C95
「性同一性障害者」の女性トイレ使用を容認した最高裁 補足意見で決着に疑問を呈した今崎幸彦裁判長の矛盾 −司法は“法の番人”に過ぎず、“正義の味方”ではない

 7月12日の読売新聞は、「経産省トイレ制限訴訟 判決要旨」と言う見出しで、次の様に報じていました。
茶色字は記事、黒字は安藤の意見)
------------------------------------------------------------------------------------
経産省トイレ制限訴訟 判決要旨
2023/07/12 05:00 読売

 性同一性障害の経済産業省職員が庁舎内の女性用トイレの使用を不当に制限されているとして国を訴えた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷が11日に言い渡した判決の要旨は次の通り。

 【主文】
 経産省によるトイレの使用制限の撤廃を認めなかった人事院の判定は
「違法」

 
「違法」と断罪するなら、その法律名条文を明らかにすべきです。法治国家の司法は厳格であるべきです。それをせずに“違法”の一言で断罪するのは法治国家のする事ではありません。
 また、原告が損害賠償を請求するのであれば、
違法を立証するのは原告の義務です。それが出来ないのであれば、請求は棄却されるべきです。

 【法廷意見】
 原告に対し、職場から2階以上離れたトイレの使用を認めるという「使用制限」は、同省において、庁舎内のトイレの使用に関し、原告を含む職員の服務環境の適正を確保する見地からの調整を図ろうとしたものだ。

 原告は
性同一性障害との医師の診断を受けており、使用制限の下では、自認する性別と異なる男性用のトイレを使用するか、職場のある階から離れた階の女性トイレなどを使用せざるを得ず、日常的に相応の不利益を受けているといえる。

 
性同一性障害精神的疾患であり、本人は相応の不利益甘受すべきです。少なくとも周囲の第三者が不利益を甘受する必然性はありません。第三者がどの程度の不利益なら受け入れられるかは、慎重に検討すべきです。今、結論を出すのであれば、原告の請求は棄却すべきです。

 
原告は健康上の理由から性別適合手術を受けていないが、女性ホルモンの投与を受けるなどし、性衝動に基づく性暴力の可能性は低いとの医師の診断も受けている。

 
原告が女性の服装で勤務し、職場から離れた女性トイレを使用するようになったことでトラブルが生じたことはない。2010年7月に原告の性同一性障害について説明する会が開かれた際、同省の担当者には、原告が職場のある階の女性トイレを使用することに対し、数人の女性職員が違和感を抱いているように見えたが、明確異を唱える職員がいたことはうかがわれない。

 このような説明会で仮に
「違和感を抱いて」いても、「明確に異を唱える」のはとても勇気が要ることで、「うかがわれない」から「いない」と判断するのは早計です。

 
説明会から、15年5月の人事院の判定までの約4年10か月間で、原告が女性トイレを使用することについて特段の配慮をすべき他の職員がいるかどうかの調査が改めて行われたり、使用制限見直しが検討されたりしたこともない。

 「
調査がない」、「見直し検討されたことがない」から「配慮」は不要と結論づけるのも早計です。「無記名アンケート」などが必要で有効です。

 
以上によれば、原告に対し、使用制限による不利益を甘受させるだけの具体的な事情は見当たらなかったというべきだ。人事院の判断は、具体的な事情を踏まえることなく他の職員に対する配慮過度に重視し、原告の不利益を不当に軽視するもので、著しく妥当を欠いているといわざるを得ない。人事院の判定は、裁量権の範囲を逸脱、乱用したものとして違法というべきだ。

 「・・・
見当たらなかった」としていますが、それは「調査・検討」をしなかったからであり、「調査・検討」をした結果見当たらなかった」わけではありません。安易な“過度”、“不当”、“妥当”判断は説得力がありません。

 人事院が
「具体的な事情を踏まえなかった」としても、それは必要な「調査」、「見直し検討」をしなかったからであり、調査・検討をした結果、「配慮は不要」と成ったわけではありません。それにもかかわらず、「他の職員への配慮」は不要と結論づけるのは論理の飛躍です。

 
【補足意見】
 以下、今回は5人の判事全員が
補足意見を述べていますが、これは判決とはどのような位置付けになるのでしょうか。

 
〈宇賀克也裁判官〉
 当面の措置として原告の女性トイレ使用に一定の
制限を設けたことはやむを得ないとしても、同省は、トランスジェンダーに対する理解の増進を図るための研修を実施し、制限を見直すことも可能だったのに、しなかった。多様性を尊重する共生社会の実現に向けて職場環境を改善する取り組みが十分になされてきたとはいえないように思われる。

 
「多様性を尊重」「共生社会の実現」「職場環境の改善」などの主張は司法の役割から逸脱した、行政・立法に対するあからさまな介入と思われますが、三権分立の原則に反し許される事ではありません。“補足意見”なら何を言っても(思っても)許されるのでしょうか。

 
〈長嶺安政裁判官〉
 同省は、
女性職員が抱く違和感が解消されたかどうか調査し、原告に一方的な制約を課していた使用制限を維持することが正当化できるかを検討して、必要に応じて見直すべき責務があったというべきだ。

 
原告は“生物学的”に(戸籍上も)「男性」です。しかるに“精神疾患”により、“女性”と思い込んでいて、“女性トイレ”に行きたがり、周囲が困惑しているという状況です。それに対する正当な制約を“一方的な制約”などとは、よく言えたものです。最初から視線が原告に傾いています。

 
〈渡辺恵理子裁判官。林道晴裁判官も同調〉
 性別は社会生活や人間関係における個人の属性として、個人の人格的な生存と密接、不可分で、
個人が真に自認する性別に即した社会生活を送れることは重要な法益として、十分に尊重されるべきだ。

 
「性別」は生まれながらにして本人の認識とは関係なく決まっているものです。自分が男女のどちらなのかは、わざわざ教えなくても成長に従って自然と分かってくるのです。それは自認とは言いません。

 
性別は天然のもので、自認により決まるものではありません。選択の自由などはないのです。今しきりに“自認”と言われているのは、自然に定められている性別に“違和感”を感じる“精神疾患”の症状を言うのです。

 精神疾患の患者に必要なのはまず
“治療”“リハビリ”です。それでも回復が見込めない人は“障害者”として社会で生きていくことになります。世の中で(身体・精神)障害者多種多様ですが、彼ら(彼女ら)に対して“共生”と言う曖昧な言葉が使われることはありません。社会に悪影響を与える場合は、隔離が必要な場合も出てきます。

 
トランスジェンダーの女性トイレの利用について、女性職員らが一様に性的不安を持つという前提に立つことなく、可能な限り両者の共生を目指し、性的マイノリティーの法益の尊重に理解を求める方向での対応が行われることを強く期待する。

 
未確認で「不安を持つ」ことを“前提”とすることは誤りですが、未確認で「不安を持たない」ことを前提にして「共生を目指す」ことも同様に誤りです。

 性同一性障害は
精神疾患であり、“性的マイノリティー”と言う認識(言い方)は誤りです。また、立法・行政にかかわる課題に対して、特定の方向を目指すことを「強く期待する」と表明するのは、法廷における裁判官の発言として不適当であり、司法の領域から脱線し、行政・立法権を侵害しています。判決とは関係ない個人的な発言であるならば厳に慎むべきです。

 
〈今崎幸彦裁判長〉
 本件のような事例で、他の職員への説明やその理解のないまま、自由なトイレの使用を無条件に受け入れるという
コンセンサス(合意)が社会にあるとはいえない。

 
現時点では、トランスジェンダー本人の要望・意向と他の職員の意見・反応の双方をよく聞いた上で、最適な解決策を探っていくという以外にない。この種の問題は、多くの人々の理解抜きには落ち着きのよい解決は望めない。社会全体で議論され、合意が形成されていくことが望まれる。

 
判決は、トイレを含め、不特定多数の人々の使用が想定されている公共施設の使用のあり方について触れるものではない。この問題は、機会を改めて議論されるべきだ。

 これは要するに「
現時点では社会的な議論合意の形成もなく、“最適な良い解決”を見いだすには時期尚早である、と言う事です。しかしこれは判決とは完全に矛盾しています。

 性同一性障害が問題として認識されてから日が浅く、十分
議論が煮詰まっていない段階で結論を急ぐのは疑わしきを罰する結果になり、司法としてあってはならない展開です。

 であれば「
現段階では、被告に違法があったとは言えず、賠償責任があるとは認められない」として請求を棄却し、まず、国民の正当な代表である立法府の判断(法律の改正、新たな立法)を求めるのが一番理に叶った判断となります。司法は“法の番人”に過ぎず、何でもする(出来る)“正義の味方”ではないのです。

 日本の
立法・行政府は、このような司法の脱線、越権判決に対して沈黙・服従姿勢が普通ですが、当事者として、立法・行政府として不当と判断する事は厳しく批判・反論すべきで、沈黙は司法の増長を加速するだけです。仮に判決には従わなければならないとしても、批判すべき事は敢然と批判するべきです。

 先日
アメリカの最高裁が、アメリカの大学合格者の選定における黒人優遇制度違憲と判決したことについて、バイデン大統領はこの判決を厳しく批判しました。大統領として判決には従わなければならないとしても、大統領が心底判決は誤りと思っているのなら、批判は大統領として、一政治家として当然のことです。

 岸田総理も行政の長として最高裁の判決(補足意見を含む)に対して批判すべき点があれば批判すべきです。

令和5年7月15日   ご意見・ご感想は こちらへ   トップへ戻る   目次へ