだ」と感銘を受けたといいます。その後、ロンドンパラリンピックに日本代表として初めて出場した頃には、車いすテニスを辞め、何か別のことに挑戦しようと考えていました。ところが、ロンドン大会で連覇を果たした国枝選手の姿を目の当たりにして、競技を続けることを決意したといいます。

 上地選手は以前、国枝選手の存在についてこう話していました。

 「常に進化を続けている。本当に勇気をもらえるんです」

 挫折からの“復活”と“進化”
一見、簡単に勝ち続けてきたようにも見える“絶対王者”にも挫折がなかったわけではありません。

 2016年、32歳で出場したリオデジャネイロパラリンピックでのベスト8敗退がその1つです。

 国枝選手は大会の5か月前、痛めていた右ひじのクリーニング手術を受け、1か月後に実戦復帰を果たすものの、万全にはほど遠い状態。そのまま、パラリンピックのシングルス3連覇がかかるリオ大会に出場しました。

 結果は、海外の若手選手が台頭し、ダブルスで銅メダルを手にするのがやっとでした。

 ひじの状態は日常生活にも影響が出るほど悪化し、大会後は、「引退」の文字が頭に浮かんだといいます。

休養に入った国枝選手。

 「万全な状態ならまだ負けないことを証明したい」と闘志がよみがえり、4か月後に再びコートに立ちました。

 まず取り組んだのは、得意のバックハンドの打ち方を変えることです。強烈なバックハンドがひじのけがの原因になっていたからです。

 ひじに負担のかからないようラケットの握り方やフォームを見直し、なおかつショットの威力が落ちないようにする。これまで積み上げてきたものをゼロに戻して、いちから新たなバックハンドを作り上げようとしました。

 最初はボールがネットを越えることすらできず、1万球以上を打つ反復練習を行って体に慣れさせることから始めました。

 こうして新たなバックハンドが生まれたのは、半年後。そしてリオ大会から1年4か月後となる2018年1月。国枝選手は全豪オープンで優勝を果たし、四大大会を2年4か月ぶりに制して復活を遂げました。

 競技人生最大の逆境とそれを克服した経験は、競技への向き合い方そのものを変え、キャリアの晩年になお進化を遂げる強さをもたらしました。

 国枝選手は、当時をこう振り返ります。

 「何のけがもなくプレーできる喜びを再認識した。リオの後は、大会に負けた帰りの飛行機でも、体さえ無事であればまた進めるし、どんどんチャレンジしていけると思えるようになった。変化することを以前よりも、さらに恐れなくなった」

 東京パラリンピック “涙の理由”

 東京パラリンピックの開催が決まった、2013年9月。ここから国枝選手の大きな目標の1つは、自国開催の大舞台で金メダルを獲得することになりました。

 そして、パラリンピックが開かれるはずだった2020年。国枝選手は年の初めに行われる全豪オープンを制し「自分史上一番強い」と胸を張るほど、万全な仕上がりを見せていました。

 しかし、その直後、新型コロナウイルスの感染拡大で大会の1年延期が決定します。

 「体も気持ちも力が抜けた」

 すでに30代後半を迎えていた国枝選手にとって、一度合わせた照準を定め直し、コンディションを維持することは容易なことではありませんでした。

 2021年に入ると思うようなショットが打てず「体」と「技」への不安が「心」にまで影を落とし、眠れない日々が続きました。

 時には睡眠薬に頼ったり、ベッドに横たわり体だけでもなんとか休ませようとしたりました。

大舞台が刻一刻と近づく中、6月の全豪オープンは準優勝、7月のウィンブルドン選手権では1回戦敗退と、金メダルを争うライバルたちに勝ち切れない試合が続きます。

 「負けるたびに何かを変えたことで、糸が絡まってしまい、何が正解かわからなくなってしまった。今度は絡まった糸をほどいて元に戻そうとしても、体が思い出せなくなっている。ウィンブルドンのころは、あと1か月しかなく重圧だった。毎日のように昔のビデオやノートをすべて見返した。自分のテニスの経験上、こんなに何年も過去をさかのぼったことがないくらい、何かヒントはないかとあがき続けていた。時間との闘いだった」

 もがきにもがいた末、光がようやく差し込んだのは、東京パラリンピックのわずか1週間前だったといいます。

 一番大きかったのは、国枝選手の代名詞で、攻撃を組み立てる生命線ともいえるバックハンドの復調でした。

 2018年から指導していた岩見亮コーチと話し合い、この1年に試行錯誤してきた努力はすべて捨て、最後の1か月で前の年までのバックハンドの打ち方に戻す決断をしました。

 急な修正でしたが、大会1週間前になんとか形にすることができました。

 前の年から人知れず苦しんできた腰痛も北嶋一紀トレーナーの献身的なサポートで少しずつ上向いてきました。

 なぜ、窮地から活路を見いだすことができたのか。

 3連覇のかかったリオデジャネイロパラリンピックで、ひじのけがと若手の台頭からベスト8敗退の屈辱を味わいながら、その後、どん底からはい上がって再び世界1位に返り咲いた、国枝選手。挑戦者として再び頂点を目指し走り続けてきたこの5年の経験が自らを救ったといいます。

 「リオでの挫折の経験が大きかった。『体さえ無事であればまた進めるし、進めるならばどんどんチャレンジしていけるよね』と思えるようになった」

 重圧、不安。それを乗り越えた国枝選手は、東京のセンターコートで輝きを放ちました。

 準々決勝では、15年にわたって世界のトップを争ってきた宿敵、フランスの50歳のウーデ選手を2時間18分の熱戦の末に撃破。

 さらに準決勝では、国枝選手が「ことし1番のテニス」と振り返るほどの会心の内容でリオ大会の金メダリスト、イギリスのリード選手を寄せつけませんでした。

 そして、世界ランキング8位のオランダのエフベリンク選手との決勝。ネットダッシュに素早いチェアワーク、大会直前に感覚を取り戻したバックハンドのダウンザラインと国枝選手の引き出しを全開にした試合でした。

 マッチポイント、相手のショットがネットにかかった直後。国枝選手は乾いたまめで硬くなった手のひらで目頭を押さえました。

 スタッフに抱きしめられ、涙。

 日の丸にうずくまって、また涙。

 2大会ぶりに金メダルを奪還し、いつもの冷静さとは異なる感情を高ぶらせる姿を見せました。

 「僕は、パラリンピックはスポーツとしての
魅力にこだわりたい。そうすることで、人々の考え方を変え、『障害のある人たちでもここまでできるんだ』とか『うわ、すごいな』と思うようになる。共生社会とか多様性とか、そんなことばがいらなくなることが一番の理想。世界がもっとシンプルに、競技を楽しめるようなパラリンピックになってほしい」

 取材に対して常々「人々を
熱狂させたい」と繰り返してきた国枝選手。

 東京パラリンピックで見せたテニスと涙には、2009年に
プロ宣言をして以来、プレーを通じて競技の魅力を発信することを使命としてきた国枝選手のきょうじが凝縮されていました。
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 スポーツ(プロを除く)は本来
競技する人達のものであって、見る人達のものではありません。スポーツは競技する人達楽しくすることが出来ればそれで十分なのです。本来観客のいるところである必要は無いはずです(慣れない人は却って気が散ります)。

 反対に
プロスポーツはスポーツの例外であり、観戦する人達のものであって、出場する選手達のものでは無いし、もちろん放送局員達のものでもありません。競技は観客が十分楽しめるプレーでなければなりません。

 この記事の中では
プロ(自称?)の選手「魅力」とか「考え方」と言う発言をしていますが、それはスポーツをしている人の視点からの発言であって、見る人達(観客)のためものではなく、本来のプロ選手らしからぬ“政治的”発言です。果たしてどれだけの一般観客(または一般視聴者)が競技を「楽しみ」「熱狂」したでしょうか。

 特にパラスポーツの場合は
障害の程度が一律ではなく選手によって異なり、本人の努力よりもそれが大きくものを言うことが否定出来ません。一般スポーツと同じように勝敗だけを評価して良いのかと言う問題が残ります。過度に勝負にこだわるべきではないと思います。

 正午の定時の10分間のニュース番組の中で、トップニュースとして約1分半の放映でしたが、NHKの放送番組は
“障害者スポーツ”が多すぎ、長過ぎると思います。

令和5年1月23日   ご意見・ご感想は こちらへ   トップへ戻る   目次へ