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森首相と番記者との関係

 3月28日の産経新聞「正論」欄で、慶応大学の小林節教授は次のように言っていました。

 「公平を期するために敢えて言及しておくが、私は森喜朗という政治家を直接存じ上げており、同首相が、時にマスコミでとやかく言われてしまうほど力不足の政治家であると私は思っていない。・・・森代議士が今のわが国では数少ない首相有資格者のひとりであることは間違いない。
 ただ、マスコミ(とりわけ首相番の記者達)と適切な関係を持ち損ねてしまったことがすべての悲劇の始まりで、以来、森首相は、半ば言葉尻をとらえられるようにマスコミが作る世論により追いつめられていった。これはある意味ではご本人の不徳かもしれないが、むしろ、側近が気が利かなかったがゆえの悲劇で、森総理にとってはまことにお気の毒なことだと思う」


 いくら番記者と「適切な関係を持ち損ねてしまった」からと言って、記者が言葉尻をとらえるような批判をしていいはずがありません。そのようなマスコミにより世論が作られてしまうことが問題なのであって、森首相が追いつめられたのは、森首相の「不徳」でもなければ、側近が至らなかったせいでもないと思います。

 去年の7月10日の毎日新聞にも「番記者とのやり取りを拒否 オフレコ発言報道に反発」と言う見出しで、次のような記事がありました(下記に全文)。

 「森喜朗首相は10日、慣例となっている首相番記者とのやり取りを終日、拒否した。先週末の7日、記事にしない「オフレコ」を前提として、記者団の取材慣行に対する不満や注文を語った発言が、複数の新聞で報道されたことに反発したもの。「神の国」発言をめぐる報道以来、冷戦状態にあった記者団との溝は、さらに深まった」

 森首相と番記者との関係は当時から険悪であったことが分かります。

 マスコミは首相と番記者の関係が険悪であることを読者に明確に伝える義務があったと思います。両者の関係が平常でなければ、マスコミの森首相に関する報道は公平、公正を期待できないわけですから、読者には知る権利があったと思います。
 そのことを知っていれば、読者は森首相の退陣をめぐる報道を、もう少し醒めた目で見ることが出来たと思います。

平成13年4月1日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ



番記者とのやり取りを拒否 オフレコ発言報道に反発 (2000.07.10  毎日新聞)

 森喜朗首相は10日、慣例となっている首相番記者とのやり取りを終日、拒否した。先週末の7日、記事にしない「オフレコ」を前提として、記者団の取材慣行に対する不満や注文を語った発言が、複数の新聞で報道されたことに反発したもの。「神の国」発言をめぐる報道以来、冷戦状態にあった記者団との溝は、さらに深まった。
 この日、首相と番記者のやり取りは2問2答だけ。「沖縄で米兵の引き逃げ事件があったが」という質問に対して首相は「一切お答えしません。あなた方は約束を破った」と応じ、「どの辺に不満があるのか」と突っ込まれると「それを言ったら、また書くでしょ。円滑にやれるように皆さんにお話ししたのに。書かない約束だったのに、皆さんは書いたでしょう」と不満を語った。

 首相は7日昼過ぎ、官邸内の広間(通称・喫煙室)に番記者たちを招き入れ、約25分間にわたり、日常の取材慣行について語った。要約すれば、(1)政府の公式見解は、毎日2回の官房長官会見で明らかにしており、記者団との短いやり取りでは自らの真意がなかなか伝わらない(2)発言の一部だけを取り上げられて批判されるのは不本意だ(3)記者団との歩きながらのやりとりはサービスであり、義務ではない――という内容だった。

 首相と番記者のやり取りは官邸内や国会内を歩いて移動する際に行われ、ひとつのテーマについて1分以内で終わるケースがほとんど。メモや録音は認められていないが、発言はそのまま報道するのが原則となっている。

 7日の発言の場合、首相は冒頭と最後で、2回にわたって「オフレコ」であることを念押しし、報道するなら、全文を掲載する以外は認めず、違約した場合は以後の取材を拒否すると宣言。内閣記者会は後刻、「オフレコ」を解除するよう求めたが、首相側は応じなかった。

 毎日新聞は、取材慣行に関する不満を述べたという発言の性格や、番記者たちがその場でオフレコ扱いを拒否しなかったという経緯を考慮し、7日の時点では報道を見合わせた。