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アメリカはいつまで原爆投下を正当化できるか

 読売新聞連載8月6日の「20世紀どんな時代だったのか」(原爆投下@)を読みました。3年前アメリカ国立スミソニアン航空宇宙博物館が企画した原爆展が、アメリカ上院、退役軍人会の圧力で中止された経緯をあらためて知りました。展示会の実施というのは表現の自由の一種であって、これを妨害することは表現の自由の否定になると思います。見たくない人は見なければいいのだし、批判は見てからすればいいのです。批判的な立場を表明したければ別の展示会をすればいいのです。批判的意見を表明する方法はいくらでもあります。批判するのは自由ですが妨害は正当化できません。この展示会を政治的圧力でつぶしたことは、口では何と言ってもアメリカ人が原爆投下を負い目に感じていることの証拠だと思います。原爆の惨状を国民の目に触れさせたくないのです。被害の実態が明らかになれば、原爆投下を正当化し続けることが困難になると感じているからです。正義を確信する者は何物をも隠蔽する必要はないはずです。「自由の国」アメリカには、こんな一面もあるのです。

 アメリカ人は原爆投下を正当化するために「投下がなければ、日本上陸作戦で多数のアメリカ兵が犠牲になった、原爆投下は多数のアメリカ兵の命を救った」、「原爆投下は戦争の終結を早めた」といいます。しかし、これは「勝つためには手段を選ばない」といっているのと同じです。自国の兵士の犠牲を少なくするためには何をしてもいいと言うことにはならないのです。戦争にもルールはあるのです。原爆投下は無差別大量殺戮そのものです。原爆投下の当時日本政府は必死で和平工作をしていたにもかかわらず、それを無視し続けたのはアメリカです。「戦争終結を早めた」というのも「アメリカの完全勝利のうちに戦争を終結させることを早めた」というにすぎません。結局「勝つためには、目的を達成するためには非戦闘員の無差別大量殺戮も辞さない」といっているのと同じです。これは国際法にも正義にも反する考え方だと思います。

平成10年8月11日     ご意見・ご感想は   こちらへ      トップへ戻る      F目次へ