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我が目を疑った読売新聞の社説、「安倍首相は戦後70年談話で、先の大戦での『侵略』に一切言及しないつもりなのだろうか」


 4月22日の読売新聞社説は、「安倍首相は戦後70年談話で、先の大戦での「侵略」に一切言及しないつもりなのだろうか」と言う見出しで、次のように論じていました。余りに粗雑な論理であり、かつ朝日新聞とそっくりな認識に驚きました。
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戦後70年談話 首相は「侵略」を避けたいのか
2015年4月22日1時29分  
(黒字部分は安藤の意見)

 安倍首相は戦後70年談話で、先の大戦での「侵略」に一切言及しないつもりなのだろうか。

 
第二次世界大戦は多様な側面を持ち、交戦当事国も多数に渡る。日本はソ連とも戦ったが、これは日本の侵略か。
 インドネシア、ビルマなどの欧米植民地は戦後交戦当事国とされたが、日本は彼等を侵略したことになるのか、彼等の独立を助けたのではないのか。すべてが日本の侵略戦争だったと断罪されている現状に、異議を唱えることが必要不可欠だとは思わないのか。安倍総理が「侵略」に言及しないのは、その意味から当然だとは思わないのか。


 首相がBS番組で、戦後50年の村山談話に含まれる「侵略」や「お詫わび」といった文言を、今夏に発表する70年談話に盛り込むことについて、否定的な考えを示した。

 「同じことを言うなら、談話を出す必要がない」と語った。「(歴代内閣の)歴史認識を引き継ぐと言っている以上、もう一度書く必要はない」とも明言した。

 村山談話は、日本が「植民地支配と侵略」によってアジア諸国などに「多大の損害と苦痛」を与えたことに、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明した。

 戦後60年の小泉談話も、こうした表現を踏襲している。

 安倍首相には、10年ごとの節目を迎える度に侵略などへの謝罪を繰り返すパターンを、そろそろ脱却したい気持ちがあるのだろう。その問題意識は理解できる。

 首相は70年談話について、先の大戦への反省を踏まえた日本の平和国家としての歩みや、今後の国際貢献などを強調する考えを示している。「未来志向」に力点を置くことに問題はなかろう。

 しかし、戦後日本が侵略の非を認めたところから出発した、という歴史認識を抜きにして、この70年を総括することはできまい。

 首相は一昨年4月、国会で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と発言した。

 侵略の定義について国際法上、様々な議論があるのは事実だが、少なくとも1931年の満州事変以降の旧日本軍の行動が侵略だったことは否定できない。

 例えば、広辞苑は、侵略を「他国に侵入してその領土や財物を奪いとること」と定義し、多くの国民にも一定の共通理解がある。

 
それを言うならば、人類の歴史は「侵略」とそれに伴う戦争の歴史であり、戦争にはしばしば残虐行為を伴うのが常であったこともまた否定できないことを理解しなければならない。さらに、過去も現在も「侵略者」がその非を認めることはまれであり、他人の非を指摘・非難することはあっても、おのれの非は認めないというのが、世界共通の認識と言っても良いのである。

 読売新聞は、「少なくとも1931年の満州事変以降の旧日本軍の行動が侵略だったことは否定できない」と言うが、少なくとも欧米諸国の植民地だった東南アジア地域での行動を侵略だったとする認識は肯定できない
 勝者は非を認めず、敗者のみが非を認めさせられるのが常である。日本は敗者ではあっても犯罪者ではない。敗者にすべての罪を負わせた戦後の枠組みに異を唱えるのは日本人として当然のことである。もちろんそれに対してアメリカをはじめとする戦勝国の抵抗は当然ある。抵抗があるからと言って、いうべき事を言わずにいるというのは、単なる事なかれ主義である。事なかれ主義の日本に未来はない

 談話が「侵略」に言及しないことは、その事実を消したがっているとの誤解を招かないか。

 政治は、自己満足の産物であってはならない。

 
日本軍の行動のすべてが「侵略」の一言で断罪されている以上、それを否定する努力が必要である。談話で言及しないのは、その為の努力の一環である。誤解は招かない。もし誤解をするものがあれば誤解を解く努力をすべきであって、沈黙を守ることではない

 第二次世界大戦は、大規模で多様な側面を持つ戦争であり、日本の戦争が「侵略」の一面を持ったことは否定できないが、日本のすべてを「侵略」の一言で断罪することは不当である。
 外交は国際社会に於いて自国の正義感、価値観実現を目指すことであり、それを否定することではない。
日本国民の正義感、価値観の主張を「自己満足」と貶めるのは、反日日本人のすることである。

 首相は一昨年12月、靖国神社を参拝したことで、中韓両国の反発だけでなく、米国の「失望」を招いた。その後、日本外交の立て直しのため、
多大なエネルギーを要したことを忘れてはなるまい。

 
多大なエネルギーを要することでも、避けて通れないことには正面から向き合わなければならない。それを避けて通ろうとして事なかれ主義に陥ることは国家百年の計を誤る。中・韓、アメリカの反発が理不尽であれば、それに屈してはならない。
 アメリカの失望は中・韓の反発を招いたことを理由としていて、靖国参拝自体に対する失望の表明ではない。それに、韓国は第二次世界大戦の交戦当事国ではない。いうべき事はいわなければならない。
 
読売新聞は中国・韓国・アメリカを云々する前に、日本国民として靖国参拝そのものの是非について立場を明確にすべきである。

 
靖国神社の問題も、従軍慰安婦の問題も経緯をたどれば、すべて日本の国内から発生し中国・韓国に伝染した病気(問題)であり、中国・韓国から発生した問題ではない。その経緯はきわめて不可解である。

 70年談話はもはや、首相ひとりのものではない。日本全体の立場を代表するものとして、国内外で受け止められている。

 首相は、談話内容について、多くの人の意見に謙虚に耳を傾け、大局的な見地から賢明な選択をすることが求められよう。

 
安倍首相は民主主義の手続きによって選ばれた国民の正当な代表者として、行動しているのである。
 
新聞社はいかなる意味に於いても、国民の代表でも読者の代表でもないことをわきまえてものを言うべきである。

 
「大局的見地に立つべき」という詭弁に騙されてはいけない。もし、本当にそう思っているなら、中国、韓国、アメリカに対しても同じ事を言うべきである。
 安倍総理は安易な道を選ぶべきではない、従来の
村山談話路線を踏襲するような談話なら、出さない方が遙かにましである。
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