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「平和」と「人権」の教育が、「荒廃」と「崩壊」の代名詞になったのはなぜか

 8月6日の産経新聞のコラム「産経抄」は広島の原爆の日を迎えて、次のように言っていました。

 広島市を訪れた外国人の53%が「広島の訴えは世界平和に貢献していない」と平和運動の成果に否定的な回答をしたという。
(中略)
 いわゆる広島の平和運動なるものは市民を遠ざけた政治色に彩られ、左翼勢力の対立の舞台になっている。「平和学習」と称する催しでは、日本を戦争加害者としてばかり強調する。
(中略)
 ・・・とりわけ福山市は有名で、公立の学校運営は校長ではなく教職員の多数決によって決まる。反「日の丸、君が代」ばかりで「道徳」の授業がないという。
 「日本がどんなひどいことをしたのか知りました」、「日本も、朝鮮の人にうらまれることをしたので(原爆も)しょうがないと思う」。これは広島市の小学6年生がインターネットのホームページに寄せた平和学習の感想である。
(中略)
戦後の被爆地・広島で生まれた「平和」と「人権」の教育が、今では「荒廃」と「崩壊」の代名詞となった理由は何か。ひとつ頭を冷やして考えてみたい。

 「平和」と「人権」の教育が、「荒廃」と「崩壊」の代名詞となった理由は、日本人に対して「平和」と「人権」の教育を始めたのが、占領軍(アメリカ軍)だからであると思います。占領軍の目的は第一に敗戦国日本が再び立ち上がり、自分たちの脅威にならぬよう、日本国、日本国民を徹底的に無力化することにあったはずです。「民主化」の名の下に行われた施策の数々(神道の排除や伝統的価値観の否定)は、どんなに美辞麗句で飾り立てられていても、施政者の意図が日本国、日本国民の無力化である以上、日本国民の魂を蝕むものになるのは必然だったと思います。

 徹底した言論統制のもとに行われた占領軍の「民主化」の施策が、そのような意図を持ったものであることは、心ある人ならば容易に見抜けたはずです。言論統制の直接の被害者であったマスコミ関係者は知っていたはずです。占領軍の意図を見抜けなかった人は愚かな人と言わざるを得ません。それを知っていて占領軍に迎合した人達は裏切り者といわざるを得ません。愚かな人と、裏切り者とが押し進めてきた、「平和」と「人権」の「戦後民主教育」が、「荒廃」と「崩壊」しかもたらさなかったのは当然であると思います。

平成12年8月9日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ