富田マンドリン門下の人達30名を中心に大阪にマンドリン合奏団を作りたい。と、赤尾 静造氏から
協力を求められた。躊躇したが心の中では「この大阪に会社では望めない立派な合奏団が欲しい」と
思っていた。
企業内の合奏活動には限界があるし、これ以上の発展を望む事に難しいと以前から考えていた
事もあるし、色々な所から色々な経験を持ったベテランが集まってレベルの高い演奏が出来る様になれば
松下電器マンドリンクラブにとっても勉強になると共に、向上に繋がると考えた。その上にプロのタクト
で演奏が出来れば更にプラスになる事と信じ、率先して協力することにした。
赤尾氏は服部 正先生と親しい関係にあったが、団員が30名程度では大阪まで来てもらえないと考え、
松下電器マンドリンクラブから44名(内電通10名)を参加させる事にした。
赤尾氏と二人で、東京原宿の服部先生の自宅まで、指揮者として迎える為のお願いに行き、諒承して頂いた。
そして幹部合意の上、大阪マンドリン合奏団(常任指揮:服部 正)と命名、赤尾氏を中心に昭和44年5月
、第1回演奏会をもって発足させた。
当時、関西一と噂され会場はいつも満員で、マンドリン界としては不思議な程であった。
しかし問題もあった。
それは松下から44名と、過半数以上の人数が参加していた事で、『松下電器』という言葉を大阪マンドリン
の中では禁句にし、全体の和と雰囲気に神経を使って行動する様にしていたが、ついに第10回定演を最後
に解散となった。
現在では一部の人達が残り、大阪マンドリンソサエティーと名を変え、北尾 幸三氏を
指揮者に迎え活動されている。又、共に活動されていた小田 善朗氏は別にエコーマンドリンを創立させた
が、現在は小さなアンサンブルとして異色な演奏活動をされている。(注:昭和53年現在)
記憶は確かではないが、この頃に『日本マンドリン連盟』が発足した。
当時、三菱商事の山口 寛氏に
「大阪の社会人クラブからは、松下電器の橋本は必ず参加して欲しい。」と一方的に連盟の常任理事にさせ
られた。幸い、初代支部長は京都の鳥井氏で以前からの知り合いでもあったのだが、ヤマハ楽器での発会式
に参加した鳥井支部長、二代事務局長高城氏を通じて何回か、連盟が主催して全国的な合奏コンクールを
実施すべきである、と要請、進言した。