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民主主義と裁判官の自由裁量

 

3月17日、那覇地裁で殺人、死体遺棄罪に問われていた柳末盛、上野勝両被告に対する判決がありました。裁判官は判決理由の中で「きわめて残酷、冷酷な犯行」と厳しいことを言っています。これだけ厳しい言葉で断罪するのであれば、結論は死刑判決しかないと思えば、これがなんと無期懲役でした。

 「計画性が高くない」とか「反省している」などと死刑を回避するための言い訳に終始しています。「死刑の量刑に慎重になっている最近の量刑の実情を考え合わせると、死刑をもって処断するには躊躇を感じる」、「終生、被害者の冥福を祈らせるのが相当と判断した」と言っています。最近の量刑云々は理由になりません。法律は変わっていないのです。「みんながしているから」と他人のせいにしたり、法律の厳正な適用を躊躇するような裁判官は裁判官としての適性を欠いていると言えます。「終生、冥福・・・」に至っては空虚なきれい事に過ぎません。

 3月27日には東京地裁で、殺人、殺人未遂、誘拐などに問われていた、小野悦男被告に対して、無期懲役の判決がありました。小野被告の場合検察は「残虐な犯行で動機に酌量の余地はなく、矯正は不可能で極刑も排しがたい・・・」と言いながら「幼女については最悪の結果は避けられた」と理由にならない理由で死刑を求刑していません。裁判所も「激情の赴くままに殺害を決意しており、身勝手かつ短絡的・・・」、「動機にも酌むべき点は全くない」、「自己の欲望を満たすために生命を奪うこともいとわない態度に、慄然とせざるを得ない」、「犯罪歴などに照らすと、被告人の犯罪性向は年を増すとともに深化しており、再犯の可能性は高い」と最大級の非難をしておきながら結論は検察と同じで死刑判決を回避しています。

 殺人罪に対する判決ではこのように判決理由と判決の乖離が目立ちます。軽い判決の埋め合わせのつもりか、言葉だけは厳しい例が目立ちます。いくら言葉で厳しく断罪しても結論の判決が軽ければ、言葉は裁判官の単なるリップサービスに過ぎません。死刑判決を下すときでも、死刑判決を躊躇し、死刑がやむを得ない選択であったとの言い訳をしきりにしています。刑罰を科することはやむを得ない選択の結果なのでしょうか。このままでは法律に反し、実質的に死刑制度が廃止されるのと同じ結果になってしまうおそれがあります。

 このような状況が生まれるのは、罪刑法定主義とは言うものの、我が国では殺人罪に関して裁判官の自由裁量の幅が大きすぎるからです。上は死刑から下は懲役3年執行猶予付きまで、裁判官の裁量で決めることができるのです。あまりに幅がありすぎるので、司法界では一応の目安、慣例があるようですが、それは法律ではありませんし、そのような非公式ルールで裁判が行われることは、法治国家として認められないことです。

 アメリカではよく、第一級殺人とか、第二級殺人という言葉を聞きます。何級まであるか詳しく知りませんが、これは殺人事件を客観的な基準により分類し、刑罰の重さを決めたもので、裁判官の恣意的な判決を防ぐ、合理的な制度であると思います。
裁判官は所詮、選考試験で採用された公務員に過ぎません。法律に反し、彼らの自由裁量で、なし崩し的に死刑が廃止になってしまうことは、主権在民の法治国家にふさわしくありません。

平成10年3月28日     ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る    C目次へ