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 民主政治を脅かす裁判所

 山口地裁で元朝鮮人“従軍慰安婦”に慰謝料の支払いを命ずる判決が言い渡されました。新聞の見出しは単純ですが、見出しを読んだだけでは誤解しやすい裁判です。従軍慰安婦に関して賠償金を払えと言っているわけですが、50年以上も前のことで支払えと言っているのではなく、「河野談話」以後の政府の対応を批判して支払えと言っているわけです。いくら何でも50年以上も前のことで支払えとは言えなかったので、苦し紛れにこういう論法を取らざるを得なかったのでしょうが、実質的には50年以上前のことで賠償金を払えと言っているのと同じです。原告のねらいも「河野談話」よりも50年以上前の「本題」にあることは明かです。新聞の受け止め方、報道の仕方もその線に沿っています。

 「河野談話」の虚構性と、従軍慰安婦の実体が全て裁判所の言うようなものであったかはさておくとして、この判決は売春が合法的な稼業で、娘の身売りすら珍しくなかった、東アジアに共通する貧しい時代という背景や、戦争の都度人類が繰り返してきた蛮行の歴史などを全く無視して、ひたすら現代の道徳規準で「女性差別」、「女性の人格の尊厳にたいする根底からの侵害」として非難するという、超単純思考の産物です。過去のことを現在の価値観で断罪する独善的で、ナンセンス極まりないものだと思います。「憲法」と「人権」の二語しか頭にない、狭視野、単細胞思考の典型です。

 しかも憲法に何ら明文の規定がないことを、際限もなく自己流解釈、創造的解釈をして結論を出しており、このような判断が許されるならば、憲法の前文を縦横無尽に解釈し、「憲法」と「人権」の二語を自由に操れれば、裁判所はいかなる判決を出すことも不可能ではなくなります。憲法解釈の下に裁判所は何でもできることになります。法律を作ることまで立法府に命令するとあっては、三権分立など全く有名無実です。民主政治の否定です。中世のローマ法王庁が聖書の解釈権を独占していたことから、政治や社会のあらゆる分野に独裁的権力を振るっていたこととよく似ています。「日本国憲法」はもはや一法律ではなく、聖職者(裁判所、日弁連)の解釈によって様々な力を発揮する、国民にとって神聖不可侵の「聖書」に成りつつあります。

 歴史的に見れば、朝鮮は我が国の植民地でした。植民地の土地や人間は極論すれば宗主国のものです。植民地は収奪の対象であったのがふつうで、植民地の人間に人権という概念は元々ないのです。それが植民地支配の常識です。ヨーロッパ諸国がアジア、アフリカ、ラテンアメリカの植民地で何をしたか、少しでも調べる気があれば、容易に判ることです。彼らがアジア人、アフリカ人、インディオに対して行ったことが人権問題にならないのは、彼らが人権を尊重したからではなく、人間としてみていなかったからと言う方が真実に近いと思います。日本の植民地支配は、彼らに比べれば「総じて」人道的で、建設的な支配であったと言えると思います。収奪に徹することなく、なまじ、人道的な支配であったために、それを逆手に取られ、人権侵害などと言われる余地が生まれたのです。

 裁判官は所詮選考試験で採用された公務員に過ぎません。いや、実際には選考試験すら十分に行われていないということが最近判りました。司法修習生から判事への「任官拒否者」が1〜2名出たことがニュースになると言うことは、逆に言えば通常は希望するものは全員採用されていることを意味します。そのような公務員の採用方法と、裁判の過程で国民のチェックが全くない裁判制度が、裁判所の病気を悪化させているのだと思います。

  平成10年5月13日     ご意見・ご感想は   こちらへ      トップへ戻る     C目次へ