大阪でのマンドリン活動と私2  橋本 等


昭和32年4月

モザールの前身である松下電器中央研究所マンドリンクラブを、一寸楽しむ位の気持ちで創立させたのが この頃である。

昭和35年、社内で初めての音楽祭が産経ホールで開催され、我々マンドリンクラブも『トロイカ』を、 コーラスと合同で演奏したのが初舞台であったが、かなりの好評であった。
この事があって部員も増え、 昭和40年にフェスティバルホールで第9回日本産業音楽祭に、松下電器ナショナルマンドリンクラブと して出演、服部 正の『旅愁による変奏曲』で、優秀賞と職場音楽賞の二つを受賞した。
私達にとって 予想もしていなかった事だけにその感激はひとしおであった。幕が下りると同時に、感激のあまり舞台上 で全員が拍手をしあって喜んだ事が、今でも目のあたりに浮かんでくる。
当時の産業音楽祭は各ジャンル 70数団体が技を競ったが、非常に厳しく、優秀賞と職場音楽賞の二つを合わせて受賞する団体は10 団体位しか無かった。
それまで、松下電器からも毎年4団体が出演していたが、8年間何も受賞出来ず、 マンドリンクラブが初めて受賞したのである。

その為、一躍社内でも有名になり、当時の社内新聞、月刊誌、社内ニュース(映画)にも取り上げられ、 更に本社からの予算も出る様になり、その後の活動が非常にやりやすくなった。そして、それからの12 年間に連続して優秀賞を10回、職場音楽賞を8回受賞する事が出来た。最後の10年目のは『劇的序曲』 で有終の美を飾ったのである。
自分なりに曲を作り上げ、プロの人達(吉村 一夫、高木 東六、服部 正、長井 斉、野呂 信二郎、 朝比奈 隆、山本 直純、大栗 裕、辻井 市太郎、日下部 吉彦)から批評を受けるという、これ程 恵まれた環境は無かったと思っている。この期間は私自身にとっても貴重な体験となり、またプラスに なった。そして私なりに自身に繋がったように考えている。

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