大阪でのマンドリン活動と私6  橋本 等


昭和50年頃

松下電器マンドリンクラブの若返りを図る為、クラブの部長と指揮を若い人に譲り、私は第一線から身を 引き、下手なチェロをぼつぼつ弾きながら、定年後もマンドリンと縁を切らずに楽しもうと考えていた。
しかし、思いもかけずその年13名が退部、その後も次第に部員が減っていく状態が続き、慌てて現役の 部長に返り咲き、引き締めにかかったが既に遅く、合奏団はどうにもならない状態であった。

会社内では人数的にも技術的にも今以上を望む事は無理、将来性は期待出来ないと判断し、今ここで クラブの再興を考えるよりは視野を広げ、思い切って外部に人間を求め大きく飛躍しよう、と決心した。

そして昭和53年10月1日、中之島中央公会堂においてモザールマンドリンオーケストラを誕生させたのである。
今まで、他人をあてにして協力してきたマンドリン合奏団をとうとう自分が作る羽目になった・・・・・

以上が私の知る大阪でのマンドリン界の状況である。

★注:寄稿は昭和53年のものです。

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