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広島県立世羅高校校長の自殺

 広島県立世羅高校の校長が自殺しました。自殺の動機については明らかにされていませんが、卒業式の国旗掲揚、国歌の斉唱の問題で悩んでいて、それが原因であろうと報道されています。
 校長の自殺を報じる3月1日の朝日新聞を見ると、「卒業式をめぐってこんなにもめるなら、卒業式はない方がいい」とか、「卒業式は生徒のもの」と言う生徒の意見や、「国旗掲揚、国歌斉唱よりも人の命の方が大切。校長の裁量に委ねていれば、こんな事にならなかったはずです」と言う保護者の主婦(44才)の意見が報じられています。

 卒業式は人生の区切りになる大事な行事です。なぜ、こんな事になったのか、誰の責任なのか、原因も考えず、安易に「ない方がいい」というのは、事なかれ主義の典型で情けない考え方です。
 卒業式に限らず学校はもちろん「生徒のため」にあるものです。「教師のため」にあるのではありません。しかし、生徒のために何が一番いいのか、生徒自身にはまだ十分な判断力がありません。子どもたちに何を教えればいいのか、教育はどうあるべきか、卒業式はどうあるべきかを考えるのは、子供の両親であり、国民です。そして、民主主義国家においてそれを代表する者は選挙で選ばれた政治家です。学校に雇用されている教師に決定権があるわけではありません。

 公立学校で校長に大幅な裁量権を与えるのは問題があります。また、国旗と国歌の取り扱いが校長の裁量に委ねられていた間、何が起こっていたかを考える必要があります。教職員組合の集団行動の前に、校長の裁量権が踏みにじられて、有名無実になっていたという事実があったからこそ、教育委員会は命令を発したのです。命令をしなければ、「こんな事にはならなかった」かもしれませんが、組合の横暴に手をこまねいているだけの校長の元で、国民と、子供の両親の多数意見に反した教育が行われるのは、やはり見過ごすわけには行きません。   

 校長はなぜ悩んだのでしょうか。それは組合が校長の指示に従わないからです。その実態を報道せずに、県教育委員会の職務命令だけを自殺の原因と指摘するのは誤りです。正当な職務命令を出した者がいて、それに従わない者がいて、間に挟まって悩んだ者が自殺したときに、命令を出した者と、従わなかった者と、非は一体どちらにあるのでしょう。朝日新聞社内で、正当な職務命令を出した者と、それに従わない者がいて、間に挟まって苦しみ、自殺した者がいたとき、非は命令を出した者にあると言うことになるのでしょうか。

 3月2日の朝日新聞には「強制は流れに反する」という見出しの社説が掲載されました。教育委員会がなぜ命令を出さざるを得なくなったかの経緯に触れず、「強制」と言って非難するのは誤りです。命令によって強制せざるを得なくなったのは、教職員組合が職務上の立場、集団の威力を利用して学校から国旗と国歌を追放してしまったからです。この事実に触れず、それを是正しようと言う措置を「強制」といって非難するのは、例えて言えば、暴行事件で先に手を出した者を不問にして、正当防衛のため抵抗した者だけを「暴力をふるった」と言って非難するのと同じです。
 国旗を「国旗」と言わず「日の丸」と言い、国歌を「国歌」と言わず「君が代」という報道が既におかしいのです。

平成11年3月3日    ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ