C65
最高裁にも裁判員制度を

 7月25日の読売新聞は、「求刑超え裁判員判決破棄の判決要旨」と言う見出しの記事と、「求刑超え判決破棄 元裁判員 不満の声」という見出しの、2本の記事を掲載していました。
**************************************************************
求刑超え裁判員判決破棄の判決要旨
2014年7月25日3時0分 読売新聞

 大阪府寝屋川市の幼児虐待死事件で、最高裁第1小法廷が24日、求刑の1・5倍だった裁判員裁判の量刑判断を破棄した判決の要旨は次の通り。

 【理由】
 刑事裁判での量刑判断では、量刑要素が客観的に適切に評価され、結果が公平性を損なわないことが求められており、これまでの量刑傾向を視野に入れて判断されることが重要な要素だ。

 この点は裁判員裁判にも等しく当てはまる。裁判員制度は刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。したがって、量刑に関しても、制度導入前の先例の集積結果に相応の変容を与え得ることは当然想定されていた。しかし、裁判員裁判といえども、他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならず、おおまかな量刑の傾向を共通認識とした上で、これを出発点として事案にふさわしい評議を深めていくことが求められる。

 1審判決は、求刑について、本件の幼児虐待の悪質性と被告2人の態度の問題性を十分に評価していないとし、児童虐待事犯に対しては今まで以上に厳しい罰を科すことが法改正や社会情勢に適合するなどと説示している。

 これまでの傾向を変容させる意図を持って量刑を行うことも、裁判員裁判の役割として直ちに否定されるものではない。しかし、そうした量刑判断が是認されるには、従来の傾向を前提とすべきではない事情の存在について、具体的、説得的に判示されるべきだ。

 1審判決では、量刑の傾向から踏み出し、検察官の求刑を大幅に超える量刑をすることについて、具体的、説得的な根拠が示されているとはいい難い。量刑判断は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する

 【白木勇裁判長(刑事裁判官出身)の補足意見】

 量刑は、直感によって決めればよいのではなく、客観的な合理性を有するものでなければならない。
 評議において、裁判官は裁判員に対し、同種事案においてどのような要素を考慮して量刑判断が行われてきたか、あるいは、そのような量刑の傾向がなぜ出発点になるべきかなどの事情を適切に説明する必要がある。そうした過程を経て、量刑の傾向と異なる判断がされ、裁判例が蓄積されて量刑の傾向が変わっていくのであれば、それこそ国民の感覚を反映した量刑判断であり、裁判員裁判の健全な運用だというべきだ。
---------------------------------------------------------------------------------------

 裁判所は「公平」を強調していますが、誰(何)と比較しての公平なのでしょうか。過去の判例を基準として、それを逸脱するときは特別な根拠が必要だと行っていますが、この判事は裁判員制度の本質を理解していません。裁判員制度は従来の職業判事たちの判断が「信用できない・誤りである」という認識の下に創設された制度であることを肝に銘じなくてはなりません。
 
裁判員は忙しい中、過去の判例を勉強しにわざわざ裁判所に「出頭(裁判所は裁判員に対して出頭を命じていますが、出頭とは、そもそも犯罪者・被疑者に対して使われる言葉で、このことだけを見ても裁判所がいかに裁判員に対して偏見を持っているかを知ることができます)」してきているのではないのです。判事を説得する説明は不可欠ではありません。どうしても聞きたいというのであれば、「従来の量刑は軽すぎて誤りであった」と一言言えばそれで十分です。
 
過去の事例との公平を主張しているのなら、それは的外れの主張です。

 量刑で過去の相場を追認しくことを求められるのなら、裁判員制度の意味がありません。そうでなく、現在裁判員制度の下で行われているの類似の裁判と比較して「公平」を欠くというのなら、もう少し具体的に他の事例を指摘するべきです。
 近年裁判員裁判において、求刑を上回る判決が急増している現状を考えれば、それは、既存の検事・職業判事たちに対する警鐘であり、「不公平」の非難的外れです。問題の本質を隠蔽する欺瞞判決と言うべきです。
 
 白木裁判長は補足意見こで直感に頼らずと言っていますが、過去の事例、悪質さは千差万別であり、過去の事例は基準にはならないのですから、職業判事の説明は説教・説得となって
裁判員を誘導する恐れがあります。
************************************************************
求刑超え判決破棄 元裁判員 不満の声
2014年7月25日3時0分 読売新聞

 裁判員らが児童虐待防止の願いを込めた「求刑超え」の量刑判断は、最高裁で破棄された。24日の上告審判決は先例重視を前面に打ち出し、裁判員との評議の改善を地裁の裁判官に求める内容となったが、1審の裁判員からは戸惑いの声が上がった。

最高裁 「先例重視」前面に
 ◆裁判員
 「ほかの傷害致死事件とは悪質性がまるで違うのに、過去の量刑傾向に合わせた判決になるのは残念でならない」。1審・大阪地裁で裁判員を務めた男性は取材に対し、最高裁での判決破棄に対する不満をあらわにした。2012年3月の1審判決は、児童虐待防止を社会に呼びかけるため、あえて「過去の量刑傾向との比較はできない」と判決理由で言及。当時の記者会見で裁判員から、「懲役15年という判決を、次に虐待事件を担当する裁判員が参考にしてほしい」などの発言が相次いでいた。

 昨年3月に岐阜地裁で求刑を上回る判決に携わった元裁判員の男性(65)は「裁判官に流される人が増えないか心配だ」と語った。

 ◆被告ら
 岸本憲あきら被告(31)は判決後、大阪市都島区の大阪拘置所で取材に応じた。無罪を主張しており、事実認定を見直さなかった最高裁判決を批判。量刑判断については「納得はできないが、今後、裁判員裁判の評議で、この判決が裁判員らに説明されることになるのだろう」と語った。

 地裁の裁判官は今後、最高裁が示した判断に沿った評議運営を迫られる。あるベテラン裁判官は「量刑傾向を超える判決を言い渡すような場合には、その根拠を判決で十分に説明できるようになるまで、丁寧に議論をしなければならない」と課題を口にした。

 一方、日本弁護士連合会刑事弁護センター事務局次長の宮村啓太弁護士は「裁判所が量刑傾向を重視して判断するということを念頭に、先例を踏まえて妥当だと説明できる量刑を主張するなどの弁護活動が求められる」と語った。

「評議」研さん必要

 量刑に詳しい原田国男・元東京高裁部総括判事の話「判決は、裁判員と評議する裁判官に対して、量刑傾向の意義を説明するという職責を果たすよう促しただけで、裁判員の感覚を軽視しているわけではない。仮に先例から外れた量刑結果を言い渡す場合でも、充実した評議さえ行われていれば、説得力のある判決理由は必然的に伴ってくる。裁判官は評議の進め方について研さんを重ねるべきだ」

「説明」に傾く心配

 裁判員制度に詳しい四宮啓・国学院大教授(刑事司法制度)の話「量刑に公平性が求められるとの最高裁の指摘自体はその通りだが、この判決を受けて裁判員裁判の運用が過剰に『
先例重視』に傾かないか心配だ。裁判官が量刑傾向を詳しく説明し過ぎると、裁判員は自由に意見を言いにくくならないか国民の良識の反映が制度の根本だということを裁判員も裁判官も忘れないでほしい」

【解説】市民感覚との調和必要

 この日の判決は、裁判員と評議で向き合う裁判官に、過去の量刑傾向の重要性を再認識するよう強く求めた。

 今年6月時点で裁判所のデータベースに登録された
子どもの虐待死事件は約70件で、大半は懲役9年以下。1審判決が触れた「社会問題化した児童虐待の防止」という観点を加味しても、懲役15年は先例との乖離(かいり)があまりに大きかった。

 裁判員裁判での
求刑超えの判決は今年5月末までに49件に上り、従来の刑事裁判の約10倍のペースだ。一方で、法廷で反省を示す被告の様子などから刑を大幅に軽くした例もあり、刑罰の公平性が崩れることへの裁判所側の危機感は年々高まっていた。最高裁の司法研修所は2012年に「量刑は犯罪事実そのものを基本にすべきだ」との研究報告を公表しており、今回の判決もそれに続く地裁の裁判官への警鐘と言える。

 最高裁は判決で、量刑傾向から踏み出す場合には説得的な判決理由を示すべきだとしており、裁判員の感覚を反映させて先例から外れること自体は否定していない。ただ、どのような理由であれば「説得的」と言えるかは説明されておらず、裁判官が萎縮して裁判員の意見を取り入れることに消極的になる恐れもある。

 司法研修所は今年から、評議の進め方を主なテーマに裁判官同士の研究会を開催している。制度開始から5年。その意義が社会に浸透してきた裁判員の参加を形だけにしないためにも、先例と市民感覚を調和させる評議を実現していかなければならない。(松山翔平)
------------------------------------------------------------------------------------------------

 およそ
民主主義国家においては、民意を尊重するのは根本原理であり、三権分立も司法の独立も国民主権を前提とし、その上に成り立っている制度であることを想起しなければなりません。
 司法の独立とは非常に誤解を招く表現ですが、
司法が国民から独立した存在であると認識している人がいるとすれば、それは大変な誤解と言うべきです。
 国民の代表でも何でもない
一介の司法官僚が、民意を無視し、民意を否定する判決を出すなどと言うことはあってはならないことです。
 
 こういう事態が起こることは裁判員制度が発足する当時から、危惧されていたことです。
 最高裁は、当初から裁判員制度に消極的でしたが、裁判員制度の導入は避けられないものと認識するや、いかにしてそれを形骸的なものにとどめ、実質的に司法官僚(職業判事)独裁の実質を維持するかに汲々としていたからです。裁判官を3名とし、裁判員を6名にするなどの数の構成にも重大な関心を示し、裁判員6名のうち2名が判事側につけば判事側の勝利となるように工夫するなど、裁判員の影響力を排除することばかり考えていました。今日の上級審による裁判員判決否定の続出は当然の帰結です。

 これから予想されることは、裁判員の辞退者が急増するでしょう。熱心な審理はなくなるでしょう。今でも裁判所は裁判員に出頭を命じたりしていますが、
公民の権利・義務を果たすために裁判所に赴く人たちに“出頭”を命じるなどはあってはならないことです。この辺からすでに最高裁の感覚は狂っているのです。

 今後は形骸化した裁判員制度を継続するか、裁判員制度を抜本的に強化するかの議論が始まるものと思います。是非それをしなければなりません。

 改革は高裁、
最高裁などの上級裁判所にも裁判員制度を導入することです。裁判員制度を地裁に限る理由はありません。地裁で採用されている以上、高裁、最高裁に導入することが司法制度に抵触するという理由もないはずです。

 その際大事なことは、現在の地裁の裁判員裁判についてもいえることですが、
職業判事の数は必要最小限として、彼らは裁判の進行係に徹すると言うことです。職業判事が優越的な立場を利用して裁判員を“説得”するというようなことがあってはなりません。事実関係に争いがあり、科学的な判断が必要なときは、科学の専門家に鑑定を依頼し、または証人として招けばいいのです。被告を処罰すべきかどうか、量刑はどの程度とするべきかは、もっぱら裁判員の合議により決定すべきです。職業判事の意見はあくまで参考にとどめるべきです。

 我々はなぜ裁判員制度が始まったかをもう一度考えなければなりません。それは、(検事・弁護士も含めて)
司法の常識と国民の常識の乖離が甚だしく、裁判を業界の人間に任せておけないという危機感からであったはずです。

 一般の国民にとって、身近に起きた暴力事件・詐欺事件は許すことができない「悪」ですが、警察関係者や司法関係者にとっては、ありふれた、よくある小さな出来事に過ぎません。彼らは
「悪」に対する正常な感覚が麻痺している人たちなのです。そのような人たちに裁判を任せておく訳にはいきません。
 その辺の感覚にまず大きな開きある上に、関係者にとっては、できるだけ“穏便”に済ませようという意識が働きます。なぜならその方が仕事が楽だからです。

 今回の判決で最高裁(司法)の判断が、国民の常識から乖離していることがいっそう明らかになりました。そして、これは刑事事件に関してだけであるはずがありません。
 
民事事件にも裁判員制度が導入されていたら、かつての非嫡子の相続割合についての裁判や、在日コリアンに対するいわゆる“ヘイトスピーチ”の裁判も、結果が異なっていたことは必定だと思います。

平成26年7月25日   ご意見・ご感想は  こちらへ   トップへ戻る    目次へ