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「生命の選別」論の矛盾

 5月1日の朝日新聞に「胎児の障害理由に中絶 合法化の動きに異論」、という見出しの解説記事があり、出生前診断によって異常が発見された胎児を中絶することを、「生命の選別」として批判していました。

 医師が胎児の異常を発見するのは医療行為である「診察・診断」であり、何の問題もないと思います。診断すると言うことは健康な人と患者を選別することです。通常はその診断(選別)のあとに治療が行われることになりますが、染色体異常など、治療の方法がない場合は、多くの両親が中絶の道を選んでいます。問題はその「中絶」にあると思います。これを「生命の選別」として問題視するのは、その前提として胎児の生命を生命として認めているということになります。当然、中絶は殺人であるとする考え方になるはずです。選別して殺すのがいけなければ、選別しないで(無差別に)殺すのも同様にいけないと言うことになります。選別が是か非かではなく、中絶が是か非かという問題です。選別殺人に反対する人は、いかなる理由による中絶にも反対しなければなりません。アメリカのキリスト教徒の中絶反対論者はそういう人々です。出生前診断の結果に基づく中絶を「生命の選別」として批判する考え方は、中絶を女性の権利として容認する考え方とは相容れないはずです。

 ところが記事の中に登場する女性団体「SOSHIREN女(わたし)のからだから」は「産む・産まないを決めるのは女性であり、法制度が圧力をかけるべきではない。(胎児に障害がある場合の中絶を容認する母体保護法の)条項は、障害がある胎児の中絶を後押しし、しかもその最終決定を女性にさせる、という残酷な状況を作る」という趣旨の抗議をしているそうです。

 女性だけの意志による中絶を容認し、両親の意志による中絶を認めないと言うのは矛盾しています。また、「決定権は女性にある」と言って権利を主張していながら、権利を行使する事を「最終決定を女性にさせるのは残酷だ」というのも矛盾しています。権利は責任を伴うものです。権利の行使を苦痛と思うなら、権利を放棄し、他人に決定を委ねるしかありません。

 出生前診断による中絶が合法化(現状の追認)されたからと言って、現在の障害者の権利が何ら損なわれるわけではありません。障害者の家族や、その支援者によって言われている「生命の選別論」は、生命倫理とかモラルの問題ではない、単なる感情論に過ぎないと思います。

平成11年5月5日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ