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根拠のない裁判所の男女平等認定
 

 8月21日の読売新聞は、「高裁も『男女平等』支持」と言う見出しの記事で、裁判所が交通事故で死亡した女児の逸失利益の認定で、男女別の基準ではなく、全労働者の平均賃金を採用したことを次のように報じていました。

 「近藤裁判長は判決の中で、『本来、労働能力には性別による差は存在せず、少年少女には多様な就職の可能性がある。少女の交通事故死に際して女子労働者の平均賃金を採用するのは理由のない差別で、合理性を欠く』と述べた」

 裁判所は、「本来、労働能力には性別による差は存在せず」と言っていますが、何か科学的な根拠があるのでしょうか。

 日本では江戸時代までは、人口の80%ぐらいが農民で、残りの20%が武士と職人と商人でしたが、農業労働において男女の労働能力に差はなかったでしょうか。大工に女性がいなかったのはなぜでしょうか。女性の武士がいなかったのはどうしてでしょうか。みんな「理由のない差別」の結果なのでしょうか。
 男女の労働能力には明白かつ顕著な差があったと言うべきです。江戸時代に「男女の労働能力に差はない」と言ったら、物笑いの種にしかならなかったと思います。

 裁判所の言うとおりだとすれば、江戸時代には顕著であった男女の労働能力差が、現代社会においては消滅したという事になりますが、生物学的に考えてそんなことが有り得るのでしょうか。短期間に男性の能力が退化するとか、あるいは女性の能力が進化して差がなくなる等と言うことが有り得るのでしょうか。

 私は決してそんなことはないと思います。変わったのは職業であって、能力ではないと思います。職業の変化によって、仕事に対する能力は力仕事のように簡単には分からなくなり、男女を問わず能力差は一目瞭然ではなくなったというにすぎないと思います。これは決して人間に能力差がなくなったことを意味しませんが、そこに女性達が男女に能力の差はないと錯覚する余地が生じたのだと思います。

 裁判所は法律で定められた「雇用の機会均等」と、客観的な事実である「能力」を混同しているのではないでしょうか。機会を均等にしたからと言って、能力は均等にはなりません。

 最近、裁判官は世間知らずだと言う批判がありますが、この裁判官は公務員の社会だけを見て判断しているのではないのでしょうか。民間企業の仕事は、利益を上げると言う客観的な指標があるため、比較的客観的に仕事の能力差を読みとることが出来ますが、公務員の仕事には客観的な指標がないので、漫然と見ているだけでは能力差は把握できません。
 公務員だけ見ていると男女の能力に差がないように見えるのは、公務員の世界は外部との競争がなく、仕事に緊張感が欠け、厳しい能力査定もない悪平等の社会であるため、女性でも務まっているという実態があるからだと思います。そして、そのような悪平等社会を嫌って、有能な男性は公務員にはならないので、一層その傾向が助長されているのだと思います。小学校の教師がその良い例です。

平成13年9月24日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ

(追記)
 この男女の労働能力には本来差がないという主張は、以前、労働省もしていました。週刊ポスト(平成9年6月27日号)に政府公報として掲載されたものをご紹介します。今回の判決と共通して感じられることは、男女雇用機会の均等と、能力の均等が故意に混同されていると言うことです。法は全ての国民に機会の均等を保障していますが、全ての国民の能力が均等でないことは、言うまでもありません。