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「疑惑の銃弾」裁判
 

「疑惑の銃弾」から14年。裁判は三浦被告の無罪釈放という思いもよらぬ結果になってしまいました。
 裁判では無実の人を一人でも有罪にしてはならないというのは、理屈ではその通りだと思います。しかし、実際神ならぬ人間のする裁判で、100%確実な有罪などはないのです。被告人が自白していても100%確実とは言えません。証拠とか、証明とか言っても自然科学のように検査の結果白黒がはっきりでるものではないのです。証拠と、状況証拠も本質的な違いはありません。証拠として提出された事実を、裁判官が証拠として、証明されたと認めるか、証人の言うことを真実と認めるかと言う判断の問題なのです。100%確実に証明されたと判断するか、99%の確実性をもって証拠と認めるか、或いは95%の確実性で証拠と判断するかという問題なのです。

 そして、犯罪には全て必ず証拠が残るというものではありません。あってもわずかな証拠しか残らない場合もあります。検察側の立証のハードルを高くすれば、無罪放免される犯罪者が増えるのを我慢しなければなりません。ハードルを低くすれば、無実の人が有罪とされる冤罪事件が増える事になります。どちらをとるか、ハードルの高さをどのぐらいにするかを決めるのは政治の問題です。現在のハードルが高すぎると国民が判断したらハードルの高さは下げられなければなりません。

 もともと、裁判とは誤った判断をする可能性をもっているものです。裁判は誤った判断をする可能性があることを前提に行われているとも言えます。我が国では三審制がとられていますが、間違った判断をする可能性がなければ裁判を三回する必要はありません。間違っているかもしれないので何度も裁判をするのです。しかし、三回すれば絶対に間違いがないというものではありません。三回しても間違っている可能性はありますが、際限なく裁判をするわけには行かないので三回で打ち切っているのです。もし、それがいけないと言うのなら、裁判をやめるしかありません。

 新聞には相変わらず、どういう基準で選ばれたか説明のない、識者や専門家の意見が掲載されていますが、国民の多数がどう判断しているかは全く報道がありません。数年前、アメリカで有名なプロスポーツ選手のシンプソンが妻を殺害した裁判で、無罪となったときは、アメリカのマスコミは直ちに世論調査をして、国民がどのような判断をしているかを報じていました。それが民主主義国家におけるマスコミの当然の義務であると思います。

 裁判はあくまで裁判官という人の判断です。そして裁判官は所詮選考試験の結果採用された、公務員に過ぎません。公務員の判断が正しいか否かを決めるのは主権者である国民です。裁判官の判断が正しいか否かについては主権者である国民の審判が下されなければなりません。「司法の独立」とは三権の分立の中で行政権、立法権に対して独立しているという位置づけです。主権者である国民から独立した存在であってはなりません。国民の手の及ばない存在であってはならないのです。現在の裁判制度は主権者の審判の機会が不十分だと思います。

 事件から24年経過してなお裁判が続いている甲山事件といい、日本の裁判はあまりに長すぎます。長すぎる裁判は全て立証責任のある検察に不利に働き、真相究明を不可能にしています。新聞報道でも検察側がこれ以上の証拠を集めるのはもはや不可能といわれています。日本の司法制度は大きな欠陥があると思います。

平成10年7月4日     ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る   C目次へ