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ハンセン病家族訴訟、なぜ控訴を断念するのか −安易に流れる安倍政権−

 7月13日の読売新聞は、「ハンセン病家族訴訟 首相談話と政府声明の全文」と言う見出しで、次のように報じていました。
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ハンセン病家族訴訟 首相談話と政府声明の全文
20190713 0500  読売

 首相談話

 本年6月28日の熊本地方裁判所におけるハンセン病家族国家賠償請求訴訟判決について、私は、ハンセン病対策の歴史と、
筆舌に尽くしがたい経験をされた患者・元患者の家族の皆様の御労苦に思いを致し、極めて異例の判断ではありますが、敢(あ)えて控訴を行わない旨の決定をいたしました。

 この問題について、私は、内閣総理大臣として、どのように責任を果たしていくべきか、どのような対応をとっていくべきか、
真剣に検討を進めてまいりました。ハンセン病対策については、かつて採られた施設入所政策の下で、患者・元患者の皆様のみならず、家族の方々に対しても、社会において極めて厳しい偏見、差別が存在したことは厳然たる事実であります。この事実を深刻に受け止め、患者・元患者とその家族の方々が強いられてきた苦痛と苦難に対し、政府として改めて深く反省し、心からお詫(わ)び申し上げます。私も、家族の皆様と直接お会いしてこの気持ちをお伝えしたいと考えています。

 今回の判決では、いくつかの
重大な法律上の問題点がありますが、これまで幾多の苦痛と苦難を経験された家族の方々の御労苦をこれ以上長引かせるわけにはいきません。できる限り早期に解決を図るため、政府としては、本判決の法律上の問題点について政府の立場を明らかにする政府声明を発表し、本判決についての控訴は行わないこととしました。その上で、確定判決に基づく賠償を速やかに履行するとともに、訴訟への参加・不参加を問わず、家族を対象とした新たな補償の措置を講ずることとし、このための検討を早急に開始します。さらに、関係省庁が連携・協力し、患者・元患者やその家族がおかれていた境遇を踏まえた人権啓発、人権教育などの普及啓発活動の強化に取り組みます。

 家族の皆様の声に耳を傾けながら、
寄り添った支援を進め、この問題の解決に全力で取り組んでまいります。そして、家族の方々が地域で安心して暮らすことができる社会を実現してまいります。
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 政府声明

 政府は、令和元年6月28日の熊本地方裁判所におけるハンセン病家族国家賠償請求訴訟判決(以下「本判決」という。)に対しては、控訴しないという異例の判断をしましたが、この際、本判決には、次のような国家賠償法、民法の解釈の根幹に関わる法律上の問題点があることを当事者である政府の立場として明らかにするものです。

 1 厚生大臣(厚生労働大臣)、法務大臣及び文部大臣(文部科学大臣)の責任について

 (1)熊本地方裁判所平成13年5月11日判決は、厚生大臣の偏見差別を除去する措置を講じる等の義務違反の違法は、平成8年のらい予防法廃止時をもって終了すると判示しており、本判決の各大臣に偏見差別を除去する措置を講じる義務があるとした時期は、これと齟齬(そご)しているため、
受け入れることができません。

 (2)偏見差別除去のためにいかなる方策を採るかについては、患者・元患者やその家族の実情に応じて柔軟に対応すべきものであることから、行政庁に政策的裁量が認められていますが、それを極端に狭く捉えており、適切な行政の執行に支障を来すことになります。また、人権啓発及び教育については、公益上の見地に立って行われるものであり、個々人との関係で国家賠償法の
法的義務を負うものではありません。

 2 国会議員の責任について

 国会議員の立法不作為が国家賠償法上違法となるのは、法律の規定又は
立法不作為が憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制限するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠る場合などに限られます(最高裁判所平成27年12月16日大法廷判決等)。本判決は、前記判例に該当するとまではいえないにもかかわらず、らい予防法の隔離規定を廃止しなかった国会議員の立法不作為を違法としております。このような判断は、前記判例に反し、司法が法令の違憲審査権を超えて国会議員の活動を過度に制約することとなり、国家賠償法の解釈として認めることができません。

 3 消滅時効について

 民法第724条前段は、損害賠償請求権の消滅時効の起算点を、被害者が損害及び加害者を知った時としていますが、本判決では、特定の判決があった後に弁護士から指摘を受けて初めて、消滅時効の進行が開始するとしております。かかる解釈は、民法の消滅時効制度の趣旨及び判例(最高裁判所昭和57年10月15日第二小法廷判決等)に反するものであり、国民の権利・義務関係への影響が余りに大きく、法律論としてはこれをゆるがせにすることができません
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なぜ、控訴を断念するのか 安易に流れる安倍政権

 「首相談話」と「政府声明」の全文(と言っても大した量・内容ではありませんが)を読むと安倍総理は
判決の重要な部分を否定しながら、控訴はしないと言っています。そしてその理由として「筆舌に尽くしがたい経験」と、「これ以上長引かせるわけにはいかない」事をあげています。

 「筆舌に尽くしがたい」だけでは、余りに簡単・漠然としていて、この異例の措置の必要・妥当性を説明するには不十分であるし、「長引いた」のは何を基点にするかにもよりますが、本件の
提訴は2016年2月15日でそれほど長時間が経過したわけではありません。隔離の時からとすれば、長引いたのは原告の提訴が“時効後”であったことが一因です。

 これだけでは到底、国民に対する
説明責任を果たしているとは言えません。筋の通らない税金の支出は正当化できません。

 安倍総理の談話には、
「真剣に」「極めて厳しい」「厳然たる」「深刻」・・・と、いつもの調子で大げさな言葉だけが続いています。内容空虚な修飾語だけの羅列・オンパレードであり、中身の無い空しさだけが、頭に残ります。

 彼が、派手な言葉遣いで、大げさに謝罪し、景気よくお金をばらまくのは、ひとえに
自分の責任では無いのと、自分のお金では無いと言う思いが心の片隅にあるからです。

 総理と判事(と大弁護団)、
行政司法が一緒になって、競うように国民の血税を使って正義漢を演じるのはいい加減にして欲しいし、国民としては救いが無いと言う思いがします。

 「声明」で、
判決の主要な部分をことごとく否定していながら、控訴しないで判決を受け入れるというのは、精神分裂にも等しい奇行です。
 判決に法律上の
重大な問題点(誤り)があると認識しているにも拘わらず、判決に基づいて賠償することは“背任”行為ではないのでしょうか。

 
「筆舌に尽くしがたい」と、「長引かせるわけにはいかない」を満たせば、国は今後どんな判決(時効がとっくに過ぎたもの)でも受け入れるのでしょうか、それとも「ハンセン病」に限ってなのでしょうか。もし、そうだとすればそれは、場合によっては「逆差別」になるのではないでしょうか。

“声明”には「判決」に対する拘束力があるのでしょうか。有ると思っているのでしょうか。「判決」に対して、法廷外で何を言っても何の意味もないはずです。

 
簡単な言葉だけで、軽々しく法令を無視した彼の“英断”は、責任感の証明では無く、無責任感の証明だと思います。

 もし、どうしても
救済すべきだと考えているのなら、堂々と控訴した上で賠償では無い「救済策」を講じるべきです。その方がまだマシです。「政府声明」などというまやかしをすべきではありません。

 このような問題だらけの判決文を書いた
判事もお粗末ですが、これを控訴せず(政府声明付きで)受け入れた、安倍総理の認識もお粗末と言うほかはありません。


過去のことを現在の基準で断罪するな

 
隔離差別との間には、相当因果関係は無いと思います。隔離したから差別が起きるとは限らないし、隔離しなくても差別は起きるし、隔離しても差別が起きないこともあると思います。差別されるかどうかは、隔離の原因となった病気症状に大きく左右されると思います。
 過去には
結核患者も隔離されましたが、結核患者が差別されたと言う話は無く、むしろ小説などでは、悲劇のヒロインのような扱いもありました。

 当時の医学、一般社会では
ハンセン病(癩(らい)病)は、悲惨な症状がでる恐るべき伝染病不治の病と考えられていました。恐るべき伝染病の蔓延を防ぎ感染者を出さないことが最優先と考えられていたのです。

 ハンセン病患者の
隔離は、必要・当然と考えられていました。隔離の結果、付随して差別的な状況が発生していたとしても、ハンセン病の脅威が全く消滅した現代になって、今の感覚で「差別云々」と言って過去を断罪して非難するのは、単なる結果論に過ぎません。

 また隔離が全く無駄であったわけでも無いと思います。
隔離の結果、感染が抑制された一定の効果はあったはずです。
 1960年当時に隔離政策が廃止されなかったのは、社会が
廃止に慎重であったからと考えられます。

 
過去のことは、当時の医学、社会の水準、常識のレベルで是非を判断する事が必要です。善悪の基準は時代と共に変化します。過去のことを現在の基準断罪するのは決して正義ではないと思います。

令和元年7月16日   ご意見・ご感想は こちらへ   トップへ戻る   目次へ