信濃路お城紀行

00/4/12 7時半スタート。京都ー名古屋ー松本着11:58.松本駅前トヨタレンタカーで、スプリンター乗車。
高遠に向かう。長野自動車道ー中央自動車道経由で13:30到着。
[高遠城]
古来、伊那の要所にあった高遠氏の居城を、天門14年(1545)武田信玄が襲い、新城を築いた。三峰川、藤沢川の合流する段丘地に築かれ、兜山城とも呼ばれた。縄張りは、甲州流兵法に基づくものといわれ、兵法家山本勘助の手になるものといわれる。
桜の名所として有名で「蕾は未だ固いけど、桜目当ての人の山」という感じで混雑。南郭から登城、三峰川方向の土塁の高さ流石。空濠を渡り本丸へ、南西端に太鼓櫓。こじんまりとした瀟洒な櫓。二の丸から本丸への入り口にある薬医門は城下から移築した問屋門。各郭、土塁、空堀がよく整備され奇麗に保存されており好感持てる。

やや迷って、伊奈ICから中央自動車道に乗り、諏訪ICへ、真っ直ぐ、高島城着15:30
[高島城]
秀吉の臣下 日根野高吉が文禄元年(1592)、大阪、安土築城に関与した経験を活かして築城に着手。寛政12年、天竜道人の油絵によると、本丸、二の丸、三の丸、衣之渡郭は湖中の離れ島で、大手門を抜けると「けやき並木」を通って陸地になり、湖岸には20基以上の櫓が並び壮観だったようだ。諏訪市教委「諏訪高島城」によると、天守その他建物は明治8年に取り壊され、昭和45年に6000万円の予算で、大岡博士の設計で再建。天守は写真を参考に外観復元、新天守の総重量1200tに耐えるため石垣はコンクリート杭で補強し、積み直された。冠木門はもと1重の薬医門だったが、楼門として設計された。角櫓は茶室として設計されたという。天守資料館のおじさんに質問すると、石垣は、積みなおしていないと言い張っていた。しばしば、資料館の職員さんには失望するが、もう少し勉強してほしいもんだ。
到着時間が遅く、天守、冠木門はド逆光になり、諏訪湖畔の「すわ湖苑」に直行。00/4/13.好天を見て、6時から再度撮影に。東の山にうす雲がかかり、ベストではなかったが、薄日を背にしばらく撮影。三の丸、二の丸、衣之渡郭から大手門跡、けやき並木を上諏訪駅あたりまで散策。湖上の離れ島のイメージ何となく彷彿とさせる。