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「加害博物館」づくりに励む「病める人々」

 11月5日の朝日新聞(夕刊)の一面トップに、日本の各地で、日本の「加害の歴史」を展示する「草の根平和博物館」が広がっていると言う記事がありました。「加害と向き合う」、「加害責任を曖昧にする日本の歴史認識に抗議して」など「加害」という言葉が繰り返し出できます。加害者という言葉は犯罪者と言うに等しく、戦争をそのような目で見るのは誤りであると思います。

 人類の歴史は戦争の歴史、侵略の歴史であったとも言えるものであり、それらの多くは残虐行為を伴いました。その歴史を加害者、被害者という目で見るのなら、世界の主要国で加害の歴史を持たない国を捜す方が難しいでしょう。人類の残虐行為の歴史を物語る事実をすべて展示しようとすれば、その事実の数は博物館をいくつ作っても足りない程だと思いますが、その数多い歴史上の事実の中から、(人類史上空前絶後の残虐行為をしたドイツと並べて)それほど多くはない日本に関する悲惨な事実のみを強調し、展示しているのが、これらの「草の根博物館」の実態です。(記事の中にアメリカのシカゴ平和博物館の名前が出ていますが、そこには広島、長崎の原爆投下、東京大空襲の惨状も展示されているのでしようか)

 これらの博物館の主唱者は「加害の歴史を正面から展示する」、「(批判の動きに対して)事実を伝えていくと言って動じなかった」、「日本の加害の歴史と向き合わざるを得ない」と言って事実であることをしきりに強調していますが、事実であるかないかだけが問題なのではなくて、仮にすべてが事実であったとしても、展示する事実が偏っていないかどうかが問題なのだと思います。無数にある歴史上の事実の中から、何と何を選んで展示するかと言うことが大事なことであって、事実でありさえすればその展示は何の問題もないとか、許されると言うことにはならないのです。偏った事実のみを展示すること、たとえば日本に関する残虐行為のみを展示して、それ以外の国の類似行為は全く無視するとか、日本に関しては残虐行為のみ展示し、誇るべきことはすべて無視する等は、結果的には嘘の展示をすることと同様と言えるのです。

 この人達は日本の歴史の暗い部分を展示することに、一種の使命感を感じているようでもあります。日本人にとって、日本が加害者であり、いかに悪いことをしてきたかを強調するのは、個人で言えば自分がいかに悪行を重ねてきた人間であるかを公然と強調するのと同じで、自分の身体に「悪」の烙印を押すようなものです。もし、真剣にそうするのであれば、普通の人には相当な精神的苦痛を伴うはずです。ところがこれらの「加害博物館」の館長達には苦悩のあととか、心の葛藤らしきものが見られません。それどころか使命感に溢れ、生き生きとした表情をしています。
 一体これはどう考えたらいいのでしょうか。彼らは人間にとってもっとも大事な、「自分を守る」、「自分の立場で考える」という本能的な部分が麻痺してしまった人たちであると思います。彼らは一見すると、潔く非を認める、良心的な人のように見えます。この人達に対して、「日本は悪くなかった」、「日本だけが残虐行為をしたわけではない」という主張をすると、何となく言い訳をしているようで引け目を感じてしまいますが、決して引け目を感じる必要はないと思います。それよりも、日本人の精神の中枢を麻痺させてしまったものは何かを考えなければいけないと思います。

平成10年11月8日     ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る     F目次へ