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足利事件、誤判の責任は誰が負うか −判事には鑑定書の当否を判断する能力はないにもかかわらず、当否を判断している−

 6月17日の読売新聞は、「足利事件 栃木県警本部長が菅家さんに謝罪」という見出しで、次のように報じていました。
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 栃木県足利市で1990年5月、女児(当時4歳)が殺害された「足利事件」で、無期懲役刑の
執行が停止され、釈放された菅家利和さん(62)が17日、宇都宮市の栃木県警本部を訪れ、石川正一郎本部長から謝罪を受けた。菅家さんが、捜査機関から直接謝罪を受けたのは初めて。
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 一般論として、誤りがあったときに謝罪をすることは当然ですが、今回の事件の場合、
本当に謝罪すべき人は別の人ではないのでしょうか。

 確かに警察の捜査には誤りがありました。しかし、
警察の捜査、検察の主張に誤りがあったのは、今回の裁判に限りません。検察が起訴して、裁判の結果無罪となったものは、多かれ少なかれ捜査に誤りがあったと言うことになりますが、そのようなときにすべて、警察・検察が謝罪しているかというと決してそんなことはありません。裁判で無罪になっても、警察も、検察も謝罪しないのが普通です。
 それなのに、何故、今回に限って警察と検察は謝罪したのでしょうか。それは、裁判で被告人の
有罪が確定して、彼が長期にわたって服役したからに他なりません。しかし、言うまでもないことですが、有罪判決を確定させたのは裁判官(判事)であって、警察でも検察でもありません。謝罪すべきは有罪判決に関わった判事達ではないのでしょうか。

 謝罪すべきは
判事達であるにもかかわらず、彼らに謝罪の動きはありません。何故、彼らは謝罪しないのでしょうか。それは、自分たちは科学者ではなく、DNA鑑定という科学的な鑑定の当否を見極めろと言うのは無理であり、結果が間違っていたとしても、それは鑑定をした者の責任であり、判事に責任を負えというのは不当だと認識しているからだと思います。

 そうです、
判事は素人なのです。彼らは法律の専門家ではありますが、科学者でも医師でもありません。もちろん中には個人的に勉強している人もいると思いますが、それはあくまで個人差の問題です。素人に科学的鑑定、医学的鑑定の当否を判断させるのは無理であり、無理をさせていることが根本的な問題だと思います。

 裁判で、精神鑑定が争点になることがよくありますが、
検察と弁護側が異なる鑑定結果を出したときに、素人である裁判官がその当否をどうやって判断するのでしょうか。鑑定人の経歴とか肩書きから判断しているだけではないのでしょうか。

 
判事が素人であるというのは、科学、医学の問題に限りません。法律以外の問題については、彼らはすべて素人です。しかるに、裁判では法律知識以外のものが争点になることがしばしばです。その法律知識以外の最大のものが何かといえば、それは「常識」です。事故が起きたときに、それは誰の過失になるのか、誰に、いかほどの注意義務があるのか、それらはすべて常識によって決まります。犯罪が起きたときに、それがどれほど凶悪であるかも常識によって決まります。法律の定める「正当な理由」に該当するかどうかも、常識に左右されます。

 多くの裁判は法律知識よりも、法律に書いていない
常識が実質的な争点であるといっても過言ではないと思います。判事はよく「社会通念」という言葉を使いますが、社会通念とは常識に他なりません。しかし、判事を職業としている人間の常識が、実際の世間の常識と一致すると言う根拠はどこにもありません。今の裁判は、「常識」については一素人に過ぎない、一判事の個人的な常識によって左右されていると言えます。そして、それが非常識な判決が続出する最大の原因であると思います。

 この問題点が認識されて登場したのが
裁判員制度です。裁判を「常識」の一素人である判事の判断に委ねることをやめ、世間の本当の常識を裁判に反映させようとする画期的な試みです。そして、次のステップとしては、専門家の裁判員制度を導入すべきだと思います。各種の鑑定の当否の判断を、一素人の判事に委ねることをやめ、多数の専門家裁判員の合議により判断すべきだと思います。法律の専門家である判事は、裁判の進行係をつとめればよいと思います。

平成21年6月27日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ