C89
「価値観」は時代と共に変化する 現代の価値観で、過去の「強制不妊」を断罪するのは不当な遡及行為であり、僭越の極みである。

 3月20日の読売新聞は、「強制不妊判決 被害の救済求めた意味は重い」と言うタイトルの社説で、次の様に論じていました。
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社説 強制不妊判決 被害の救済求めた意味は重い
2022/03/20 05:00 読売

 障害者らに理不尽な手術を強いた旧優生保護法が、深刻な人権侵害を招いたことは疑いようがない。被害者は高齢化しており、国は早期に救済策を検討する必要がある。

 旧優生保護法に基づいて不妊手術を強制されたとして、東京都内の男性が国に損害賠償などを求めた裁判で、東京高裁の判決は国に1500万円の賠償を命じた。

 1948年施行の旧優生保護法は「不良な子孫の出生防止」を目的に不妊手術を認め、これに基づいて国の奨励で2万5000人が手術を受けた。説明や本人の同意がないまま手術が行われたケースもあったという。

 この旧法について、判決は「差別的思想に基づいており、手段も極めて非人道的だ」と述べ、違憲だと断じた。人に優劣をつけるような立法が許されるはずはなく、もっともな判断である。

 近畿地方の男女3人が同様に損害賠償を求めた裁判でも2月、大阪高裁が旧法を違憲だとした上で、国に計2750万円の賠償を命じる判決を言い渡した。

 東京、大阪両高裁が相次いで国の責任を認め、賠償を命じた意味は大きい。東京高裁の裁判長は判決の際、原告について「手術を受けたことで差別されることなく、
幸せに過ごしてもらいたい」と異例の所感を述べた。

 どちらの高裁も、問題解決と差別解消を促したと言えよう。

 民法にはかつて、不法行為から20年が過ぎると損害賠償請求権が消滅するという「除斥期間」の規定があったため、地裁レベルでは原告の請求が棄却されてきた。

 原告の控訴を受けて、二つの高裁判決は「除斥期間の経過のみによって、国に賠償責任を免れさせるのは著しく
正義に反する」などと判断した。

 長い年月を経て提訴したからといって、国の責任逃れは許されないと考えたのだろう。

 すでに2019年には、被害者を救済するため、1人あたり320万円の一時金を支給する救済法が施行されている。ただ、東京、大阪両高裁が認定した賠償額との隔たりは依然大きい。

 国は、大阪高裁の判決には除斥期間の解釈に誤りがあるとして最高裁に上告し、東京高裁判決についても対応を検討している。一方、原告側は「これ以上訴訟を長期化させないでほしい」と国に上告の断念を要望している。

 国は被害者の声に耳を傾け、上告の是非や救済策を総合的に検討すべきではないか。
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価値観は時代と共に変化・変遷する。価値観の変化が明らかな時に、過去の行為現在の価値観断罪するのは、不当な遡及行為であり僭越の極みで有る。

 1948年優生保護法制定当時日本アメリカの占領下で、
優生保護法制定にはアメリカが深く関与していたが、そのアメリカを含めて、日本国内で“違憲論議”、“反対意見”が有ったとは言われていない思う。“優生保護”という発想は、当時の“人道”の基準には反していなかったと思われる。

 (それよりも明らかに
当時の人道に反し、刑法犯罪であったにも拘わらず、アメリカの圧力により、日本政府が反対したにも拘わらず、同じく優生保護法実現により無理矢理実現してしまったのが、「堕胎の合法化」である。
 優生保護法による「強制不妊手術」を人道に反すると批判するなら、
「堕胎」はそれ以上非人道的である事は疑いの無いところである)

 もし、裁判所の言うとおり“非人道的”であるならば、
“人道”の基準は時代と共に変わるものだと言うことである。行為の時“人道”に反しなかった行為が、74年後“非人道的”と断罪されると言う事があって良いものだろうか。

 現在、不良子孫(先天的障害児)が出生する可能性が高い場合に、父母の意思により中絶(堕胎)する行為は、合法的に行われており、人権侵害とはされていない。中絶が合法で有る限り、これを禁止することは、逆に(父母の)人権侵害と言われる可能性がある。
 しかし、
今後価値観の変化等により“人権侵害”とされる可能性が無いとは言えない。現に今、そういう中絶行為を“差別”と主張する人は存在する。

 また、現在わが国では「死刑」の可否については様々な意見があるが、合法的な刑罰として存続しており、多数の国民が存続を支持しているが、例えば30年後には社会の
価値観の変化等により、裁判で“残虐”な刑罰と判断され憲法違反とされる可能性が無いとは言えない。ではその時は過去に遡って国家賠償と言うことになるのだろうか。

 いずれにしても、
善悪の基準、道徳観は時代と共に変わるものであり、変わったからと言って、現在の価値観で、過去の価値観に基づいて為された行為を“人権侵害”と断罪するのは不当な“遡及”行為であり、「僭越」の誹りを免れない行為である。

法の番人に過ぎない一判事が、何の根拠もなく“正義”の一言、“違憲”の一言で法律を否定するのは、法治国家・民主国家と言えるのか。

 
「正義」の一言で法律の“除斥期間”を無効にするのは、もはや法治国家・民主国家とは言えない。国民の代表でもなく、単に試験で選ばれ、採用されたに過ぎない一介の司法官僚の独善的な「正義」の一言で、全てが決してしまうのは、正義の味方“〇〇仮面”の漫画の世界と同じである。
 更に法廷判事“私的”“所感”を述べるのは
公私混同に他ならない。

令和4年3月21日   ご意見・ご感想は こちらへ   トップへ戻る   目次へ