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「不登校はどの児童にも起こりうる」、「自殺するぐらいなら学校に行かなくてもいい」とは、教育業界(文科省・教育委・教師・有識者)の劣化ここに極まる

 9月17日の読賣新聞は、「不登校24万人 居場所作り急務」と言う見出しで、次の様に報じていました。
茶色字は記事 黒字は安藤の意見)
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[あすへの考]不登校24万人 居場所作り急務…教育部主任 小林雄一
2023/09/17 05:00 読売
あすへの考

  
不登校の小中学生が増えている。最新の2021年度調査で24万4940人となり、過去最多を更新した。「無理をしてまで学校に行かなくていい」という意識が社会に広がったことに加え、新型コロナウイルス禍で学校でのコミュニケーションが減ったことが、増加ペースを加速させている。教室に代わる学びの場が必要だが、不登校者の3分の1はどこの支援ともつながっていない。

 
「教室」と「教室に代わる学びの場」はどこがどう違うのか。教師が違うだけではないのか。「教室」の教師に問題があると言うことではないのか。

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「無理に行かなくていい」広がる
コロナ禍で加速

 病気や経済的な理由以外で学校を長期間休むのが不登校だ。関心が寄せられるようになったのは、1960年代。
登校できない、登校しない子どもの存在が顕在化し、文部省(当時)は66年度から、長期欠席者の統計を取り始めた。当時は、「学校ぎらい」「登校拒否」などと呼ばれ、特定の子が「怠けている」と見る向きが強かった。

 
1960年代はグラフを見れば分かる様に、当時の不登校の数は長期低下傾向であり、その後の急増の議論をその時代まで遡る必要は無いし、反って議論の焦点をぼかしかねません。

 
80年代に入ると、校内暴力体罰いじめが社会問題化し、その主な現場の学校を忌避する児童生徒が増える。文部省の有識者会議は92年に「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうる」と認識を転換。98年度からは、名称が「不登校」に統一され、年30日以上欠席している状態と定義された。

 
「校内暴力や体罰、いじめが」が出現・増加して、それによる不登校が増加したのであれば、必要なのはそれぞれの原因を究明して「不登校」の減少・消滅に向けた努力です。どの児童生徒にも「起こり得る事ではない→起こりうる事である」へ認識を変え、不登校に対して“異常”から“通常”に認識を変えるのは、対策を学校以外丸投げする口実造りにすぎません。

 
世間の意識を大きく変えたのが、2011年10月に大津市で起きた中2男子生徒(当時13歳)のいじめ自殺だ。「自殺するぐらいなら学校に行かなくてもいい」という考えが広がり始めた。16年度に成立した「教育機会確保法」は、学校以外での学習を広く認め、そこには休養の必要性も明記。文部科学省は、不登校の児童生徒を支援する際は「登校という結果のみを目標とするのではない」という基本指針を示し、登校を前提としないことを認めた。

 言っていることは
一応もっともなように聞こえますが、生徒が自殺を選ばなければならない様な恐ろしい学校(学級)放置して良い筈がありません。
 ここで言っていることは、不登校はたとえ
「校内暴力や体罰、いじめ」が原因であっても、その対応には学校は関知しないと言うことです。「行かなくてもいい」と言うのは、「来なくていい(来ない方が良い)」に他なりません。

 
学校以外を云々するのは学校関係者責任の所在を曖昧にして、やるべき事を他に転嫁する事を意味します。何と言う冷淡・無責任でしょう。信じられません。“学校以外”で卒業証書は取れるのでしょうか。学歴は“学校以外”卒業となるのでしょうか。

 
自殺を防ぐことはもちろん最優先ですが、その為には不登校もやむを得ない(来なくて良い、来るな!)という理屈にはなりません。誰もが安心して通学できる環境を用意するのが文科省以下教育業界の責務です。
 不登校の原因となった「校内暴力や体罰、いじめ」は、仮に
不登校に至らなくても、絶対にあってはならない事態です。そのことを肝に銘じて、根絶に向けた努力を続けなければなりません。

 コロナ禍の影響も大きい。一斉休校を経てオンライン授業が導入され、朝起きて、学校に行くという子どもたちの生活リズムが崩れた。学校再開後もマスク着用のため友人や先生の顔が見えず、給食は黙食。部活動も制限された。本来の学校生活にある「楽しさ」を経験する機会が失われ、子どもたちは登校する意欲を減退させてしまった。
 不登校の小中学生は、最近10年間で2・1倍に増えた。中学校では、クラスに2人の不登校者がいる計算となる。

 役所は何があっても
コロナに責任を転嫁するのが常態になっています。コロナの影響がなかったとは誰も言えませんが、コロナの影響を示す根拠は何も挙げられていません。
 コロナで「
『楽しさ』を経験する機会が失われ」たのであれば、「待ちに待った学校生活の再開」ではないのでしょうか。もし、そうでないとしたら、“楽しさ”には“?”が付くかも知れませんね。

複雑な事情
 文科省は20年度、不登校の中2を対象に実施した不定期の調査で、「最初に学校に行きづらいと感じたきっかけ」を聞いている(複数回答)。約1300人の回答は、「身体の不調」(32・6%)、「勉強が分からない」(27・6%)と続き、
先生や友人との人間関係を挙げる割合も高かった。

 
注目されるのが、「自分でも分からない」という回答が22・9%あったことだ。スクールカウンセラーとして生徒や保護者との対話を続ける奈良女子大の伊藤美奈子教授(教育臨床心理学)は「不登校になった理由を明確に語れる子は多くない。色々な理由が複雑に絡み合った結果として不登校になっている」と指摘する。

 上記の資料を見ると「
勉強が分からない・・27.6%「先生と合わない 体罰・・27.5%」、「いじめ以外の友達関係・・25.6%」、「友達からのいじめやいやがらせ・・25.5%」は、単純合計で106.2%に達します。
 これらは
教師自身の問題、教師が取り組むべき問題です。「自分でも分からない」に注目するのではなく、「不登校もやむを得ない」などと安易に無責任なことを言う前に、やるべきことをやるべきです。それをしなければ教師失格です。

 
一方、学校側の認識はどうか。文科省が毎年度実施している問題行動・不登校調査の回答者は学校だ。21年度の調査では、不登校の要因について尋ねる設問への回答は「無気力・不安」49・7%と最多で、「生活リズムの乱れ、遊び、非行」の11・7%と合わせると、児童生徒本人に起因するとの見方が6割を占めた。

 
不登校の当事者の思い学校側が十分にくみ取れていないことも、不登校者増の背景にあると言えるだろう。

 これは単なる
“背景”ではなく、「原因」そのものです。教師(学校)は児童生徒とは正反対のことを言っています。これは教師に事態を認識する能力・意欲が全く欠如しているか、最悪嘘を吐いて生徒に責任転嫁していることを明白に示しています。全てはこの点に帰結します。
 いじめが起きても、不登校が増えても、教師は
自分の問題とは思っていないのです。(教師も被害者と思っているのかも知れませんね)

 
生徒の思いが教師とは全く異なると言う事を知っていて、業界関係者やマスコミが、「不登校もやむを得ない」、「学校以外で学習の機会を」、「登校を前提としない」とは悪質無責任極まり有りません。

 近年、
教師の採用で応募者が激減していることが報じられていますが、応募対象の学生達が、上記の実態を知らないはずがありません。しかるに多くの業界関係者やマスコミが応募者激減の原因を、何の根拠もなしに教師の「長時間労働」としているのは全く受け入れがたいことです。
 以上は教師・教育・学校の
劣化として総称できますが、その原因は下記に集約出来ると思います。

@ GHQが始めた教育の
中立(独立)により(公立)学校教育が行政省庁・都道府県・市町村の監視・監督の対象外(特権的地位)とされ、議論に加わるのは、“業界関係者(文科省・教育委・教師・有識者)”だけの“政治不在”で、児童・生徒・保護者(国民)は一切蚊帳の外の文科省体制。

A 
“労働者”意識満載の教師達により、授業や学校行事などに於いて“あれも中止”、“これも廃止”の連続で、それに代わる新たな前向きの提案は皆無で、劣化する一方の学校教育。児童・生徒・保護者不在のやりたい(止めたい)放題の放置。

B 単なる身勝手に過ぎない、都合の良いときだけの教師の
“聖職者”意識と、それによる勤務評価拒絶の悪平等志向。

 これらの問題点がもはや誰にも抑えきれない爆発前夜の状況を迎えているのです。

(以下続く)

令和5年9月22日   ご意見・ご感想は こちらへ   トップへ戻る   目次へ