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殺人に対する軽すぎる判決

 6歳の女の子に猥褻行為をしようとして、自宅に連れ込み、騒がれたために首を絞めて殺し、遺体をゴミ袋に入れて冷蔵庫の中に隠した犯人に、懲役13年の判決が言い渡されました。裁判官は「人として許されぬ」、「悪質な犯行で、刑事責任はきわめて重大」、「短絡的かつ身勝手極まりない動機に、酌むべき事情はまったくない」、「命の尊厳に対する畏敬の念のかけらもない」と、口を極めて非難していますが、その結論が懲役13年では被害者の遺族には何の慰めにもなりません。軽い刑を塗糊するためのリップサービスに過ぎません。被害者の両親は軽い求刑にも不満を抱いていただけに、判決後、涙を浮かべ、「納得できない」と声を絞り出すのがやっとで、無念さをにじませていたそうです(産経新聞6月30日夕刊)。両親の悔しさは想像に余りあるものがあります。子供を持つ親全ての共通した受け止め方であると思います。

 なぜこのような軽い判決が出てくるのでしょうか。国民の名で行われる裁判で国民の正義感に反する判決が出てくるのは民主主義国家として健全な姿ではないと思います。検察の懲役15年という軽い求刑にも両親が怒っていましたが、検事の弁護士化とでも言う現象が起きていると思います。「計画性がない」、「被害者に騒がれ、パニックに陥ったための偶発的犯行」などと、弁護士、裁判官、そして検事までもが、被告の刑を軽くする為の理由づけに知恵を出し合っています。被告の刑を軽くするうまい言い訳を考えたものが、評価される、それが現在の刑事裁判を取り巻く状況です。被害者が騒いだり抵抗するのは当たり前で、それが刑を減ずる理由になるはずがありません。被害者がおとなしくしていなかったのが悪いとでも言うのでしょうか。

 先日子どもを交通事故でひき殺された子どもの両親が、犯人が不起訴となったことを聞き、検事にその理由を問いただしたところ、「言う必要はない!」と一蹴されたことが報じられていましたが、被害者のことよりも犯人のことを優先して考えるという意味で、同一線上にある現象だと言えます。戦後の司法制度は、弁護士、判事、検事のいわゆる「法曹三者」が同じ司法試験を受け、司法修習所で学ぶことが特徴になっていますが、役割の違う三者が身内意識ばかり強くなって、同じ事しか考えなくなっては救いようがないと思います。戦後の司法制度を抜本的に見直す時期に来ていると思います。

平成10年7月1日
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