九州北部お城ツアー(2)

10月28日、8時スタート、名護屋城に向かう。唐津駅から約40分。まず、堀秀治陣屋ー羽柴秀保陣屋を歩く。名護屋城周辺は半径約3km以内に120陣屋が集中し、10万人が集合する大都市だったという。
[堀秀治陣屋]
名護屋城の南ほぼ1kmに位置し、御殿、能舞台、茶室の礎石が残り、庭園跡も。この邸宅から名護屋城天守を望みながら、悠々と生活したようだ。
[羽柴秀保陣屋]
堀陣屋の西向かい(串浦湾に面した位置)に位置し、陣城群の西端で、串浦からの外敵も意識した重要な役割を持つ特殊な陣城だったという。一郭、二郭に分かれ、合計3万uと最大の陣城で「名護城図屏風」にもはっきり描かれている。羽柴秀保は秀長の養子で、秀長死後は大和郡山を治めた。和歌山城を思わす野面石垣、大きな桝形虎口が印象的。
[名護屋城]
まず印象的なのは、秀吉の築いた大城郭のうち、徳川による抹殺を比較的免れたという点。石垣の角、面にかなり壊された跡があるが、全体的には往時の姿が残っている。大阪城と比べると雲泥の差。昭和43年に「名護城図屏風」が発見されて、かなりの復元が可能になったようだ。山里口虎口他、復元進行している。朝鮮出兵の本陣として、文禄元年(1592)から黒田如水の縄張で、九州大名の手伝い普請により半径3kmの大要塞として築造された。天守は本丸北西隅に五重七階、初重11X10間の下見板張りの華麗なものだった。本丸大手門櫓門が仙台青葉城に移築されたという(空襲焼失)。大手口から西へ馬場石垣裾を歩く。このあたり、高石垣豪快。石切途中に鑿が折れて残った石あり。
二の丸に登るあたり石垣の接合部絵になる。二の丸から本丸へ、この頃から雨が落ちてくる。本丸大手門、現在の石垣の約1m内側に石垣の頂部がはっきり残っている。何かの都合で拡張したんだろう。三の丸を抜け東出丸に出る。如水の左縄城形式明らか。大きな櫓台、右に三の丸高石垣を仰ぎ見ながら大手口に下りる。弾正丸、遊撃丸、山里丸などゆっくり見たいと思いながら、平戸に移動。
[平戸城]
慶長13年(1608)松浦鎮信が日の岳城として築城、大火焼失し、現遺構は享保3年(1718)松浦棟により再建のもの。山鹿素行の軍学実践の城として有名だが、実践例が殆ど見当たらない。わずかに、二の丸東側石垣の横矢掛に形跡残る。雨と団体行動の為、行動半径が制限され思うようには動けなかったが、雰囲気の良い城郭だった。ゆっくりと再訪したいと思う。三の丸駐車場から傘持って北虎口門に登る。ここから地蔵坂櫓の仰観(石垣・土塀)よし。北虎口門入り、地蔵坂櫓へ、復元櫓だが初層板張り、入母屋瓦屋根の二層櫓、雰囲気有り。東に乾櫓、初層板張り、二三層白壁の三層櫓。実質的に天守の役割だったよう。狸櫓(幼稚な看板に興ざめ)から本丸への登りの土塀良く保存されているが、奇麗になり過ぎた感。土塀撮影に苦労する。大きな桝形門を抜け本丸へ北端二層櫓跡に模擬天守建つ。天守からの縄張眺望良し。特に懐柔櫓、奇麗だ。見奏櫓、懐柔櫓を歩き、城外へ南側の大手一の門、二の門、そこからの石垣を見れず残念。幸橋を見ながら戸石川を渡り、対岸を北へ、英・蘭の商館遺構を見ながらお城北西面を見る。いい眺望。雨の中、トップリ暮れて佐賀城着。