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和解の濫用は裁判所の自殺
 

 「尼崎公害訴訟」で大阪高裁が、第一回口頭弁論の前に、職権で和解を勧告しました。8月30日の読売新聞は次のように伝えています。

 「・・・同裁判長は1988年の第一次提訴以来、130人を超える一審原告が亡くなったことを指摘し、『(控訴審で)完璧な判決をするにはなお相当長期間を要し、さらなる犠牲者の続出が懸念される』と述べた。その上で、人の命に限りがあることを考えると、果てしない時間を費やす解決方法は、当事者にとっとも、司法に対する国民の期待の見地からも最善と言えるか疑問だ』と訴訟継続に否定的な見解を示した」
 「・・・妹尾裁判長は『訴訟は一審判決で半ば役割を果たした』とし、『20世紀に発生した公害事件を今世紀のうちに解決することを目指す』と述べた」


 裁判長の言う「完璧な判決」とは何でしょう。裁判が「適当な判決」で良いとは誰も思いませんが、この裁判だけが「完璧な判決」を求められているわけではないと思います。他の裁判では、そこそこの時間内に判決を出しているのに、どうしてこの裁判ではそれが無理なのでしょうか。時間ばかり際限もなくかかり、いつまで経っても判決が出せないのは、原告の主張にもともと無理があり、立証できないことを立証しようとしているからではないのでしょうか。

 一定の時間内に立証できなければそこで裁判を打ち切り、判決を出すべきではないのでしょうか。原告の請求を棄却して、あとは福祉と交通政策の問題として、政治に解決をゆだねるべき問題ではないのでしょうか。裁判長は、「事件を解決する」と言っていますが、この認識がおかしいと思います。裁判所は原告の訴えを、法と証拠に照らし認めるか認めないかの判断をすればいいのであって、それによって事件が解決するかどうかとは、全く別問題です。事件を解決するのは裁判所の役割ではありません。それを和解で解決しようと言うのは、裁判所の政治への介入だと思います。裁判所が政治的役割を果たそうとするのは誤りです。

 和解とは予想される判決がほぼ明らかであり、手間、時間を節約するためとか、争われている問題が専ら当事者個人だけの問題で、一般国民には全く利害関係がないとか、争われているのが単に金額だけというような場合にのみ採用されるべきです。事実関係や、因果関係、責任の有無について争いがあったり、一般国民の利害にかかわる事件に安易に和解の勧告をすべきではないと思います。

 「人の命に限りがある・・・」と言っていますが、こういう裁判所の主張は自分の無能を棚に上げて、裁判所の責任放棄を正当化しようとするものです。当事者と国民の期待を口実にしていますが、裁判所には「国民の期待」が何であるか、当事者(国)や、国民にとって何が「最善」であるかが、どうして判るのでしょうか。根拠のないことを口実にすべきではありません。国が賠償金を支払うときは国民の税金が使われます。判決による説明無しで、密室の談合で決められた結論で、国民の税金を使うわけには行きません。国民は司法の明快な判断を期待しているのであって、密室の協議で決められた、何の法的根拠も証拠も公表されない結論を期待してはいません。

 「訴訟は一審判決で半ば役割を果たした」というのは、三審制の否定です。安易な和解の勧告は国民の裁判を受ける権利を侵害する恐れがあります。また、「・・・さらなる犠牲者の続出が懸念される」と言っていますが、裁判の長期化が犠牲者を増やしているわけではありません。巧妙な話のすり替えです。「20世紀に発生した事件云々」に至っては、笑止千万です。裁判所は今年の12月までに、古い事件は全部片づけるというのでしょうか。それとも、この事件だけが「今世紀中」なのでしょうか。もし、そうだとしたら、その理由は何なのでしょうか。こういう素人向けの発言にはいかがわしさを感じます。

平成12年9月3日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ