九州北部お城ツアー(1)

10/27-29、城郭史学会のツアーに参加して歩いてきました。新大坂7:50発ひかりレールスターで、好天の中、明石,姫路、岡山、福山、広島、小倉とお城を車窓に眺めながら博多着、福岡空港からの本隊に合流。
[元寇防塁]
生(いき)の松原で浜に降り見学。文永12年(1274)に蒙古軍が博多に上陸(文永の役)したので、鎌倉幕府は急遽、防御線として、九州各国に分担させて築造。東は香椎宮から、西は柑子岳に至る20kmに亘る大築地で、弘安4年(1281)の弘安の役には、防塁の効果で撃退したという。高さ約2m、幅約3mくらいで、よく効果があったなあという実感。小早川隆景の名島城改築、黒田長政の福岡城築城に石材転用したという。福岡城で目の当たりに出来た。
[恰土(いと)城] 福岡県糸島郡前原町高祖山
大宰府の対新羅防衛線として、天平勝宝8年(756)吉備真備によって築造された中国式山城。北は高来寺から南は高祖神社に至る3kmの山裾を囲む高さ10mの大土塁。前面は全て石垣でカバーしていたよう。一部埋もれた石垣露出しており素晴らしい。約30分走って唐津城へ
[唐津城]
慶長17年(1612)寺沢広高が名護屋城を転用して築造。文禄・慶長の役の最中に名護屋と並ぶ兵站基地として諸将の手伝い普請で築いたともいわれる。名護屋の石垣と石質が異なり、石材の転用はなかったよう。松浦川河口の満島山に本丸をおき西に二の丸、三の丸をおく連郭式縄張。石垣は良く残る。本丸天守台は13X11.5間の大きさだが天守は造られなかった。現在の鉄筋コンクリートの模擬天守(昭和41)は、藤岡通夫氏が名護屋城天守をイメージして設計したというが、当時はまだ「肥前名護屋城図屏風」は発見されていなかった。昨年も登城したので、天守登閣は早々にして、天守遠望をメインにする。(300mm望遠レンズ初使用)まずは東に歩き舞鶴橋を渡り、天守東側を撮影。西へ歩き、唐津東高西から西の浜に出る。曇りがちで日照不足だがアングルは満足。この天守閣は模擬にしては品があり、眺望は抜群だ。腰郭北西に歩き、海から立ち上がる石垣へ、趣有り。座りこんで波頭越しに狙うが夕暮れ迫り、断念。18時、唐津シテイホテル入り。