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なし崩し的に進む「死刑廃止」

 

 奈良県の月ヶ瀬村で起きた「女子中学生殺人事件」で被告人丘崎誠人に対して無期懲役が求刑されました。求刑に当たって検察は「人間の感情を失った鬼畜の犯行と言うべききわめて卑劣かつ悪質な犯行」、「激情に任せて拉致し、保身のために被害者を殺害して犯行を隠そうとした動機は悪質。殺害方法も残酷この上ない」、「法廷で他者に対する批判の言葉ばかり述べ反省の色が見られない。過疎地の学童に多大な不安を与えるなど、犯行が社会に与えた影響もきわめて大きい」、「この裁判の刑罰の宣告は過酷に過ぎることはない」と厳しい姿勢を見せたと報道されています。

 これだけ口を極めて被告人を非難していれば、求刑は死刑以外には考えられないと考えるのが普通ですが、求刑は無期懲役でした。「無期懲役の求刑が過酷に過ぎることはない」とは冗談ではありません。子どもを殺された両親は「死刑を求刑してほしかった」とはっきり言っています。どこの誰が「過酷に過ぎる」といっているのですか。是非明らかにしていただきたいと思います。「軽すぎる」という非難の矛先をかわそうとするための姑息なごまかしです。

 いくら言葉で厳しく断罪しても、求刑が軽くてはそれは単なるリップサービスにすぎません。なんだか凶悪事件の裁判の度に、毎回同じようなせりふを聞いているようで、空々しさ、言葉だけのむなしさが感じられます。単に「求刑マニュアル」に従って厳しい言葉を並べているだけの、内容が空虚な官僚の作文のように思われます。これだけの求刑理由を述べていながら肝心の死刑を求刑せず回避した理由が述べられていません。死刑は検討すらされなかったのでしょうか。被告人は「嵩地区内で差別を受けていた」と主張しているとのことですが、この点に検察はひるんだのでしょうか。

 先日、ひき逃げ事件で子どもを殺された両親が、犯人が不起訴になったのに納得がいかず検事に問いただしたところ「言う必要はない!」と一蹴されたことが問題になりましたが、最近の検察は本来の使命を忘れて、弁護士、裁判官と一緒になって被告人のことばかり考える「被告人第一主義」に陥っているように思います。

 現在の刑法は殺人罪について最高死刑から最低懲役3年(執行猶予つき)まで認めていて、幅が広すぎます。検察の自由裁量の幅が広すぎます。公務員の自由裁量の幅が広すぎることは、実質的な意味で「罪刑法定主義」行われていないことを意味します。検察庁は求刑に当たってどういう基準で求刑しているのかを全く明らかにしていません。このまま行けば死刑の求刑が年々減って、法律が骨抜きにされて実質的に「死刑廃止」となってしまうおそれがあります。

 公務員による恣意的な刑罰適用を防ぎ、「罪刑法定主義」を明確にするために、刑法を改正し殺人罪をもっと細分化する必要があると思います。アメリカではよく、1級殺人とか、2級殺人という言葉を聞きます。どういう基準で何級まであるのか詳しいことは知りませんが客観的な基準により殺人罪を分類し、それに応じた刑罰を法律で決めることは、必要で合理的な考え方であると思います。殺害された人の数、殺害の方法、動機、被害者の非行の有無とその程度などのいくつかの項目の組み合わせにより等級を定め、条文化すればいいと思います。

 このような基準は実は検察庁にも、裁判所にもあるのだと思います。ただ公表されていないだけだと思います。そうでなければ求刑も、判決もバラバラになって公平な裁判ができません。そのような内部基準は公表すべきです。そしてその基準が妥当であるかどうかは国民があらためてチェックした上で法律とすべきです。公務員が勝手に秘密の基準を作って法律を運用するのは、立法権の侵害です。

平成10年8月9日     ご意見・ご感想は   こちらへ      トップへ戻る      C目次へ