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人間(国民)は「労働力(労働者)」ではない -我々は“共生”という意味不明の言葉の下で、子や孫達に外国人労働者(移民)という“負の遺産”を残してはならない-
人間(国民)は「労働力(労働者)」では有りません。労働力は人間の持つ様々な側面の内の一面に過ぎません。
外国人労働者が工場敷地内から出ること無く、仕事が終わってからは、工場敷地内の寄宿舎に戻り、休日は敷地内の施設で過ごすというのであれば、彼らを“労働力”として扱うことは可能かも知れませんが、そんな事が許されるはずがありません。
日本に住み着けば例え日本国籍で無くても、日本国の“構成員”となってしまうのです。
外国人導入を「労働問題」として考える(扱う)ことが既に大きな誤り(欺瞞)なのです。
異国民・異民族を“労働力”として迎えることは、家族が住む自宅に住み込みの労働者を雇うに等しく、その苦痛(負担)は労働力が増えることのメリットの何倍にも達します。特別の事情があるとき以外は決して認めてはならない事態です。
在日韓国人(朝鮮人)、中国人の存在は大きなデメリットであり、メリットはほとんどありません。それにもかかわらず、日本では意味不明の“共生”と言う言葉を乱用して日本国民の負担を拡大しようとする勢力が存在します。
外国人労働者の受け入れ問題を「労働問題」として扱うこと自体が、大きな誤りなのです。 このまま進んでいけば、我々の子、孫の世代は、親たちが残した大きな「負の遺産」を背負わされる結果となり、親を恨むことになるでしょう。将来子孫の蒙る“負担”の重さは、赤字財政が誘発する“国債増発”の比ではありません。我々は子や孫達に「負の遺産」を残してはなりません。
令和7年6月5日 ご意見・ご感想は こちらへ トップへ戻る 目次へ