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求刑越え判決、量刑について裁判員の判断(常識)を否定する最高裁の判事は、身の程知らず -職業判事だって、証拠の証拠能力を判断する専門知識のない一素人(進行係)に過ぎない-
8月21日の読売新聞は、「裁判員判決 『求刑越え』激減」という見出しで、次のように報じていました。
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裁判員判決 「求刑越え」激減 制度開始で急増▷昨年1件制度開始で急増▷昨年1件
最高裁「過去の量刑重視」契機 2019.08.21 読売
裁判員裁判で検察官の求刑を超える判決が激減している。司法に国民の視点を取り入れるため、2009年に制度が始まって10年。当初は急増し、ピークの12年は19件に上ったが、最高裁判決が14年に過去の量刑傾向を重視するよう求めたことで一気に減り、昨年は1件だった。高裁で求刑の範囲内に改められるケースも少なくない。重きを置くべきは市民感覚か、判例か。
「1審判決の刑期が1日も短くなってはならない」。殺人罪などに問われた無職宮崎静静被告(26)の控訴審で6月、被害者の母親が涙ながらに大阪高裁の裁判官に訴えた。
宮崎被告は16~17年の約1年間、滋賀県近江八幡市などの民家で渡辺彰宏さん(当時31歳)を集団で監禁・暴行し、食事を十分与えず、衰弱死させたとされる。大津地裁は昨年12月、求刑より2年重い懲役20年を言い渡した。裁判員らは宮崎被告らが虐待を重ねて渡辺さんの反応を楽しんだとし、「非人道的で求刑の範囲にとどめられない」と判断した。弁護側は控訴審で量刑が不当と主張。23日に高裁判決が予定されている。
「市民感覚反映されない」の声
■7~8割が「相場」
裁判官だけの審理では、検察官が判例などから相当と考えた求刑の7~8割程度を判決の量刑とするケースが多い。「被告に反省がみられなくても、求刑の範囲内が暗黙のルール」 (ベテラン刑事裁判官)で、求刑を上回る判決はほぼない。
一方、09年5月の裁判員制度導入後は、求刑超えの判決が珍しくなくなった。
最高裁によると、殺人事件で最も多い量刑は制度導入前が懲役11年超~13年以下だったが、裁判員裁判だと懲役13年超~15年以下。評議では類似事件の判決分布をまとめた最高裁作成の量刑データベースも参考にするが、特に被害者に落ち度がない殺人事件や性犯罪は裁判員が被害者に同情するためか、量刑が重くなる傾向にあるという。
こうした事情を背景に10年は5件、11年10件、12年19件と求刑超えの判決は増え続けた。12年3月には、大阪府寝屋川市で1歳の女児が虐待死した傷幸致死事件で、大阪地裁は女児の頭を床に打ちつけた暴行を殺人罪に近いとし、虐待が社会問題化している点も踏まえ、両親にそれぞれ求刑(懲役10年)の1・5倍となる懲役15年を言い渡した。
しかし、最高裁は14年7月、この事件の判決で「国民の視点を取り入れるための裁判員裁判といえども、過去の裁判との公平性を保つ必要がある」と指摘。父親を懲役10年、母親を同8年と求刑の範囲内に収めた。
14年以降、求刑超えの判決は0~4件で推移する。
■経験者は複雑
裁判員裁判の経験がある元裁判官は「判例や求刑を踏まえた適切な評議が行われていると言える。一方で地裁の裁判官が最高裁の判決を過度に意識し、評議で裁判員の意見を求刑の範囲内に誘導するようになった側面もある」と打ち明ける。
高裁が1審の量刑を見直すことも少なくなく、裁判員経験者は複雑な思いだ。
宮崎市で女性が交際相手の男らに繰り返し暴行を受けて殺害された事件で、宮崎地裁は16年2月、懲役25年の求刑に対し、無期懲役を選択。だが、福岡高裁宮崎支部は17年4月、無期懲役の通り魔殺人などと比較した結果、匹敵するような悪質さはないとして懲役25年に減軽し、刑は確定した。被害者の女性は1か月間にわたり食事や睡眠を制限され、金属の棒などで何度もたたかれるなどしていた。裁判員を務めた60歳代の女性は取材に対し「同種事件がないほどひどい暴行だった。市民感覚を大切にしないなら、裁判員は必要はないのではないか」と語る。
最高裁は制度導入10年に合わ.せて今年5一月に公表した報告書で「国民の視点・感覚を適切に量刑に反映させることが可能になった」と総括。一方で求刑え町判決が減ったことへの言及はなく、取材に「コメントは差し控える」としている。
裁判員制度の設計に携わった国学院大の四宮朝教授の話
「求刑を超える判決は市民感覚の表れで、量刑を重くする十分な理由があれば問題ない。裁判官が過去判例を強調しすぎて裁判員の自由な感覚を判決に反映できなくなっている恐れがある。裁判官と裁判員の意見は対等で、特に裁判官はその意識を持って評議に臨むべきだ」
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最高裁は裁判員制度の趣旨を全く理解していません。裁判員制度は、職業判事の判断に疑問が高まり、彼等だけに裁判を任せておけないという趣旨で創設された制度です。司法に素人の裁判員の意見を反映させるための制度です。その背景にあるのは、「司法の常識は国民の非常識」という共通の認識です。
それにも拘わらず、過去の量刑を重視せよという主張は、裁判員制度の否定です。多忙な裁判員は、その使命を果たすために出勤(裁判所では“出頭”と言っている)しているのであって、判事達の講釈を聞きに来ているのではありません。
素人の判断を軽視する最高裁は自分たちも「法律」以外の分野では、一素人に過ぎない事を忘れています。裁判は法律論がすべてではありません。
例えば量刑の判断においては、被告人の悪質性が重要なポイントですが、その判断基準は多くの場合、各個人の「常識」に基づく感覚的判断です。裁判では悪質性以外にも、常識が重要な争点・ポイントになることがしばしばですが、常識は明確な基準などなく、常識の専門家などもおらず、判事も裁判員も立場は違っても、決して専門家ではない素人です。
判事他、検察、警察などの関係者は、一般素人に比べて、凶悪事件慣れしているため、凶悪犯罪に対する感覚が麻痺していて、対応が甘くなりがちです。公務員としても厳格な対応よりも、事なかれで安易に甘い対応に流れる傾向は否定できません。そのような場合、厳しい刑罰を主張する素人の裁判員と、易きに流れる司法関係者と、どちらを尊重すべきかは言うまでもないと思います。
バランスを取るというのなら、過去の裁判員制度発足以前の判例を基準にするよりも、裁判員制度発足後の判例を基準にする方が理にかなっています。
常識以外の問題でも、裁判においては証拠の証拠としての能力が争点になることがしばしばですが、その可否を判断するためには、「科学・技術の専門知識」が不可欠です。しかるに職業判事の多くはそれらの点に関しては一素人に過ぎず、法廷で科学・技術の論争になったときに、どちらの主張が正しいかを的確に判断するだけの能力は職業判事にはありません。
職業判事は単に「法律の専門家」であるに過ぎません。しかし、裁判で必要なのは法律知識だけでなく、「常識」と「高度な科学・技術の専門知識」が不可欠ですが、司法試験で常識や高度な科学・技術の専門試験はありません。裁判では証人・鑑定人として科学者が出廷することがありますが、判事には素人としての判断能力しかありません。しかるに彼等はそのような場合に、素人感覚で可否を決定しています。
上記の点を考えると、常識が主な判断基準となる事件の量刑の決定について、素人の裁判員の判断を否定する最高裁の判事は、身のほど知らずと言うほかはないと思います。
法律の専門家に過ぎない職業判事の役割は、極論すれば法廷の審理における「進行係」に過ぎない事を自覚すべきです。
令和元年8月24日 ご意見・ご感想は こちらへ トップへ戻る 目次へ