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青木恵子さんの冤罪事件で責任を問うべき相手は警察官・検事(行政)に限らず、判事(司法)も対象にして国家賠償をすべき −判事無答責は許されない−

 3月16日の読売新聞は、「虚偽自白、大阪府警を指弾…大阪地裁 小6死亡火災で賠償命令」と言う見出しで、次の様に報じていました。
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虚偽自白、大阪府警を指弾…大阪地裁 小6死亡火災で賠償命令
2022/03/16 06:00 読売

 「母親の良心につけ込んだ」。大阪市東住吉区の小6女児死亡火災で、大阪府に賠償を命じた15日の大阪地裁判決は、虚偽の自白を生み出した府警の捜査厳しく批判した。しかし、起訴をして20年にわたって有罪を主張し続けた検察(国)の責任は認めなかっ
た。原告の青木恵子さん(58)は「人生をどこまで狂わせたのか考えてほしい」と憤り、冤罪えんざい の責任を今後も追及する考えを示した。


判決を受けて記者会見する青木恵子さん
(15日午後、大阪市北区で)=前田尚紀撮影


「潔白」の白色服
 青木さんは全面勝訴を信じ、「潔白」の気持ちを込めた全身白色の服で判決言い渡しに臨んだが、願いは届かなかった。国への請求が棄却されると、法廷で
「冗談じゃない」と声を上げ、手元に握りしめていた紙を破り捨てた。裁判長に渡すつもりだった感謝の手紙だ。

 2015年10月に大阪高裁が大阪地裁に続いて再審開始を認め、青木さんが逮捕から20年ぶりに釈放されるまで、検察は一貫して有罪を主張。その後の再審公判でも当初は有罪主張を維持する方針を示していた。青木さん側はこうした検察の姿勢を問題視し、今回の訴訟で、国の責任追及を最大の目標としていた。



 過去には、無罪が確定したとしても、起訴がすぐに
違法とはならないとする最高裁判例がある。有罪の嫌疑があれば、起訴の違法性は認められず、検察への責任追及のハードルは高い。過去の再審無罪判決を受けた訴訟でも警察だけに賠償が命じられた事例がある。

 この日の判決も「検察の活動には種々の疑問がある」としながらも、「違法とまでは言えない」として訴えを退けた。青木さんは判決後の記者会見で、「絶対大丈夫と思っていただけに、人間不信で怒りが倍増した」と語気を強めた。

慰謝料で中傷考慮
 一方で、判決は冤罪を招いた府警の取り調べのあり方を指弾し、青木さんはこの点については「よかった」と一定評価した。

 「めぐみちゃん(女児)は死んでいく時にママ、ママと叫んでたんと違うか」「母親として人間の心を失ったらあかんのと違うか」……。判決ではこうした捜査員の発言を一つ一つ挙げ、限度を超えた取り調べだったとした。



 さらに判決は、昨年2月の証人尋問で、いまだに青木さんを犯人視した当時の捜査員の
証言を問題視。「再審無罪を正しく理解せず、さらなる 誹謗ひぼう 中傷を招きかねない」と痛烈に批判した。実際、青木さんは再審無罪後もネット上で「娘殺しの母親」「裁判は金目当て」などの中傷に苦しめられた。判決はこうした点を慰謝料として考慮した。

(中略)

「自白頼り」に警鐘
 青木さんの自白を分析してきた村山満明・大阪経済大元教授(法心理学)の話

 「取り調べは、精神的に不安定な状態にある中、犯人扱いする過酷な内容で、違法性を認めたのは妥当だが、府警の捜査を監督する検察を不問とする判断は不十分だ。当時と捜査を取り巻く状況は違うが、
自白に頼る捜査への警鐘として判決を重く受け止めないといけない。府警や検察は当時の捜査の問題点を検証し、教訓を共有する必要がある」
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 この青木恵子さん冤罪事件では、無実の母親が警察官に虚偽の自白を強要され、娘を殺害したとして無期懲役を言い渡され、20年間の獄中生活の末、ようやく再審で無実が認められたものですが、損害賠償裁判では、判事は事件の取り調べに当たった
警察官にだけ責任の全てを押しつけて、起訴した検事と無期懲役を言い渡した最高裁判事以下の全ての判事の責任を不問としました。

 記事には「捜査員の証言を問題視。再審無罪を正しく理解せず」という部分が有りますが、これは訴訟の当事者が判決に反する証言をすることは許されないと受け取れますが、それは法廷での証言について、良心に従って自由に証言することを否定することになり、裁判所がみずから証言の任意性に制約を課す行為で、公務員(判事)による
人権侵害、司法の自殺行為と考えられます。
 法治国家では判決に
従う義務は生じますが、判決を是認する義務は誰にもないし、判決を批判する自由が消えることはありません。

 非難されるべき者がいるとすれば、それは「誹謗・中傷」する者達であって、その者達の行為を被告の賠償金上乗せに結びつけるのは、筋違いです。
 訴訟の当事者には判決確定後といえども、
自分の主張をし続け、判決を批判する自由があります。その自由があったからこそ、今回の原告は再審無罪を勝ち取れたのです。

 この事件に対する司法の対応を見ると、ざっと見ただけでも、他人(警察行政)のミスには厳しく、自分達(判事・検事)の大チョンボには甘い司法官僚(判事)の実態が窺え、冤罪無実の被害者に一言の謝罪も有りません。

 冤罪事件の責任は全て司法(判事)の責任に行き着きます。裁判官は絶大な権限を有しており、証拠の適否の判断も含め、判決を決定するのは全て判事の権限です。従って、もし誤った判決を下した時は、最終的には全てが判事の責任になります。権限のあるものは責任も負うというのは社会の常識です。

 誤って罪なき者に有罪判決を下したと言うことは、証拠でないものを証拠と認定したと言うことであり、誤りの責任は逃れられません。
 「本人の自白だけでは有罪には出来ない」と言う司法のルールの中で、「有罪」と判断し、後日再審で「無罪」になったと言うことは、証拠でないものを証拠と判断した重大な誤りがあったことを意味しています。
 誤って罪なき者に無期懲役の有罪判決を下して、20年余りにわたって刑務所暮らしを余儀なくさせた、
判事の“罪”は極めて重いのです。

 かつて「昭和の巌窟王」と言われて広く知られた、
吉田石松さんの再審無罪の場合は、下記の様に裁判長が「人道上の観点から裁判所が謝罪」しました。
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吉田岩窟王事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%B2%A9%E7%AA%9F%E7%8E%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6?msclkid=98addfc8a9d811ec8d8ff30a1392751f

無罪判決
 1963年(昭和38年)2月28日、名古屋高等裁判所第4部(裁判長小林登一、陪席裁判官成田薫、斎藤寿)は、本事件で吉田石松のアリバイが成立することを認め、無罪判決を言い渡した(高等裁判所刑事判例集16巻1号88頁、判例時報327号4頁)。

この判決の冒頭では、以下のように本件の経緯について説示している。

 「……しかしてこの間の、実に半世紀にも及ぶその無実の叫びに耳を藉(か)す者からは、被告人はエドモンド・ダンテスになぞらえられ、昭和の巖窟王と呼ばれるにいたつたのである。」
また、
判決文の最後では、冤罪に対する謝罪が行われた。有罪判決は旧刑事訴訟法で行われたが、法手続上は合法であるため、人道上の観点から裁判所が謝罪するのは異例であった。

 判決文は「被告人」ではなく「吉田翁」として問いかけるもので、以下のように締めくくられている。

 「これらの事情が相俟つて被告人の訴追をみるにいたり、わが裁判史上曽つてない誤判を
くりかえし、被告人を二十有余年の永きにわたり、獄窓のうちに呻吟せしめるにいたったのであって、まことに痛恨おく能わざるものがあるといわねばならない。
……(中略)……
 ちなみに当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びず吉田翁と呼ぼう。
吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を只管(ひたすら)陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘り克くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態度、その不撓不屈(ふとうふくつ)の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である。」
 判決宣告後には、出廷していた
裁判官3人が頭を下げる場面があった。吉田石松は50年の歳月を経て、無罪を掴み取った瞬間、「万歳!」と叫んだ。

(以下略)
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 裁判官の謝罪は当然のことです。しかるに、近年、
再審無罪は決して珍しいことではなくなりましたが、法廷で裁判長が被害者(受刑者)に謝罪したと報じられることはほとんど無くなりました。
 この判決では、裁判所は「法手続上は合法であるため、人道上の観点から裁判所が謝罪」と言いました。

 しかしいくら合法とは言っても、司法の有罪の判断に、
証拠でないものを証拠と判断したという、重大な過ち(過失)があったことは明らかです。仮に“合法”であったとしても、“重大な過失”があった以上、謝罪賠償が必要・不可欠である事は、例え司法の常識では無いとしても、社会の常識です。法廷で判事のすることが“合法”であるべきなのは当然で、違法は論外です。違法でさえなければ許されるというものではありません。判事無答責は許されません。

 このように「昭和の巌窟王」裁判では、“合法”であっても“謝罪”が必要と判断したのに対して、「青木恵子さん冤罪事件」では、司法に重大な過失があったにも拘わらず司法関係者の責任を不問とし、
“違法”ではなかった(合法であった)として、“賠償”“謝罪”もありません。

 特にこの「青木恵子さん冤罪事件」は単なる“殺人事件”ではなく、元被告の青木恵子さんは
最愛の娘を保険金目当てで放火して殺した犯人とされたのです。そして逮捕当時9歳の長男とは20年間分断された人生だったのです。母親にとって原審判決の残酷さは想像を絶するものであったと思います。
 その無実の母親を無期懲役で20年間服役させた責任を全て警察官だけに負わせ、自らの責任を認めなかった判事の厚顔無恥には驚きを禁じ得ません。

 「昭和の巌窟王」裁判では、判事達は自分の不手際を取り繕うかのように、被害者を「吉田翁」持ち上げて、その不屈の精神を称えていますが、これは少しピントが外れています。無実の罪を着せられれば、誰でも屈することなく戦います。諦める人は居ません。今までこのような例がなかったのは、無実の人がこのような重罪に問われて、無期懲役に服すケースはなかったのだと考えるべきです。それともこの判事達は、「誤判はよくある事で、ここまで頑張る人はまれだ」と思っていたのでしょうか。
 まるで自分の不手際を水で薄めるためで有るかのような、被害者(元被告)に対する歯の浮くような(上から目線の)賛辞です。

 しかし、「青木恵子さん冤罪事件」では、謝罪も、「上から目線の賛辞」もありませんでした。

令和4年3月29日   ご意見・ご感想は こちらへ   トップへ戻る   目次へ