大阪でのマンドリン活動と私3  橋本 等


昭和39年頃

トミタマンドリン合奏団と現在エルマノマンドリンオーケストラの主催者、木下 正紀氏のグループが 合同でオーロラマンドリン合奏団が誕生、大阪で演奏活動をされていたが、2年程で解散した。

それからトミタマンドリンは、昭和43年頃から次第に衰退し、現在では活動が止まっている。
しかし木下氏はその後京都でエルマノマンドリンオーケストラを結成し、現在でもトップクラスの活動を されている。


昭和40年頃

職域のマンドリン活動は黄金時代を迎えていた。
当時マンドリンクラブのあった所は20数社と思えるが、 外部に出て活動していたクラブは15社(870名)位<、参考までに述べると、日本生命(125名)、 三和銀行(85名)、大阪ガス(60名)、松下電器ナショナル(63名)、住友生命(47名)、 三井物産(42名)、住友金属本社(32名)、東京海上(36名)、関西電力(26名)、ダイキン 工業堺工場(30名)、東洋紡(40名)、倉敷紡績本社(40名)、三菱商事(25名)、日興証券、 大日本紡績貝塚女子、川崎製鉄(25名)、神戸製鋼(54名)、近江兄弟社(63名)、倉紡木曽川 工場(82名)


昭和41年頃

大阪電気通信大学ギターマンドリンクラブの中島 良造氏(モザール創立当時の事務局長)が三好楽器より 紹介され来社、電通大でマンドリンクラブを作りたいので指導に来て欲しい、と要望を受け再三断って いたが、ついに根負けして指導にいくようになった。
現在までの約20年間、私と電通大メンバーとの 付き合いが始まるきっかけになったのである。(昭和53年寄稿)

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