阪急百貨店の前に立つと見渡す限りの焼野原、難波の高島屋が目の前にあった。
横浜からやってきたマンドリン好きが縁あって旭区赤川のトミタ・マンドリン合奏団の門をくぐった。
過去には富田、石原、月村、縄田と、
数多くのマンドリン合奏団があったが、中でも最も古くからあった
富田マンドリンが一番活発だったらしく、ラジオでも定期的に放送されていたそうである。
マンドリン音楽の師であるイタリアのR・カラーチェが来日した時、その活躍ぶりに感動し、帰国後、手製
のマンドリン二丁を富田夫妻に贈ったという。カラーチェが亡くなった時、NHKラジオから
「R・カラーチェの思い出」と題してマンドリン音楽をバックに語られたそうである。
「マンドリン音楽をバックにして放送したのは日本では私が初めてだった。」と、自慢そうに話されたり、
「西洋人は身体が大きいが手も大きい。あんな太い指をして小さなマンドリンのハイポジションを譲り合い
ながら確実に音を出すテクニックには関心させられた。」と話されていた先生がとても懐かしく思い出される。
トミタ合奏団に入部して一番驚いたのはあの戦後の何も無い時代に、メンバー全員がカラーチェの上級クラス
の楽器を揃えておられた事、しかもマンドリンだけでなくマンドラ、チェロ、ローネまで総てが最高クラス
のものであったことである。なんと関西には金持ちが多いのか、というのが実感であった。
私が横浜時代に師事した高橋八郎氏はヴィナッチァであった。当時(戦後)、関東ではヴィナッチァが
圧倒的に多かったと思う。
比留間絹子先生が東京から関西に移られた頃、松下電器に親戚の方がおられた関係で、先生と親しく
させて頂き、松下電器でソロの演奏をして頂いた事もあったが、その時拝見した楽器がやはりヴィナッチァ
であった。富田先生の説では、カラーチェよりヴィナッチァの方が音色に奥行があるということだった。
昭和22年頃、主催者である富田勇吉先生が亡くなられ、その後を艶子夫人が引き継がれ活動されていた。
私もお蔭を持って昭和23年、合奏団の一員としてNHKラジオで生放送を30分、朝日放送で録音放送を
30分と、貴重な体験を持たせて頂き、通常の演奏会とは全く異なる緊張感を味合わせてもらった。
あの当時、まだ26歳位であったが、合奏団に入るなら大きい所、有名な所に入らなければ損だと打算的に
考えていたことを思い出す。