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最高裁の政治的思惑 −判決理由に関係ない意見を言ったり言わなかったりするのはなぜか−

 京都市の住民らが、京都市教育委員会が小中学校に「君が代」の録音テープを配布し、卒業式などで演奏させたのは、特定思想の押し付けで違憲だとして、テープ購入代金の市への返還などを求めていた裁判で、最高裁は1月30日、住民の請求を退けました。しかし、裁判所は「君が代」を国歌として斉唱させることの違憲性については憲法判断を避け「テープは何でも録音でき、購入による損害は生じていない」として、住民らの上告を棄却しました。

 原告が求めたのは決して、4万5千円の返還ではなく、「君が代」斉唱の違憲性の確認だったことは明らかです。どうして最高裁は憲法判断を避けたのでしょうか。君が代を録音テープでなく、再使用が不可能なCDに録音して配ったら、憲法判断をしたのでしょうか。それとも憲法判断をするまでもなく、原告の主張を退けることができたからでしょうか。それならば裁判所は、判決に必要ないときはいつも憲法判断を省略しているのでしょうか。そうではないと思います。

 平成7年、在日韓国人が憲法15条(普通選挙の保障)を根拠に、地方選挙の参政権を求めていた裁判で、最高裁は原告の訴えを退けたものの、判決理由の中で余計な憲法判断をした例があります。この裁判で裁判所は原告の請求に対して、「憲法が権利として、外国人の選挙権を保証しているとは言えない」と判断して請求を退けました。これで原告の主張に対する裁判所の回答としては十分だと思います。これ以上の事は言う必要がありません。被告である国の、「外国人に対する参政権付与は違憲」という主張に対しては、「そのような憲法判断をするまでもない」といって原告の請求を棄却することもできたはずです。ところが裁判所は判決理由の中で、「憲法は、国内永住者等自治体と密接な関係を持つ外国人に、法律で選挙権を与えることを禁じているとは言えない」と述べました。これは判決主文の説明に必要ないばかりか、判決の趣旨を混乱させる、余計な発言です。そのような判断は、在日外国人に選挙権を与えた選挙が実際に行われ、その選挙が憲 法違反であるとする訴訟が起こされたときに初めてすればいいことです。

 この裁判は「定住外国人に参政権を与えないことが憲法に違反するか否か」が争われたものであって、「定住外国人に参政権を与えることが憲法に違反するか否か」が争われたものではありません。従って、このような判決理由を裁判所が述べたところで、それは判決の主旨である、「定住外国人に参政権を認めないことが憲法に違反しているとは言えない」と言う結論とは直接関係がありません。そのような判決理由に判例としての拘束力があるのでしょうか。裁判官は専制君主ではないのですから、裁判官の言ったことは何でも判例としての拘束力があるという訳ではないと思います。

 裁判所は原告によって憲法違反が主張された訴訟のときには、その主張に対して、裁判所の見解を明らかにするべきであると思います。逆にその主張の当否に直接必要ない憲法判断はするべきではないと思います。「君が代の録音テープ」の裁判で言えば、「テープは何でも録音でき、購入による損害は生じていない」などという屁理屈でごまかさず、卒業式における国歌「君が代」の斉唱が合憲か、違憲か判断すべきです。最高裁は、愛媛県玉串料訴訟で、わずか5千円、1万円の玉串料、供物料の支出について、大法廷で違憲の判決を出しているのですから、金額の多少の問題ではないはずです。

 最高裁が、在日韓国人の裁判では余計な憲法判断をしたにもかかわらず、「君が代の録音テープ」については必要な憲法判断を避けたのはなぜでしょう。裁判所が、憲法判断をしたり、しなかったりする基準が明かではありません。明確な基準がないのは、政治的な思惑があるからだと思います。最高裁の判事達は、「在日外国人に参政権を認めることは合憲である」と言う政治的発言をしたかったのであり、反対に「君が代が国歌であることを事実上認めた形の判決」は何としても避けたかったのだと思います。最高裁は判決にあたり憲法判断をするか、回避するかについては、判決主文の説明として必要か否かではなく、
政治的思惑によって判断しているのだと思います。

平成11年2月13日  ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ