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献穀祭訴訟、「判決理由」の効力

 近江八幡市が皇室行事である新嘗祭への献穀に、公金を支出したことに対して、違法な支出であるとして、住民の弁護士らが返還を求めていた裁判で、請求そのものは棄却されたものの、判決理由の中で「公金支出は“違憲”」とされました。
 判決の結論は返還請求の棄却で原告の敗訴ですが、原告団長は「形の上では敗訴だが、我々が一番に求めたのは違憲の認定。天皇の祭祀への支出に対して、これほどはっきりと違憲と言い切った判決は初めてで、目的は達せられた」と実質的な勝利だと評価しています。それは判決主文では主張が認められなかったものの、判決理由で原告の主張が認められたからです。

 一体、判決理由には判決主文と同じような効力があるのでしょうか。あるとすれば、どのような拘束力があるのでしょうか。もし、何らかの拘束力があるのなら、判決の主文がどうであろうとも、その判決理由に不服のある訴訟当事者には上訴の権利がなければなりません。そうでなければ裁判を受ける権利がないことになります。今回の判決では結論として市長は返還義務はないと認められました。支出は違法であったが支出をしたことについて、過失がなかったからであるとされています。形式的には被告の勝訴です。従って被告には上訴する権利がありません。

 もし、市長が来年も同じ事を繰り返したら、どうなるのでしょうか。同じ裁判が繰り返されて今度は市長に過失があるとして敗訴になるのでしょうか。そうなると今回の判決理由は法的な拘束力があることになります。判決理由が警告の意味を持つことになります(警告をするというのは裁判所の役割とは思えませんが)。被告を拘束しておきながら、上訴の道がないというのは、裁判を受ける権利の侵害であり、憲法違反です。裁判所が憲法に違反することをするはずがないと考えれば、判決理由には何の拘束力もないと考えざるを得ません。国学院大学の大原康男教授も「違憲部分は傍論に過ぎず判例とはならない」と言っています。拘束力のない判決理由の議論に時間と労力を費やすのは無駄なことだと思います。

 新聞の報道は「今回の判決は、宗教儀式に直接公金が使われることに厳しい歯止めをかけており、今後の指針となると見られる」(朝日新聞)となっていますが、そういう解釈は誤りと言うことになります。こういう誤解を生まぬ為にも、裁判所は判決主文(公金返還の必要があるか否かの結論)に必要なこと以外は判決理由として言うべきではありません。それは余計な事で、裁判所の職権乱用になりかねません。法廷は裁判官の演説会場ではないのです。

 原告兼弁護団長の吉原弁護士は「これが合憲と言われれば、この世に憲法がないのと同じだ」と話していますが、私は進駐軍が作った憲法などなくても、一向に構わないと思います。皇室と神道は一体不可分です。そして皇室は国民統合の象徴です。皇室の行事は単なる私的な行事ではありません。皇室の行事がたとえ宗教的な色彩を帯びているものであっても、国や、自治体がその行事に参加することを妨げるべきではないし、その必要は全くないと思います。

 国民全体の問題である神道と行政の関わり方と言う政治問題が、国民不在の法廷で、少数の弁護士と裁判官の議論で決まっていくということが、民主主義の健全な姿であるかどうか非常に疑問に思います。また、新聞の報道は原告について、単に「住民」としか報道していませんが、このような「重大裁判」で原告の正体について何も報道しないのは、読者の知る権利について、新聞の使命を果たしているとは言いがたいものがあります。

平成10年12月19日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ