G16
意味不明のセレモニー、「命を大切にする集い」

 12月21の読売新聞に、昨年起きた京都の小学生惨殺事件から一年経ったことを報じる、
「日野小児童殺害事件から1年」、「児童ら黙とう 『人権宣言』という見出しの、次のような記事がありました。

 
「日野小ではこの日午前9時すぎから、俊樹君の両親と児童約430人、教職員、地域住民らが参加して『命を大切にする集い』が開かれた」
 「児童全員が、『一人ひとりのつらさや悲しみ、人の喜びを受け止められる人になります」と「日野小人権宣言」を誓い合い、下倉健至校長の呼びかけで、手をつなぎ合って“命のぬくもり”を確かめ合った


 「命を大切にする集い」とはどういう意味なのでしょうか。子供に命の大切なことを教えるというように取れますが、この事件の被害者は自分の命を大切にしなかったのでしょうか。何か無謀なことをしていたから殺されたのでしょうか。そんなことはないはずです。学校のジャングルジムで遊んでいるところを襲われたのであって、決して命を粗末にする行為が殺された原因ではありません。被害者には何の落ち度もありません。
 それとも、人の命を粗末にしてはいけない、つまり、人を殺してはいけないと言うことを訴えているのでしょうか。もし、そうであるとしたら、それは、被害者の友人達に言うべきことではありません。

 「一人ひとりのつらさや悲しみ、人の喜びを受け止められる人になります」という、日野小人権宣言は、この残虐な殺人事件とどう結びつくのでしょうか。被害者の両親の悲しみを理解できる人間になりますという意味であるとすれば、そのような宣言ははたして両親に対する慰めの言葉と言えるのでしょうか。この宣言は追悼行事に便乗した“人権教育”ではないのでしょうか。

 この全校集会「命を大切にする集い」は、生徒全員を集めてはみたものの、言っていること、やっていることはかなりピントが外れていると思います。なぜ単純に、素直に、偲ぶ会とか、追悼集会とは言わなかったのでしょうか。何を教えて良いのか、何を教えるべきなのかが分からなくなっている学校の荒廃ぶりの一端が窺えると思います。

平成12年12月23日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ