時は何もしなくても流れていき、「日常」は至極当然なものとして我々は
認識しています。でも、そんな「日常」は案外当たり前の物ではなく、
後になって考えてみるとかけがえのないものだったり、特別なものだったりして、
二度と手に入らないものだと最近思うようになりました。

 日常、それは色々な「自覚の無い幸せ」が積み重なって出来た愛すべき日々。
そして、多分嫌な事も辛いこともひっくるめての愛すべき日々。
という事で、私が過去と現在において感じたり思ったりした事をつらつらと
書いていこうと思います。よかったらお付き合いください。

By なつむ


1 ・「今一番会いたいのは誰?」

 先日、母と「もし誰でもいいから会わせてあげよう」と言われたら誰に会いたいかという話しになった。 それは存命中じゃなくてもいいという事になった時点で二人とも即座に「ナナに会いたい」と答えた。

 翌日、父に同じ質問をしてみたが、彼も「ナナに会いたい」と即答した。 ここで凄いのは、両親ともにそれぞれの親や兄弟ではなく犬を選んだという事。 そして、死後2年たった今でも家族中に愛され、家族でい続けているというナナの存在の強さ。 何せ家族全員が会いたい筆頭がナナなのだから。

 ナナ。彼女は生後1ヶ月で我が家にやってきた、シェットランド・シープドッグ(シェルティ)の女の子だった。 私たち家族にとってナナは2匹目の犬で、先代のシェルティ、シェリーが亡くなってすぐに 寂しさに耐えられなかった父が見つけて来た。

 我が家に来た日から3日間、彼女が子犬の時の映像が残っているのだが、あっという間に 家族に馴染んでいった様子がよく分かる。生まれたての赤ん坊が、どこだか分からない 場所ですやすやと安心して眠り、数時間後には皆に愛嬌をふりまきながら駆け回っているのだ。 すぐに自分の名前を覚え、出来るだけ家族の側にいようと努力し、やんちゃぶりを発揮して私を育児ノイローゼ近くまで追い込んだ彼女は、とにかく感情が豊かだった。

 自分のおもちゃを持ってきて、投げてくれと渡すのでしばらく付き合ってあげるのだが、 いつまで経っても飽きない彼女に「ナナ、もうそろそやめようか」と言うと、「えっ!」とまるでこの世の終わりみたいなショックな顔をして、くわえていたおもちゃを劇的に「ポロっ」と落とす。
更には、人間でいうと上唇に当たる鼻周辺の部分を、どうやったらそうなるのか生涯ナゾだったが、ぷっと膨らめてふくれるのだ!!自分の要求は全てこちらに伝えるすべを彼女は持っていた。

 散歩やご飯をねだる時には背中にあごをのせて来るし、必ず自分が視界に入るように移動して アピールすることを忘れなかった。吠えることはほとんどなく、目や態度で色々なことを 伝えてきた。出かける支度を始めると、自主的に自分のサークルに入りお留守番モードになる。
抱っこされるのは嫌いだが、家族とはくっついていたいから、座っているとお尻にお尻を くっつけて眠っていたりする。私がお風呂に入る時には、私が脱いだ洋服の上で丸くなって 眠り、私が出てくるのを待っていた。
かまってもらうのが大好きで、私が耳掃除や肉球周辺の毛のカットを彼女にしていると、 いつもうっとりモードになっていた。

 犬でありながら犬らしくない彼女の行動は見ていて飽きることはなかった。
雪の日に庭に出してやると、汚れるのが嫌いな彼女は置いたままの状態から一歩 も動かず困った顔で立ち往生している。
家の中で飼っていたので、雷が鳴ると普通、犬は怖がるものだがその怖さを知らず、 天井に向かって怒って吠えていた。
雨の日に散歩をねだってくるので、一緒に雨を見に行くと納得してあきらめる。 無茶なことをする子供が居ない家で育ったので、人間に対する不信感はなく、 故に「猫だまし」のように目の前でパン!と手を叩いても瞬きをしない・・・が、 からかわれてると分かると、もう!という感じで飛びついてくる。
お客さんが来ると、苦手な人でも歓待はしないといけないという使命感にかられ、 一応「お手」といわれれば「お手」をし、「おかわり」と言われれば「おかわり」をして みせるが、顔は終始そむけたままで、精一杯の努力をしているのが飼い主には 手に取るように分かった。

 一度庭から外へ落ちて公道に出てしまった時のエピソードは忘れられない。
家のチャイムがなったのでインターホンに出た母に、家の前を通りかかった人がこう言った。
「お宅の犬が、中に入れてくれって門の外で鳴いて(泣いて)るんですけど」
ナナ、最大のピンチ!である。どこかに逃亡するなんて彼女の頭の中には全く無く、 入れなくなってまずったな?と思い続けてないていたらしい。

 ピンチといえば、子犬の時、ガムテープで遊んでいたナナはあろう事か首がその中にすぽっと 入ってしまった。もうパニックである。ガムテープの首輪をしてぐるぐる周り続けるナナを 父が押さえ込み、ズボッ!とガムテープから抜きとり無事解決したが、あの時の慌てようは 忘れられない(笑)
とにかく彼女は父が一番怖くて、彼が怒るとナナは母か私の後ろに隠れた。そう、子供みたいに。

 そんなナナがいなくなってもう2年が経つ。彼女が亡くなった5月9日が今年もやって来た。
悲しみというのは時が経てば常に囚われているものではなくなるが、決して薄らぐものではなく、 寂しさはかえって酷くなる事、時折津波のように押し寄せてくるものである事をこの2年で知った。 彼女の居ない生活に慣れた私だが、今でもいつでも簡単に涙目モードに入れてしまう。

「今一番会いたいのは誰?」とナナに聞いたら、彼女は間違いなく「家族」と答えるだろう。 この相思相愛はこれから何年経っても変わらないような気がする。

◆2008.5.21. By なつむ◆

2 ・「らくだ年の女」

 新聞を読んでいると、取材を受けた人は全く意味もなく基本的に名前の後ろに( )付きで年齢が書かれている。
コメントに年齢が必要だとは思えないのだが、新聞社はどうしても明らかにしたいらしい。また、ワイドショーを見ていても 芸能ニュースのテロップにはカッコ付きで年齢が出てくる。これは日本だけの現象かもしれないが、そこに必要性は感じない。しかし、出されるとああ、そうなのか。もうそんな歳なのかとか、まだこんなに若かったのかと思うことは思う。年齢を知る事によってその人に対する印象、見方が物凄く変わるという事は無いと思うのだが、一つの尺度にはなるようだ。

 さて、私の友達に「らくだ年の女」が居る。彼女はこのサイトを読んでくれているので、今頃、あ、私の事だ!と思っているに違いないのだが、自称「らくだ年」だし、ウィットのある女性なので許してくれるだろうと安心して書くのだが、もう10年近いつきあいになるのに、未だ私に年齢を明かしていない。彼女の年齢の伏せ方は徹底していて、共通の友達も知らないと語り、しかも非常に用心深いという発言をしていた。確かに彼女は用心深い。

 以前、京都下鴨神社に行った時のこと。境内には干支の祠が並んでいた。私は自分の干支の前で手を合わせていたのだが、用心深い彼女はど真ん中に立ち一歩も動かない!聞くと「だって私、らくだ年だから、ここにないのよ」と答えた。
恐るべし、らくだ年!しかも彼女の同級生も一緒に居たのだが、二人して一歩も動かないという徹底ぶり!あっぱれである。
 いまや長い付き合いだし、それを知ったところで何が変わるわけでもなく、知らないでいても同様なのであえて聞いてみようとは思わないが、私より年長者であることは確かだ。今度一緒に海外旅行に行くのでそこで分かるかもしれないと思ったりもしたが、彼女が旅の手配をしてくれたので今回もまた謎のまま終わった。

 ところで、年齢って何なのだろう。関係ないといいながらも、自分自身年齢による線引きはされたくないと思うし、わざわざ明かして周るものでもないと思っている。

 という訳で、私はとりあえず年齢不詳を目指しているのだが、その中で気づいた事がある。人に年齢を推測させないようにするのなら、子供の頃見たテレビや映画の話しは避けておくに限る。簡単に計算できる情報を人に渡さないのはポイントだ。

 以前「仮面の忍者赤影」の赤影の役者が亡くなった時に、職場の部内全員でそうなのか?と語った挙句、「全員が分かるという事は、平均年齢が高い部だ」という事になった。本放送で観たのか、再放送で観たのかが次なる話題になったのは言うまでもない。観たもの、食べたもので歳が分かるというのは面白い現象で、給食に鯨が出たかとか、何のアニメを観ていたといった摂取したカルチャーで人はその人の大体の歳を考える。

 それ故私の場合、親の世代の文化も知っているのでとんでもない誤解を生むことになる。「トリスを飲んでハワイに行こう」と言った途端に上司がのけぞった。君は何歳なんだと。私の見た目と「トリス」の間には、何年ものギャップがあったに違いない。いや、実際に実年齢と「トリス」の間にも何年ものギャップがあり、このコピーが出来た1961年には私は当然陰も形も無く生まれていなかったのだが、私の場合時折発言が古い。
 PPMとかサイモン&ガンファンクルも親の影響で知っているし、GSの話しも聞いている。子供の頃には母の影響でMGMのミュージカル映画を山のように観たし、祖母の影響で歌舞伎にもそこそこ詳しくなった。
 しかも、マセガキだったきらいがあり、私の年代では出会っていないようなものも自ら摂取している。何せ4歳で自ら映画を選び、小学生で自らチケットを申し込み、大人しかいないコンサートに行っていたので、「○○のコンサートに行った」という話しをすると、大抵小学生で行っているはずは無いと思われるので、「え?一体いくつ?」と聞かれてしまう。 次第にそれが面倒になり、最近では気が向かないと自分の子供の頃の話しはしなくなっている。

 ところで、この頃テレビで私が生まれた年代のフィルムが流れると自分の歴史を感じるようになってきた。こんなに昔だったのかと驚きを覚えるのだ。自分は昔と何ら変わらない感覚で居ても、周りはどんどん変化を遂げているらしい。

 子供の頃、大人は何でも分かっていると思っていたが、自分がその歳になると、子供の頃とさして変わらない感覚も持ち続けていることが分かる。もちろん社会で普通に過ごせているのだから大人にはなっているのだが、変わらない部分というのはあり続けていて、分からない事も相変わらず多い。
 上手な歳の重ね方をして、シワが似合うような人になりたいと思う反面、自分の体に年齢を感じる変化が出ることに抵抗したい自分も居る。久しく会ってない知人には、変わらないねと言ってもらいたいと思うし、変わらない努力はある程度すべきだとも思っている。

 それは多分「らくだ年」のあの人も一緒なんじゃないかと思う。楽しく生きる為にアンチエイジを試みて、年齢による線引きや偏見を避け、煩わしさから解放されるために「らくだ年」を選択する。
そして、もしかすると私も数年後に同じ行動に出ているかもしれない。干支を聞かれてこう答えるのだ。「らくだ年」と。

◆2008.5.25. By なつむ◆

3 ・「友達Mちゃんの話し」

 高校まで公立に通っていた私は、大学に入り初めて他府県の「学友」が出来た。案外そういう人は多いかと思うが、大学の親友Mちゃんは金沢から京都にやってきた。
 人間、あちこちの地方の人間が集まると緊張しているうちは、限りなく標準語に近い言葉で話しているものだが、慣れてくると次第にそれぞれが自分の言葉で話すようになる。という訳で、私は彼女から金沢弁を垣間見る事になった。

 さて、私とMちゃんは大学で音楽教育学を専攻していた。中高の第一種教員免許が取れないと卒業させてくれない学部である。という訳で、勉強に追われる4年間という、今時には珍しい学生生活を送る事となった。

 私の取った専攻は一学年大体25人という非常に少ない人数で、5人に一人声楽とピアノの先生がついていた。当然日々練習に追われるのだが、構内には音楽棟というものがあり、ホール、それぞれの教授の部屋、講義室、そしてアップライトピアノが一台づつ入っている練習室が80部屋ぐらいあった。とかく恵まれた環境だったのだ。
 という訳で、個室にこもって練習する事になるのだが、私はとかく練習が嫌いですぐに飽きてしまう。一方Mちゃんは練習熱心で常に練習していた。互いに向かい合わせの部屋にこもり練習を開始すると、大体20分ぐらいで私はMちゃんの部屋をノックする。「もう飽きたの?」と言われながらMちゃんの部屋の床に座り、本を読み始めたりする。几帳面なMちゃんは私が大嫌いなメトロノームを使って、これまた几帳面に練習している。弾けない場所をちゃんと部分練習してクリアしていくのだ。そんな彼女の口癖は金沢弁だと思われる「いかん、いかん」だった。

 さて、彼女は4年間それはそれは真面目に練習した。そして、ついてない事が多いと自称する彼女はその4年間でいろんな目にもあっていた。
 何故か下宿の押入れから釘が出ていて怪我をした事がある。また、確か同じ押入れから出て来たムカデに刺されたこともあったと思う。検品のアルバイトに行った時には、サインをするのに「嶋」の字が画数が多くて、何でもっと簡単な漢字じゃないのかと自分の苗字を嘆き、3個100円の特価やきそばを購入して食べていた時には、学食でも無意識で焼きそばを頼んでしまい「私、何しとんのやろ・・・」とボヤいていた事もあった。

 そして私である。一つ年下の私は、完全に末っ子ポジションでわがままを聞いてもらっていた。下宿に泊めてもらった時、真夜中にお茶漬けが食べたいと言ったら、黙々と夜中の2時ぐらいに本当に米をとぎ、ご飯を炊いてくれた。起床時間15分前から5分おきに鳴るようにセットされた目覚ましに、もっと寝てられたのに!と朝からキレた私をかわしながら、ツナ入りオムレツを焼いてくれた。めんどくさがりなのに、実は几帳面な彼女は音楽の教員免許のほかに司書の免許まで取って卒業した。

 そして、専門のピアノでも日々の努力は偉大で、卒業試験ではリストの「メフィストワルツ第1番」を弾く事になった。メフィストワルツ。それは極めて技巧的であり、難曲であり大曲である。この曲の持つ妖艶さを彼女が表現していた記憶は実のところ余りないのだが、そのテクニックは安定しており、ちゃんと弾きこなしていた。

 さて、卒業試験が終わると卒業演奏会を迎える。卒演は、一人20分のプログラムを組んで臨む卒試から1曲選んで演奏するというもの。私は卒試でラヴェルの組曲「鏡」から「道化師の朝の歌」をセレクト。緊張の中無事演奏が終わり、Mちゃんの演奏を聴くべく会場へ移動。そして彼女の演奏が始まった。日頃着慣れないドレスをまとい、ピアノの前に座る。メフィストワルツの出だしは、低音の三連音符。ところが・・・

「あれ?これめちゃくちゃ早くない?」
緊張の余り、彼女はとんでもないスピードで曲を弾き始めたのだ!この早さでこの超絶技巧な曲を弾ききれるのか?!日頃の速度を知っている仲間たちの間に緊張が走る。しかし彼女は振り返ること無く突き進み(突き進むしかない)次々に難しいパッセージをクリア!凄い。物凄い演奏である。ワルツというより疾風のごとき疾走感!
 曲も半ばを過ぎた頃、我々の中に、これは大丈夫かもしれない。という安堵が広がってきた。さすが日頃良く練習する人だけあって、この速度で弾いても技術的には破綻しないのだ。そして、我々が緊張の中待ち望んでいたエンディングが近づく。やった、彼女はどうにか弾ききった!!と仲間たちの間に安堵のため息が広がる。そして演奏が終了し、会場からは拍手が。良かった?。大丈夫だった?と胸をなでおろした瞬間、演奏を終えた彼女がピアノの前で右にくっと首をかしげた。遠く離れた客席には聞こえなかったが、いつもの口癖「いかん、いかん」がもしかすると口から出ていたかもしれない。

 その瞬間「えーっ!!!そ、そこで首を傾げるの?!」と私の中で笑いのつぼがギュっと押された。こんな超絶技巧な演奏をしておきながら、自分の演奏に首をかしげて舞台から引き上げてくる。これこそ愛すべきMちゃんである。

 この時の様子は何年も経った今も、ビデオで見ることが出来る。そして、その姿に思わず笑みを浮かべてしまうのだ。絶妙なタイミングで自分の演奏に首をかしげてしまう彼女に。

◆2008.6.1. By なつむ◆

4 ・「だから、暑くないですか?の謎」

 私の大学は京都の街中にあった。そして京都の夏はすこぶる暑い。どれぐらい暑いかと言うと、講義が終わって外に出ると物が歪んで見えるぐらい暑い。蜃気楼が見えると何度思ったか分からない。しかしこれは、京都の夏が暑いという話しではない。

 とある京都の大学に、イタリア人の先生が居た。彼の名をサルバトーレ・ニコローシ(仮)という。
彼は対位法(バロック音楽はこの対位法を基準に作られている)の教師であり我々には伴奏法を教えていた。日本人の妻を持つ彼は日本に長く、日本語を自由に操っていた。自分は「富田林に住んでいる」という話をした時には、林の二つの木を物凄く離して、「これぞ飛んだ林です!」という分かるようで分からないギャグを飛ばしていた。そして、京都の大学だけに京都弁が行き交う構内で彼は、「ニコローシは?ん」と年長の教授から呼ばれていた。

 そんな彼には謎があった。授業のチャイムが鳴り、講義室に入ってくると彼の第一声はいつもこうだ。
「だからぁ、暑くないですか?」
そう。京都の夏は暑い・・・確かに暑いが、何故にいきなり「だから」? ドアを開ける、中に入る、そして「だからぁ!」はどう考えても変である・・・

という疑問があっという間に我々の間に広がった。
「いきなり入ってきて、だから、は無いやろ!何か先に話してて、だから、やろ?!前は無いのか!前は!!」
と京都在住のOちゃんが吠えた。
「サルバあかんな?。日本語、いまいち分かってへんのかも」
と大阪在住のUちゃんが言った。

何故彼はいつも第一声目に「だから」を使うのか。その謎は謎のまま通年、我々は彼が使う「だから」を聞き続けた。

 さて、大学を卒業してからもサルバの「だから」は私の中にひっかかりとして残っていた。
何故彼は「だから」からスタートするのか。記憶の中になんとなく残る「だから」。 その謎が意外な事から解けたのである。

 数年前、ウィーン旅行をした時の事。「マイヤーリングと地底湖ツアー」という現地バスツアーに参加した。日本語ツアーでは地底湖がつかないので、英語ツアーをセレクトしたのだ。
さて、集合時間に集まるとやたらといろんな言語が混ざっている。まあ、英語ツアーはこんな感じかなと思ってバスに乗り込みガイドのおばさんが話しだした途端、
「あれ?」
私を含む友達3人が顔を見合わせた。このツアー、英語とイタリア語ツアーなのだ!凄い。ガイドさん一人が二ヶ国語でガイドをしていくなんて。しかも英語はドイツ語訛り、イタリア語もドイツ語訛りである(笑)
英語が分からない友達の為に、英語が得意な友達と少しは分かる私が通訳をすべく必死で彼女の言葉を聞くが・・・
「ああ。英語とイタリア語の境目が分からない!」
そう。そうなのだ。どこで切り替わったのか、ドイツ語訛りの共通点がそれをややこしくしている。ところが、その後ある法則を見つけた。

「Allora(アロッラ)」

 この言葉が切り替わる時に必ず入っている。これはイタリア語で「ところで」のような意味である。この言葉。イタリア人はとにかく良く使う。話題をかえるときにも使うし、会話のはじまりにも、「えーっと」みたいな感じでも使う。と、ここではたと気がついた。
サルバが使っていた「だから」これはもしかして、このイタリア語の「Allora」から来ていて、「Alloraは日本語で何と訳すの?」と聞いたところ「だからぁ」と教えられたのかもしれないと!!!

 彼の中では「Allora、暑くないですか?」が微妙に誤訳で「だからぁ、暑くないですか?」だった。
これだ!絶対これだ!!やっと分かった!それは、ウィーンの森に向かうバスの中で数年来の謎が解けた瞬間だった。

◆2008.6.8. By なつむ◆

5 ・「癖にも色々あるもので」

 人には人それぞれの癖がある。私は子供の頃爪を噛む癖があって、親から毎日注意されていた。中学生の頃にはその癖はぴたりとやまり、爪の形は変形する事なく現在に至っている。しかし、癖というのは治したくてもなかなか治らないものだと思う。

 さて、私の通った大学に作曲の先生が居た。初めての講義で、ユーミンが好きで全部アルバムを持っていると言ってしまったが為に、口の悪い私達から「大全集」というあだ名をつけられてしまった可愛そうな先生である。
 彼の専門は作曲だったが、作曲以外に指揮法の授業も受け持っていた。指揮法の時間というのは、全員指揮棒を持って「しゃくり」(振り上げる)と「たたき」(振り下ろす)を習い、その後全員で器楽クラブのように合奏をして、当番でその指揮をするというのが授業内容だった。毎回数人が指揮者になるという授業だったので、大全集自身が指揮をするところは見た事がなかった。

 さてそんなある日、構内で演奏会があった。合唱の指揮で大全集が登場。すると、先輩達が口々に何かを囁き始めた。
「ほらほら、見てて見てて」何を?と思った瞬間、我々には背中を向けている大全集の腰が、音と合わせて右側にキュっと動いた。

 こ、腰が動いている・・・しかも音とシンクロしてはっきりと動いている!しかも何度もそれは繰り返され。。。ああ、何だか笑いのツボが押されてしまうではないか。笑わず歌い続けている人たちは慣れているのか、努力しているのか・・・

 という訳で、それ以降大全集の指揮は要注意になった。笑うに笑えない状況でおかしいという事ほど苦しいことはない。
しかし、誰も助言してあげないのだろうか。それとも、治そうとしても治らないのだろうか。私から直接本人に、先生あなたの腰はおかしいです、とは話すことも出来ないし・・・という事で、当然の事ながら傍観する事となった。

 そんな中、突然構内でオーケストラサークルが立ち上がった。顧問はもちろん大全集である。
私も何度か顔を出したが、所詮オケの楽器が出来るわけでは無いので、自然と足が遠のいた。そんなある日の事、こんな便りが私の元に届いた。

 オーケストラでカルメンをやることになり、闘牛士の歌を練習していた時の事。大全集は練習だからパイプ椅子に座って指揮をしていたらしい。あの名曲はなかなか勢いのある曲であるのは言うまでもない。そして、大全集は腰掛けた状態で曲の頭から指揮を始めた。そこで運悪く、例の癖が出てしまったのだ。オーケストラのメンバーが彼の指揮に集中し、見守る中、彼の右腰は「闘牛士の歌」の出だしの音とともにキュっと持ち上がり、次の瞬間、バターン!と、椅子から転げ落ちていた。らしい。これぞ、文字通り痛い目に会ってしまったんだなぁと気の毒に思いながらも失笑してしまった。

それ以降、彼の癖が治ったのかどうかは、私は知らない。

◆2008.6.15. By なつむ◆

6 ・「親心ゆえ・・・」

 幼少の頃、私はすこぶる体が弱く全く予定が立たない子供だった。顔色がいいねと言われれば発熱を意味していたし、ちょっと騒ぐと喘息が出て汚い話しだがもどしていた。それ故、予防接種も受けることが余り出来ず、子供がする流行病をすると大事になった。水疱瘡にかかった時は、その病院で二番目に酷い水疱瘡だと医者に言われた。一番だった子供は脳炎を起したらしい。そんな状態だったから、幼稚園にも行けない日が多かった。

 さて、そんな幼稚園時代。どこの幼稚園でもあると思うが、おゆうぎ会がやって来た。年少組だったので4つの時の話しである。私が在籍していたもも組の出し物は「みにくいアヒルの子」になった。そしてあろう事か、もも組の先生は私を主役に選んだ。この、しょっちゅう休んでる子供を通しの主役にしたのだ。これには同じ組のお母さんは怒った。普通主役は何人かに分けるものだが、何故一人?!しかもしょっちゅう休んでる子を!という訳である。
 選ばれた私は子供だったのでよく分からなかったが、恐らく母への風当たりは強かったに違いない。また、随分リスキーな子を先生は選んだものだと、未だにこれは謎である。

 さて、どうやってその役を覚えたのかは今となっては全く記憶にないが、写真を見る限りちゃんと演じていたらしい。アヒルの子の時には水色のレオタードにヒナの顔の帽子を被って物語に則したポーズを取っている。
 衣装は二つあり、一つはみにくアヒルのレオタード。もう一つは白鳥用の白いチュチュだった。これは当時私が習っていたバレエのお教室から、母が借りて来たもので、白いチュチュと両腕にはオーガンジーの長袖がついており、腕には紫色の花の飾りがところどころついている。そして頭には、白鳥をイメージさせる白い羽付きの小さな王冠がついていた。

 おゆうぎ会の数日前に行われたドレスリハーサルの時、初めてこの白鳥の衣装がもも組の皆にお披露目された。もちろん親付きでそれは行われたらしい。

 さて当日。みにくアヒルの子が大きなミスもなく順調に進み、いよいよ「みにくいアヒルの子」が美しい白鳥になってアヒルの兄弟たちに会うシーンへと突入した。すると、あろうことか、全員が白鳥になってるではないか!母はその光景に驚き、次には笑ってしまったらしい。

 そう。私以外すべてのアヒルの子も全員白鳥だったという新解釈がここに誕生した!!親心ゆえの、物語の改ざんである。

◆2008.6.20. By なつむ◆

7 ・「日本の子供の前に立ちはだかるバイエルの話し」

 今の子供たちが未だにこの教材を使っているかどうかは知らないが、我々が子供の頃、ピアノを習いに行くと間違いなくバイエルがついてきた。バイエル。それは上下巻に分かれ、子供たちの前に立ちはだかる意味があるのか無いのか良く分からない「壁」である。
何せこの教材は106曲もあり、ピアノのレッスンで律儀に一曲づつ練習させられたとしたら相当な時間がかかる。実際、相当な時間をかけて進むが為に子供たちは挫折し、ピアノが嫌いになっていく。と、思われる。

 さて、私がピアノを習い始めたのは6歳の時。それまで河合音楽教室に通っていたのだが、これは完全におゆうぎ教室であり、この時点では全く譜面が読めなかった。しかし、私が最初に習ったヤマハの先生は、河合音楽教室がそんな状態だとは全く思わず、何を思ったのかいきなりバイエルの下巻を渡して来た。

 全く楽譜が読めない私の前に置かれたバイエルの下巻。多分この時が私のピアノ人生最大の危機だったと思う。自分からピアノを習いたいと言い、ピアノを買ってもらったにも関わらず、読めない楽譜を前にすっかり嫌になってしまったのだ。
という訳で、敵前逃亡状態で、ピアノを辞めたい!という騒ぎになり、生まれて初めて母から叩かれた。母に頬を叩かれたのは、後にも先にもこの時だけである。大人になった今考えてみると、それはそれは腹が立った事だろうと思う。また、この時叩かれて良かった。何せ今、弾きたい曲が基本的には何でも弾けるようになっているのだから。楽器は子供の頃からやっていないと思うように扱えない。

 さて、ここからの1週間が凄かった。ブラスバンドでフルートを吹いていた母は、早速音符カードを作ってくれた。小学校から帰ると、母と二人音符カードを見て「ド」とか「ファ」とか言いながら訓練が始まる。もちろん音符の長さも正確さを求められる。そのお陰で1週間後にはバイエル下巻の一曲目が問題なく弾けるようになっていた。その後練習嫌いな私はレッスンの当日に数分弾いては丸をもらい、1年生の終わりには106番まで弾き終わっていた。今になって考えてみれば、上巻スキップは最初の1週間こそ大変だったが、非常にラッキーな事だったとしか言いようがない。この速度で進まなければ、恐らくピアノの道に進もうとは思わなかったと思う。

 という事で、私は1年弱の付き合いでお別れできたバイエルだが、私の周りでは黄バイエルとか、赤バイエルとかといった言葉が良く飛び交い、なかなかその壁が越えられない友達が続出。バイエルが終わると進む「ブルグミューラー25の練習曲」は急に音楽らしくなって楽しいので、皆早く進んで来たらいいのにと思っていたが、106曲もあるバイエルがある以上、はなかなかそうは行かないらしい。子供ながらに、バイエルに何の意味が?と私は思っていた。

 さて、バイエルの記憶が遠いものとなった先日。職場でピアノを習っていたか?という事が話題になった。 普通は女の子のお稽古事というイメージがあるが、その中で一人
「僕、ピアノ習ってたんですよ」
という男性が居た。日頃から良く、どうしよう、どうしよう、どうしたらいいと思います?と聞いてくるようなタイプの男性である。
「僕、ピアノを習ってたんです。小学校1年生から」
と、ここからが凄い。
「僕、1年生からバイエルを習いはじめて、6年間ずっとバイエルやってたんです。6年生でバイエルの最後の曲を弾き終わった時、先生が泣いてました。良く頑張ったねって。先生涙流してました。」

・・・今まで私が聞いた中では最長記録である。先生の涙には彼に対するねぎらいと安堵、そしてもう許して、先生を解放して、というものも含まれていたのかもしれない。子供の前に立ちはだかるバイエルの壁。そして先生の前に立ちはだかるバイエルから抜け出せない生徒という壁・・・げに恐ろしきかな、バイエル、である。

◆2008.7.2. By なつむ◆

8 ・「最初の記憶」

 先日、自分の中の一番古い記憶は何か、という話しなった。一番古い記憶・・・そう言われて考えてみると、自分の記憶と親から聞いた子供の頃のエピソードとがごちゃごちゃになっていて、その境界線の見極めが難しいことに気がついた。

 はっきりとその場面まで思い出せるのは、4歳の時の祖父が亡くなった夜と喘息の発作で夜中に救急病院に運ばれた記憶だ。祖父が亡くなった夜の事は詳細に覚えている。いとこの家族が帰った後、祖父は父の腕の中で亡くなった。その後バタバタといとこの家族が戻って来て、それから眠れない夜になった。会話まで鮮明に覚えている。
 喘息の発作の記憶はこうだ。バレエの発表会で宝塚のようなメイクをされた夜、化粧品のパウダーが原因で酷い発作を起した。救急車を呼ぶより自家用車の方が早いという事で、毛布に包まれ後部座席に横たわり、救急病院で手当てを受けるまでの事をしっかり覚えている。吸えても吐けない呼吸困難はそれから暫く恐怖となった。

 記憶と親から聞いた話しが曖昧になっているものを「記憶」と言うのなら、さらに時代は遡り2歳の記憶が存在している事になる。
2歳の私はある夜、「ばーちゃんちに行く!」と言って、引き出しからパジャマを取り出し、抱えてそのまま家を飛び出した。大通りまで出たところで、さすがに怖くなったらしく突然大泣きして母親に抱えられて帰ったらしい。その時の大通りで車が行き交う様がうっすらと記憶にあるような気がする。
 これもまた2歳の時だが、我が家では当時使用済みの食用油を如雨露のような入れ物に入れていたらしい。そして、うちのコタツ掛けカバーはチューリップ柄だった。という訳で、私は母が目を離した隙に、コタツの上に登り、ご機嫌で如雨露の油をチューリップの絵にまいたらしい。怒るに怒れなかったと母は語っているが、そのチューリップの柄が記憶にあるような気がする。

 かの三島由紀夫は産湯の桶のふちを覚えていると言っていたと記憶しているが、人の記憶はいつぐらいから残るのだろうか。三つ子の魂百までもというぐらいだから、3歳というのがある区切りのような気もするが、疑問に思ったので周囲の人に聞いてみた。すると自分を含め、幼い頃の記憶は、ある程度の衝撃、大きな変化を伴っている事が分かってきた。
驚いたり悲しかったりという感情は記憶に深く刻み込まれるらしい。案外幸せの記憶を持っている人は少ないようだ。という事は、もしかすると幼い頃の記憶が今の年齢に近ければ近いほど幸せなのかもしれない。

 という結論に基づいて考えると、産湯の桶のふちを覚えている三島由紀夫は生まれ落ちてきた事が既にショックな出来事だったのかもしれない。いかにも彼らしい感覚だと思える仮説である。
さて、あなたの幼い頃の記憶は、どこまで辿ることが出来ますか?

◆2008.7.6 By なつむ◆

9 ・「古いアルバの中に」

 といっても、これはH2Oの歌ではない。と書くところが既に古いのだが、子供の頃のアルバムが我が家には色々ある。私が登場する最初のアルバムは、妊娠中の母から始まる。母いわく、「子供の頃、親から冗談であんたは橋の下から拾ってきたと言われて真剣に悩んだことがあるから、間違いなくうちの子だっていう証拠写真を撮っておいてあげよう」と思ったのだそうだ。
 その心遣いはありがたいのだが、最近ではスイカをお腹に入れて撮ったとか色々言っているのはどうした事だろう・・・それはさておき、アルバムをめくる度に成長していく私が写真という形で記録されている。

 さて、私は4歳から2年間ほどクラッシックバレエを習っていた。我が家では、習い事は本人が言い出すまでさせないルールになっていたので、4歳の私は自らバレエを習いたいと言ったのである。
 レッスンは毎回バーレッスンが基本で足のポジションや腕の使い方を習う。到着するとまず着替えの時間になる。練習用のレオタードとタイツ、そしてバレエシューズを履いてレッスンに臨む。憧れのトーシューズなんてものは、幼稚園児のレッスンには存在しない。
そんなある日発表会が近づいて来た。そこで登場したのが、ピンク色のリボン付きバレエシューズだった。子供ながらに、トーシューズに近い!とときめいた。そして自分用のチュチュもあつらえてもらった。今でも手元にあるが、びっくりするぐらい小さい緑色のチュチュである。

 さて、発表会を迎えるにあたり先生から、写真を撮る時には「4」の足で立つようにというお達しがあった。4の足とは左足のかかとを軸にして左足のつま先を外に向かって真横に置き、右足のかかとを左足のつま先につけ、右足のつま先を左足のかかとにつけるというポジションである。
子供たちはそれはそれは忠実にそれに答え、発表会当日の写真はスナップ写真に至るまで、みんな4の足をしている。

 そして2年目。今度は赤いチュチュを着ることになった。頭には花輪のような飾りをつける。さほど長くない髪に無理やりピンで付けているのが写真を見ると良く分かる。そして初年度と同じく、顔は宝塚メークをされていた。子供の目の上に黒、白、赤のアイラインが3段構えで描かれている。はっきり言って怖いぐらいだ。そしてお友達を含め、全員4の足をして、両手をチュチュの前でそっと指先だけ組んでポーズをとり、写真に写っている。
 ところが、去年とは明らかに違う変化が起こっていた。この写真に写っている子供たちは全員5歳だった。赤いチュチュ、そして頭には花飾り、顔は宝塚メイク、足はピンクのバレエシューズで足首には巻きつけたピンクのリボンがあり、4の足をして出来る限りのポーズを取っている。そして、にっこり笑うその顔には、永久歯の生え変わり時期で何と全員前歯がなかった。

 げに恐ろしき写真が、古いアルバムの中に収納されている。

◆2008.7.13. By なつむ◆

10 ・「映画館という空間で」

 私が最初に映画館に行ったのは、多分4歳ぐらいの頃だったと思う。初めて観た映画が洋画だったのか、子供向けの日本のアニメ映画だったか記憶は定かではないが、案外頻繁に映画館には連れて行ってもらった。

 レンタルビデオとケーブルTVが普及して劇場から暫く足が遠のいていたが、大学生になった頃からまた映画館を訪れるようになった。映画館という空間で、映画を観る醍醐味。それはスクリーンという大画面であったり音響であったりというのは勿論だが、その時その場所に偶然居合わせた観客の反応もその中の一つだったりする。

 『千と千尋の神隠し』の時には、本当に楽しそうに笑う子供の笑い声に、劇場全体が幸せな笑いに包まれた。こういう反応をダイレクトに味わえた時には、映画館に来て良かったなと思う。
また、最近では『シュレック3』の特別試写会は印象的だった。英語圏と日本語圏の観客が半々ぐらいで見たので、台詞に笑う人と字幕に笑う人のタイミングが微妙にズレていて、でもいずれも反応はすこぶる良くて、これもまた楽しめた。ノリの良い観客と一緒に観ると、こういう映画は楽しさが倍増する。

 ところが、まあ当然の事ながら良い事ばかりでもない。未だに覚えているのは『タイタス アンドロニカス』を劇場で観た時のこと。3時間の大作の最後の最後で、けたたましく笑い始めた親子連れ二人。すぐそばに居たので思わず見てしまったが、50代の母親と20代の娘の二人が、大きな声で周囲に聞かせるように笑い続けていた。
長時間の映画に疲れた挙句に起きたこの出来事は疲れを倍増させてくれたし、人肉パイを食べさせるシーンでのこのキレた感じの笑い声は、ちょっと神経に障るものだった。未だにあの二人には違和感を感じている。

 さて、そんな中でどうしても忘れられない思い出が一つある。この思い出は未だ私の中で一位であり、長年その座を明け渡していない。

 それは、「ジュラシックパーク」を観に行った時のこと。さほど大きい劇場でもないので一番後ろの席で友達と並んで映画を観ていた。言うまでもなく、時々肉食恐竜に追われてハラハラドキドキするシーンが出てくる映画なのだが、物語の終盤、姉弟が厨房で複数の小型肉食恐竜に追われて逃げ惑うシーンがあった。正しく、映画の大詰めである。
厨房の中で恐竜に見つからないように隠れる子供たち。そして、狡猾な表情で彼らを追う恐竜。ドキドキしながら手に汗を握り見つめる私。と、その時、「ガシッ!!」っと頭を鷲掴みにされたのだ!!
ドキドキの中、暗闇の中での頭の鷲掴み。驚かないわけがない。ギャーっ!!と叫びそうになった瞬間、
「あ、すんまへんな〜。手すりと間違えた」
と、のんびりとしたおじいさんの声が聞こえた。な、何なんだっ!!!突然本当に恐竜が出て来ちゃったのかと思ったじゃないか!!と心の中で叫ぶものの、余りの驚きに声も出ず、ただただ座席でずり落ちるだけだった。

それ以来、私は映画館の最後列は避けるようにしている。

◆2008.7.20. By なつむ◆

11 ・「文化の違いを感じる時」

 文化の違い・・・これは、国内でも国外でも、個人単位でも感じる事が出来るものだが、今からする話しは、まあ言ってみれば国際的な話しである。
 海外を旅していて、外国に来たな〜と思うのは言葉だったり、そこにいる人だったり、食事だったり風景だったり、要するに私を取り囲む全ての物であるのだが、印象に強く残るものの一つに「トイレ」がある。

 生まれて初めてイタリアを旅した時の事。ローマでも、フィレンツェでも、ヴェネツィアでも、ミラノでも、公共の場のトイレには、共通して「便座」が無かった。ホテルのトイレには普通に便座がついているのだが、美術館や高速道路のサービスエリアといった場所や一部のレストランでは、見事に便座がついていなかった。これは衝撃的な出来事だった。
 初めてそのトイレに遭遇した時、この個室が特別なのだろうと思い、次の部屋、次の部屋と確認したが、どこも同様なのだ。便器だけのトイレを見て、これに腰掛けて落っこちないぐらい、イタリア人はお尻が大きいのか?と一瞬考えても見たが、そんなはずはある訳がなく、そこには謎だけが残った。イタリア人は、空気椅子状態で用を足すのか?それとも、他の方法があるのか??

 ここではたと気づくのは、トイレ教育は子供の頃に受けるという事だ。という訳で、大人になって未知のトイレに遭遇した場合、恐らく教えてもらうすべが無い。イタリア人はどうしているのか、未だ謎のままだ。イタリア以外でこんなトイレは未だ遭遇していない。

 さて、海外旅行のガイドブックを読んでいると良く書かれているのは「有料のトイレ」これはヨーロッパを旅していると、良く遭遇する。今までで一番怖いと思ったのは、ロンドンナイトブリッジのハロッズのトイレだった。怖い顔をした係員がドンとトイレの前に座っていて、既に何故か怒っている。フォートナム&メイソンのトイレは無料だったのに、ハロッズは取れるものは取るうえに、わけも無く怖い・・・と思った瞬間だった。
 さて、有人トイレだけが有料という事ではない。バッキンガム宮殿の最寄り駅、ヴィクトリア駅の構内にある商業施設のトイレは、自動改札機状態になっていて、お金を入れないと中に入れなくなっている。とまあ、ロンドンも結構有料トイレが多いのだが、基本的に美術館や飲食店は無料。劇場もロンドンの場合は無料である。

 さて、所変わって、オーストリア。ここも有料だったり無料だったりが入り乱れている。 オーストリアの片田舎に行った時には、係りのおばさんにお金を払わないとトイレットペーパーをくれないという、ある意味合理的なトイレがあった。一番不思議だったのは、フォルクスオーパという劇場で、1階のトイレは有料で、2階のトイレは無料だったことだ。そして、ウィーンの劇場で有料だったのは、私の知る限りではフォルクスオーパの1階のトイレだけだ。国立歌劇場こそチップが入るような気がするが、ここは何故か無料である。

 ところで、日本では普及しているウォシュレットつきのトイレ。これに驚く外国人は多いらしい。故米原万理さんの著書によると、かの有名なチェリスト、ロストロ・ポービッチ氏はウォシュレットが大変気に入り、大騒ぎでショールームに行き、購入して帰国したらしい。
確かに、日本のトイレは自動で蓋が開くし、自動で流れるし、ウォシュレットはついてるし、至れり尽くせりである。 アメリカのアニメ、シンプソンズでも日本に来た一家が日本のトイレに驚くシーンがあったし、とにかく日本のトイレ事情はすこぶる進んでいるらしい。そんなトイレ先進国とも言える日本に住む私が驚いたトイレがオーストリアにあった。

 それは、ザルツブルグのミラベル庭園の中にある美術館のトイレに入った時の事。 友達と並びの個室に入って用を足し、水洗バーを押した瞬間にそれは起こった。
「えーーーーーーっ!!!!!」
と互いにほぼ同じタイミングで奇声を上げ、次の瞬間ドアを開けて個室の外に飛び出し、お互いに顔を見合わせた。
「便座が、便座が動いてる!!」
バーを押した瞬間から、白い便座が生き物のように、ウニウニと形を変えながら右回りに動き始めたのだ。 思わずその様子を凝視する日本人二人。 どうやらドーナッツ型に近い便座は自分で回転しながら、日本で言うならウォシュレットの装置がついている部分で 洗浄、乾燥を行い、一周していくらしい。洗われた便座を触ってみると、しとっとしていて温かい。
 お尻を洗うという発想の日本と便座を洗うという発想のオーストリア。洗うという共通点はあれど、個体を変形させて動かそうというこの発想は凄い。所変われば品変わるとは、よく言ったものである。

◆2008.7.27. By なつむ◆

12 ・「言い訳がミラクルを起す」

 言い訳・・・基本的に私は言い訳はしないですむ生き方をしたいと思っているのだが、まあ人間は生きてる以上 100%言い訳せずに生きるというのは恐らく無理というもの。 ちょっと時間に遅れたりだとか、ちょっとした頼まれごとを忘れていたり、まあ、人それぞれ大なり小なり 言い訳をしたり、されたりする場面には出くわしていると思う。

 私は時間に正確な方なので、遅刻することはめったに無い。しかし、父方は遅刻の家系でうちの 母は初めてのデートで上野の西郷さんの前で雪の中2時間も待たされたらしい。 その時怒って帰っていたら、私はこの世に存在しなかったので、よくぞ待ってくれたものだと思うのだが、 とにかくその父に輪をかけて祖母は遅刻の常習犯だった。しかも尋常でない遅刻魔で、さんざん待った 挙句家に電話をすると、まだ家を出てすらいなかったりする事がしばしばあった。
 出かけようとしたら電話がかかってきた、鍵が無かった、といったまあ普通の言い訳をしていたような 記憶がある。その平凡な言い訳を聞きながら、いい訳はいい訳以上にはなれないなと子供ながらに 思ったものだ。

 ところが、言い訳にも色々あるというのを私は高校時代に知る事となった。
私が通っていた高校は男女共学の公立高校(関西)で、まあ、一応進学校で校則をうるさく言わなくても問題は 起こらないような学校だった。とにかく一人も中退せず、卒業時には何故か一人増えていたような学校だった。 とはいえ制服はあるし、一応靴下は白と決まっていた。
 ある日、靴下チェックがあった時の事。先生が色つき靴下を履いてる生徒を見つけた瞬間、
「あ、うちのお母さん、洗濯の時、違えて色柄物と一緒に洗って、この色に染まってん!」
と物凄く自然にその生徒は答えた。もちろんこれは不幸にも色が移って染まったものではない・・・
「・・・そうかぁ〜」
な、納得してるし!話しがこれで終わってるし!と思わず笑ってしまったのは言うまでもない。

 この高校、とかく田舎の学校らしく基本的にはのんびりしていた為、問題になる点が普通の 高校とは少しずれていた。 例えば、ある日入るなと言われてる屋上に落ちていた「エビフライのしっぽ」が問題になった。 タバコの吸殻ではなく、エビフライの尻尾というのがいかにもうちらしい。 これには「危ないから屋上で弁当を食べるな!」という指導がなされた。 中庭でヤクルトの大きい版みたいな「かるちゃん牛乳」のカラを飛ばすのが流行った時には 思わぬところに飛んでしまい回収出来ないかるちゃんが出てきて、中庭に出るドアに 「かるちゃん飛ばし禁止!」と貼り紙がされた。

 というように、日々何だかとってもゆるさが漂う高校だなぁと思っていたある日。私のクラスにTちゃんという身長150cmぐらいの小柄で元気な女の子が居た。 私を含め、学校まで自転車通学の生徒が多い中、彼女も毎日駅から自転車をこいで 通学をしていた。そんなある日。出席を取る時間になってもTちゃんが来ない。 クラス全員の名前が呼び終わってもまだ来ないTちゃんに、先生が
「おかしいわね。Tさん、欠席かしら」
と、その時、教室の戸がガラ!と開いた。そしてそこに、急いで来たのだろう。息を切らしたTちゃんが立っていた。 クラスの全員が遅刻か・・・と思った瞬間、小柄な彼女がこう言った。
「駅から思いっきり自転車こいでんけど、物凄い向かい風で、自転車が全く前に進めへんかってん!!」
その瞬間、クラス中が
「あ〜。ちっちゃいTちゃんなら、それ分かるわ。向かい風に勝たれへんわ〜」
と納得した。そして先生がこう言った。
「朝から大変やったね〜」
そしてこの「言い訳」は「ミラクル」を起し、彼女は遅刻とはならなかったのである。 それは、彼女以外には向かい風が吹いていなかったという事実に「言い訳」が勝った瞬間だった。

◆2008.8.3. By なつむ◆

13 ・「やっかいな物」

 大人ばかりが揃っている職場でも、その音が聞えてくると意外な人の意外な反応を見てしまったりするもの。それが雷である。
どこから見ても中年のおじさんが異様に怖がってたり、雷が鳴る度に小さな悲鳴を上げながら仕事をしている女性を見ると、何だかその人の過去や人柄を少し覗いた気分にすらなる。

 今までに見た反応で一番印象的だったのは、事務所なのに傘を差し始めた人だったが、話しを聞くと何でもその昔、ボーイスカウトに入っていた頃、山で雷にあい、命を落としかけたらしい。
ここで問題なのは傘で雷をよけられると思っているという、致命的な間違いなのだが、これ以上傷を深めてもと思いとりあえずそこは黙っておいた。

 雷。このやっかいな物が鳴り始めたら一体何処が一番安全なのか。それは車である。その昔NHKの番組で雷を特集していた。車の中に居れば、落雷しても感電しない。故にゴルフ場の雷避難場所が車になっていたりするのだが、とにかく車は安全地帯なのである。言うまでもなく、木の近くや金属は危ない。傘は危険だと知ってから、雷の鳴る中傘をさしての移動はなるべく避けるようにしている。

 さて、私の住む地域は良く雷が鳴る。山が多いという事もあるのだが、とかくゴロゴロと良く空が鳴るのである。うちの愛犬は生前、雷が鳴ると天井に向かって吠えるという、向かうところ敵無し!のような気の強さと世間知らずを見せ付けてくれていたが、私にとっての雷は恐怖や立腹の対象ではなく、非常にやっかいなものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
 ある日のこと。帰宅してPCの電源を入れたら、モニターがショキングピンクになっていた。何事かと思いつつ、それでもどうにか立ち上がったMacを前に、随分派手になってしまったものだと驚いた。ある日突然モニターが充血(違うのだけど)!しかもショッキングピンク!!この事態は何故起こったのか。原因は雷だった。テレビもPCモニターも、雷にやられると赤やピンクの画面になるらしい。
5年保障をつけていたので、結局新品のモニターが届いて解決したが、それ以来雷ガードのタップを使うようになった。

 そんなある日のこと。また雷が酷い日が来た。PCの電源は対策済みだし安心だと思っていたその夜。電気釜を使おうとしたらエラーの表示が出ているではないか。電気釜の故障は珍しいと思い電気屋に持っていくと、これもまた雷が原因だという。IHジャーはPCと同じで基盤がやられるのですと説明を受けた。という事は、最近の賢い家電は全て雷の恐怖に晒されているという事になる。雷が原因でFAX付き電話が使えないという事も良く起こるらしい。アナログの電話ではありえなかったことである。

 それ以来家電について勉強になったと喜び、折に触れて雷の恐怖を広める伝道を勝手に行っているのだが、いつも少しだけ悔しい思いをすることになる。
「雷は怖いよ。だって、うちの電気釜雷で壊れたもん!」
というと8割がたの人は笑う。
「いやいや。本当に笑い事じゃないから。お釜壊れたら物凄い不便だから!」
何も失笑を買いたくて話題にしているのではない。しかし、大抵の人は笑いながらへ〜と言ってそこで終わってしまうのである。真剣に聞いてくれた人には残念ながら余り出会ったことがない。

 そんなある日、上司が家のPCのモニターが真っピンクになったと騒いでいた。間違いなく雷の害である。当然の事ながら、私はしたり顔で告げた。
「だから、それが雷の威力なんです。故障の原因は間違い無く雷です」
彼はうちの電気釜を笑った人であった。
人間痛い目に会ってからでないと理解出来ない事も多いようである。

◆2008.8.10. By なつむ◆

14 ・「お化け屋敷はお好き?」

 今日は季節にちなんで夏らしい話題を取りあげてみたい。最近はそれほど多くはないが、少し前まで夏と言えばやたらとホラー映画が公開され、テレビでもホラー映画が放送され、遊園地は特別なお化け屋敷を夏季限定でオープンしていた。
 子供の頃の私はホラー映画のCMに怯え、遊園地に行ってもお化け屋敷はあえて近寄らずにいた。相当な怖がりだったのだ。

 遊園地で最初に怖い思いをした記憶は3歳ぐらいの頃に遡る。家族で遊園地に行った時、お化け屋敷ではないが海賊か何かをテーマにしたような場所に入った。そしてクライマックスは天井に備え付けられた大蛇で、確か動いていたと思う。これが物凄く怖くて泣きはじめた私を祖父が気遣って抱き上げた。すると更に天井に近くなり、大蛇が目前に迫り更に恐怖のどん底へ。抱っこから下して!!!と必死に泣いて訴えた記憶がある。

 それ以来かどうかは分からないが、お化け屋敷はしばらく完全にスルーするようになった。次にお化け屋敷に入った記憶は小学校中学年まで飛ぶ。古臭いお化け屋敷だから怖くないよ、と説得され、「怖くないお化け屋敷だから入る」という本来の目的とは思いっきり逆行した理由のもと入室。化け猫やろくろ首が登場したが、予想通りびっくりするぐらい怖くなかった。逆に出てくるお化けたちのしょぼさと老朽化に、その遊園地の行く末を心配するぐらいだった。だが、古い施設だけに本物も居たかもしれない・・・と今になると思う(笑)

 本物と言えば、かの有名な関東の某テーマパーク。ここの幻想的なお化け屋敷は私のお気に入りなのだが、かの地には本物のお化けが居るという噂があるらしい。確かに終盤の墓場のエリアなどは一人位本物が紛れていても分からないような気がする。
先日つわものの知人がその中で一泊してみたいと言っていたが、気づいたら住人になっていたなんて事は・・・まあ、ありっこないのだが、あの空間に一人で一泊は相当怖いと思う。私には到底出来ない事だ。何故なら、私の場合他のアトラクションでも結構恐怖を感じているぐらいなのだから。

 あのテーマパークの中で、昼間でも前後の人が居なくて一人だけで一周して帰って来いと言われたら相当怖い場所がある。海賊と世界中の人形が居る所だ。
 世界中の人形が途中から「チャイルドプレイ」のチャッキーみたいになってしまったらどうしよう、などとバカな事を一人で勝手に想像したりして、海賊と人形に怯えているバカっぷりである。

 そんな状態だから大人になってからますますお化け屋敷から遠のいていたのだが、ある日仕事でお化け屋敷に入らなければならなくなった。仕事・・・となると拒否権はない。行って来いと言われて私よりも怖がりな同僚と二人いざ現場へ。
 ところで、当時の私は出勤時にリュックを利用していた。日頃はもちろん、片方の肩だけにかけていたのだが、お化け屋敷と来たら逃げなければならない。故にこの時ばかりは両腕を通し、しっかり背負った。

 さて、お化け屋敷の入り口に立つ。カートに乗るのではなく自分の足で歩くらしい。不気味ゾーンが続く中、私はリュックの紐をギュっと握り歩いていた。そして怖がりな同僚は私の後ろにぴったりついて歩いていた。そして・・・ある小部屋へ。部屋の隅にゾンビが静かに立っていた。これは普通の人が化けておどかし役で居るだけだとわかっていても、心拍数は上がってくる。今はじっとしてるけど、絶対襲ってくる・・・どうするか、どうするかって、ここは脱兎のごとく駆け出すしかない!!と覚悟を決めダッシュした瞬間、
「ガシっ!!!」
物凄い勢いで引き戻された。えーっ!!!!!
再度ダッシュすべく足を前に出すが、いくら前に進もうとしても前に進めない! 何故?と振り返ると、私より怖がりな友達がリュックにしがみ付いて力の限り私を引っぱっているではないか!同僚とゾンビの板ばさみ。こんな怖いことは無い。
「離して!」
「やだ!!」
「じゃあ、駆け出して!!」
「怖いっ!!動けない!!」
一番戸惑ったのはゾンビだろう。もう、見切り発車で奇声を上げはじめた。
「あうううううう!!!!!」
ゾンビが本当に襲い掛かって来た。今や私は友達の盾にされているし!!!
「走って!!!じゃなきゃ、離して!!!」
動こうにもしがみつかれて全く動けない!!!
「とにかく走って!!!」
やっとの思いでどうにか小部屋を脱出。そして同僚に一言。
「引き止めるのは止めて。私だって怖いんだから!!」
しかし、一番文句を言いたかったのはゾンビかもしれない。基本的にゲストおどかせば逃げるものだから、長期滞在は想定外でさぞかしバツが悪かったことだろう。
とにかくやっとの事でお化け屋敷を抜け外へ。二度と同僚とはお化け屋敷に来ないと心に決めたのは言うまでもない。

 と、長々と書いて来たが最後にこんなエピソードを。これも歩いて行くお化け屋敷での事。怖がりな人が余りの怖さに腰を抜かしてしまったらしい。でも、そこに居るのはおどかし役のミイラしか居なかった。腰を抜かしたお客さんは全く動けない。そして思わずミイラが近寄りこう言ったらしい。
「お客様、大丈夫ですか?」
そこには腰を抜かした「原因」に至近距離まで迫られ、更なる恐怖の為に泣き叫ぶ女性に手を差し伸べるミイラ、という不思議な光景が存在していたらしい。

◆2008.8.17. By なつむ◆

15 ・「耐えがたきもの」

 世の中には色々耐え難いものが存在しているが、その中に「下手な音楽」というのもカウントされるだろう。中学校の1学期、クラブの時間に吹奏楽部の周辺を歩いてみればいい。恐らく酷い音が聞えてくるはずだ。楽器というものは、なかなか簡単には思い通りにならないもので、楽器を始めるという事は、同時に周囲の人間、つまり家族の我慢というものがもれなくセットでついてくる。

 さて、私は子供の頃からピアノを習っていた。ピアノは押せば正しい音が出てくるものだから 他の管楽器や弦楽器とはスタートラインが違う。指さえ動けば、耐え難い音は出てこない。 という訳で、音を出すことに対しては努力を強いられる楽器ではない為、音を出す事に ついての苦労を知らずに私は15の歳まで過ごしていた。

 ところが大学で音楽を学ぼうと決めた瞬間から、ピアノだけを弾いていれば良いという生活とは別れを告げる事となった。
例えば、ピアノで音大なり音楽専攻なりの学校を受けようとすると、ピアノが弾けるだけでは試験を受けられない。メロディーや和音を聴いて五線譜に書き取る「聴音」。新曲視唱やイタリア歌曲といった「声楽」。音楽の「論理」といった試験も学校によって差はあるものの、大体セットでついてくるのである。という訳で、私は声楽を習うことになった。

 歌は・・・聴くのは好きだが歌うのはさほど好きではない。音痴ではないが、自慢できるような歌は歌えない。そして、向かう敵は「イタリア歌曲」である。イタリア語を読む事はそれほど大変な事ではない。「r」の巻き舌もすぐに出来るようになったが、いかんせん喉がちゃんと開かない。
 親からは「鶏が首を絞められているような声」と言われ、自分でも必要にせまられて練習しているだけで、別に好き好んで歌っているわけではないから、何だか恥ずかしい。悩むほどではないが、私の中では課題となった。

 そして声楽は大学に入学して更に練習を強いられるようになった。私の大学は3回生までピアノか声楽かの専攻を決められないシステムだったので、オペラのアリアも授業の課題になる。モーツァルトの「フィガロの結婚」やプッチーニの「ラ・ボエーム」といったメジャーなアリアまで宿題となる。そして、また「鶏が首を絞められる声」が炸裂するのだ。周囲の人以上に本人がとほほである。

 ところで、室内犬だった今は亡きシェットランドシープドックのナナは私のピアノが好きで、弾いているときは良く鍵盤の左下に来て眠っていた。時にはペダルを踏む足の上にあごを乗せ、何故眠っていられるのかは不思議だったが、私がペダルを踏むたびに顔を上下させながら気持ち良さそうにしていた。
 ところが、これが一旦歌になると話しが変わる。立って歌っていると、解放されている両手をめがけてじゃれつき、遊ぼうよ〜となる。ピアノだとあんなに大人しいのに声楽だとこの変わりよう。専門(ピアノ)と副科(声楽)が分かるとは、ナナは凄い!と思っていた。

 そんなある日、大学でオーケストラを作るというのでヴァイオリンに興味のあった私は、大学生から始めるものでは無いのにヴァイオリンの練習を始めてみた。ヴァイオリン。この楽器ほど下手に弾かれて辛いものはない。
 家に持ち帰り、チューニングをして弓を弦に当てて弾き始めた瞬間、私の左耳(ヴァイオリンに一番近い場所)のすぐ側で、悲鳴を上げるような音が鳴った。た、耐え難い!と思った瞬間、ナナが飛び上がり私の腰にしがみついて来た。
「頼むからやめて!!この世の終わりみたいな音だから!!」
という表情でしがみつくナナ。それにもめげずサイドチャレンジしようとすると、今度はアウアウ言いながらしがみ付いて来た。珍しいことに、彼女は怒っていたのである・・・

 そこでハタと気がついた。声楽の練習になるとじゃれ付くあれは、私の練習に対する真剣さの度合いの違いをナナが感じて遊びに誘っていたのではなく、「やめようよ〜。耐えられないからさ〜」という意思表示だったという事に・・・

「人犬」を問わず、耐えがたきものというのは存在しているらしい。

◆2008.8.25. By なつむ◆

16 ・「茶せんの里の無謀な試み」

 小学校6年生のある日。図工の時間で焼き物用の粘土を渡された。紐作りで抹茶茶碗を作りましょうというのだ。ろくろはダンボールの紙。ひも状にした粘土を繋いで茶碗を作るらしい。釉薬がいくつか用意されていて、焼き物はこうやって作るのかと面白さを感じ、うちの学校もなかなかやるじゃないかと12歳の私は思って作業を進めていた。

 と、今度は教室で全員に竹が配られた。そして配られた1枚のプリント。そこには何と、茶せんの作り方が書いてあった。先日は茶碗で今日は茶せん・・・という事で、この一連の流れは、卒業記念にお茶セットを自分で作ろう企画である事を、この時漸く理解した。

 だが、ここで考えて欲しい。焼き物も、茶せんも、通常職人が作っているという事を。まあ、焼き物は質を問わなければ、それなりのものは出来る。しかし、茶せんはそうはいかない。いくらその小学校があったエリアが茶せんで有名だからって、小学生がそんな簡単に作れるものではないのだ。そして、半信半疑ながら、茶せん作りが始まった。

 作り方その1。茶せんの持ち手部分を残して、竹を4等分に縦に切れ目を入れましょう。

これを切り出しナイフで行うのだが、竹はそんなに柔らかいものではなく・・・ここで小学生の力の限界を既に感じる。持ち手を残すその持ち手が既にバラバラの長さで残っていく・・・

その2。4等分を更に8等分にして行きましょう。

もっと縦に切れ目を入れろというので、更に持ち下の長さにばらつきを出しながら力の限り割れ目を入れる。

その3。8等分した竹の厚みを半分にします。竹の外側を残すようにして、厚さを半分にします。ナイフで竹の厚みの半分のところから切れ目を縦に入れましょう。

 竹の厚さを半分にする・・・そう言うのなら仕方ない。チャレンジしましょう、という事で竹の厚さを半分に・・・してるうちに数本が根本から消滅。。。

その4。半分の厚みになった竹を更に半分にしましょう。

半分を半分に?半分でも既に無理だったのに、それを更に半分??言われた以上仕方ない。ここでまた数本が根本から消滅。

その5。薄くなった竹を2mmぐらいの幅に更に縦に分割して茶せんの幅にしましょう。

・・・作業を重ねるたびにどんどん消滅していく竹。縦に分割するまでもなく、この作業の頃には持ち手に数本の竹がくっついているだけになっている。

その6。茶せんは外側と内側の2層に別れます。外側の竹に糸をかけていきましょう。

あの・・・もう糸をかける竹が残ってませんけど!!

その7。湯銭にかけて竹をゆっくりと曲げ、茶せんの丸みをだしていきます。

・・・曲げるもなにも、今私の手元にある茶せんになるはずだったものは、持ち手の上にとげとげしい竹が4、5本直立し、そこに糸くずがくっついているみたいな状態ですが、なにか?

その8。茶せんの出来上がりです。

・・・4cmぐらいの筒状の竹の上に、触ると棘が刺さりそうな凶暴な竹が4本ぐらい突き出ているのが茶せんというなら、これは茶せんですが・・・

 という訳で、卒業までには「小学六年生」が作る、茶碗と茶せんのセットが出来上がった。 私にしてみれば、決して手抜きをしたのではなく、格闘した結果である。ただ、結果がついてこなかった。
 世の中には「職人」という人たちが居て、「修行」という言葉がある。茶せん作りの企画を出した先生に言いたい。小学生がいきなり茶せんを作れらたら、職人はいらない。故にこれは当然の結果だった。

 さて、いよいよ茶碗が出来上がり自宅に持ち帰る日が来た。そして茶せんも持ち帰る。出すのが恥ずかしいぐらい無残な茶せん。でも見せなきゃなぁと思い、母に見せるとその無残な茶せんを見て母が言った。

「これでお茶をたてたら、バキバキの竹が浮くね・・・」

・・・使う前提で見た母に、こっちが驚いた。

◆2008.9.1 By なつむ◆

17 ・「アンプ、アンプ、アンプ」

 最近私はピアノを弾く時に暗譜をしない。というより、むしろ出来ないと言った方が良いかもしれない。 暗譜というのはその字の通り、楽譜を見ないで暗記して演奏する事である。

 学生時代暗譜で苦労した経験がなく、弾ける頃には暗譜が出来ているというのが私のパターンだった。 それ故、暗譜そのものに疑問を持った事はなかったのだが、卒業後練習時間が以前のように取れなくなってくると、暗譜で弾く事は重くのし掛かるものになり、次第に自己ルールが緩み、受験をするわけでもないしと、最近では譜めくり無しの楽譜有演奏になってしまった。

 ところで、暗譜は何故必要なのだろうか。頭の中に音楽が入っていてこそ、その楽曲が初めて理解でき、一度自分の中で消化し表現する事が出来る、というのが理由の一つだろう。しかし、楽譜が置かれているからこそ安心して演奏できる、という利点もある。
 ピアノを弾く時、独奏の場合は暗譜を迫られるが、伴奏の場合は譜面を置く。連弾の場合は基本的には楽譜を置き、譜めくりは出来るほうが行う。つまり、独奏以外で暗譜を迫られる事はない。

 暗譜しなくて良いのなら、演奏会で弾きます。と私が宣言してから、期せずしてここのところ独奏でも譜面を見る人が増えてきた。
 イーヴォ・ポゴレリッチは譜めくりを伴って演奏会を行う。彼の場合、妻の死からしばらく演奏活動をやめていたが、数年ぶりに舞台に戻ったら暗がりの中、譜面を見ながら演奏するという、他に類を見ない演奏スタイルになっていた。因みに、俳優のように美しかった彼は今、スキンヘッドで時には他国の民族衣装を着て演奏するなど、美形で注目されていた昔とは違った意味で目を引く存在になっている。
 他に、私は聴きに行った事はないのだが、フジコ・ヘミングも演奏時には楽譜係が付き添うらしい。分からなくなるとバッと隣に座っている楽譜係を見るので、楽譜係がその場所を開いて見せるという、何故最初から置いておかないのか、そんな瞬時に開いた楽譜の何処を見たらいいのか何故分かるのか、全くもって謎だが、そんな演奏をしているらしい。
 また、先日見ていたNHKのピアノの番組でも譜面を見ながら演奏しているピアニストがいた。スタジオでの録音だが独奏である。という訳で、なんだ、楽譜を置く人が増えてるじゃないか、と妙に安堵する今日この頃なのである。

 さて、暗譜が大変といえば、指揮者である。譜面を見る人も居るが、暗譜で指揮をするコンダクターは案外多い。ピアノの独奏でも暗譜は大変なのに、オーケストラともなるとそれはそれは、膨大な情報量となる。しかし、暗譜で指揮をする人は多い。いつ頃からそうなったのか。聞くところによると、これは天才指揮者、トスカニーニが始めた事らしい。始まりがトスカニーニという事は、暗譜で指揮をする、というのは案外最近始まった事なのだが、随分浸透していると思われる。
 もし私が指揮者だったら迷惑なことを、と思うところだが、トスカニーニが何故暗譜を始めたのか、というのには理由があった。
 彼は、極度に目が悪く、楽譜が良く見えなかったらしい。つまり、天才だから暗譜で演奏したというより、必要に迫られて暗譜したというのだ。

 事の真相を聞きながら、世の中だいたいきっかけはこんなものだったりするのよねと、妙に納得した私なのであった。

◆2008.9.8 By なつむ◆

18 ・「So What?」

 発見というのは、得てして本人だけが「凄い!」と思う事が多く、「凄い事が分かったんだけど!」と少々興奮気味に話したところで、他人にとっては「ふ〜ん」だったり「へ〜。そうなんだ」で終わってしまう事が多い。でも、人に言いたい!!という訳で、私の勝手な欲求を満たす為に、今日はこのスペースを使うことにする。

 まず、サリンジャー。彼の作品で有名なのは『ライ麦畑でつかまえて』だが、私のお気に入りは9つの短編から成る『ナイン・ストーリーズ』である。この中に、これまた私が好きなマンガ『バナナフィッシュ』の語源(といっていいかと思う)になった『バナナフィッシュに最良の日』という作品が入っている。この中でシーモア・グラースという男性が自殺するのだが、何故彼は自殺に至ったのかがまず知りたくなる。
そして、9つの話しを全て読み終わると、いくつか心の中に残る話しが出てきて、この話しとこの話しは好きだな、と漠然と思い、その後『フラーニーとゾーイ』を読み、その心の中に残った物語が全て「グラース一家」の話しだと気づいた瞬間、それは私にとって「大発見」となった。
 心の中に残像を残した作品が実は全てが繋がっていたというこの事実は、自分の感覚の確かさを確信させてくれるような出来事であり、それと同時にグラース一家の人々への心の共鳴のような快感に似たものを感じさせてくれた。自己満足の世界である。

 次にスティーブン・キング。彼の作品は多数映画になっているが、必ずしも成功例ばかりとは言えない。その中にあって、『スタンド・バイミー』と『ショーシャンクの空に』、そして『ゴールデンボーイ』は成功例だと思うのだが、この3作品、実は繋がっている。先の作品群は副題を『恐怖の四季』という4つから成るシリーズもので、これに『マンハッタンの奇譚クラブ』が入る。
 春は『刑務所のリタ・ヘイワーズ』(ショーシャンクの空に)、夏は『ゴールデン・ボーイ』、秋は『スタンドバイミー』で冬は『マンハッタンの奇譚クラブ』という振り分けになっているのだが、この中で春と夏が微妙に繋がっているのである。
 ゴールデンボーイに隠れ元ナチのドゥサンダーという人物が出てくるのだが、彼の投資コンサルティングを勤めていたのが、ショーシャンクの空にで無実の罪で投獄されている主人公なのだ。
ゴールデンボーイの中でドゥサンダーが「無実の罪で投獄されている男がいる」という台詞を言うだけの事なのだが、読んでいる方としては「おおっ!繋がっている!!」と何だか嬉しくなってしまう場面なのである。

 繋がっているという事だけで話しを展開させてもらえば、映画『ゴールデン・ボーイ』を撮った監督ブライアン・シンガー(そもそも『ユージュアル・サスペクツ』で有名になった)はゲイである事をカミングアウトしているのだが、同じくカミングアウトしている英国の名優、サー・イアン・マッケランを『ゴールデン・ボーイ』の主役の一人、ドゥサンダーにオファーした。この二人、この作品で意気投合したのだろう。シンガー監督を更にメジャーにした作品『X-メン』でもマグニートという重要な役を演じている。単純に、仲良しなんだな〜と思う繋がりである。そして、私としてはお気に入りの二人がセットで仕事をしてくれるので、何だか嬉しい。

 さて、次は母から聞いたへ〜という話しである。昔のミュージカルで有名な作品、「マイフェアレディ」のイライザ、「王様と私」の家庭教師、そして「ウェストサイドストーリー」のマリアの声は全て同じ歌手が吹き替えている。その本人はというと、「サウンドオブミュージック」でマリアが所属していた修道院のシスターの一人として映画に出演している。ヘップバーンは吹き替えだったという理由で、イライザ役でのオスカーを逃したと言われているが、個人的には吹き替えた歌手が日の目を見ないのも気の毒だなと思う。機会があったら一度、3作品のヒロインの声を聞き比べて欲しい。同じ声だという事が良く分かる。
 ところで、「ウェストサイドストーリー」で私はベルナルド役のジョージ・チャキリスが好きなのだが、彼にはモンローのバックダンサーとして踊っていた過去がある。モンローがピンクのドレスを着てタキシードの男性に囲まれている有名な映像(確か『紳士は金髪がお好き』)のバックダンサーの一人がチャキリスである。
 我々世代だと、そのシーンをパロディにしたマドンナの「マテリアル・ガール」のPVの方が馴染みがあるのだが、その他大勢のダンサーだったチャキリスを見ると、人に歴史ありだなと感じる。

 また、こんな過去があったのか!というのとは逆の意味(つまりこんな未来になったのかという意味)で人に歴史有なのは、「ウェストサイド・ストーリー」に出ていたトニー役のリチャード・ベイマーとリフ役のラス・タンブリンが、年齢を重ねた後、日本でも大ヒットしたドラマ「ツインピークス」のオードリーの父とジャコビー先生役で二人そろって出演していたのもびっくりな出来事だった。しかも、へんてこな役だったし。というか、リンチ監督の作品には普通の人がなかなか出てこない・・・

そういえば、チャキリスがNHKのドラマで小泉八雲を演じていたのも不思議な出来事だった。

 以上が、今のところちょっと語りたかった私の発見である。

◆2008.9.14 By なつむ◆

19 ・「子供が苦手な子供」

 私は子供が苦手な子供だった。子供は時折何の脈絡もなく不機嫌になったり、仲間はずれを作ったりする。それが子供の私には理解出来なかったのだ。
 大人の中で育ったからという事もあるのだろうが、子供たちのグループに入って遊ぶ事は、幼い私には努力がついてまわった。相手の一貫性の無さに傷ついたり、疲れたりすると家に戻って母親に抱きついてはリセットし、暫くそうした後、また背中を押されて外に出て行く。それを繰り返していた記憶がある。

 さて、私がマンションに住んでいた幼稚園の頃、子供たちはよく「ごっこ遊び」をしていた。このどの子も経験するであろう「ごっこ遊び」。それは子供たちの力関係が大きき関わっているのをご存知だろうか?基本じゃんけんで役を決めていたのだと思うが、非力な子供だった私には主役を演じた記憶が無い。

 私の嫌いな遊びは「花いちもんめ」で、「どの子が欲しい」「この子が欲しい」の「この子」になれないんじゃないかという不安を感じながら、やっぱり「この子」になかなか選ばれない自分が嫌だった。今思うと、物凄い後ろ向きな子供である。
 ジャングルジム鬼では、親と子にわかれ、小さかった私は子にされていたので捕まえても何の得点にもならないので子の私は鬼に無視される。追いかけられない鬼ごっこほど面白くないものはない。年少者の辛さである。
 また、マンションの階段でお店屋さんごっこをしていると、割り当ての階がこれまた「子ども界の実力」で決まっていくので、中心から遠い階に割り当てられる。すると当然、人が来ない(笑)幼稚園児にして、開店休業の商店の辛さを思い知らされた。

 とまあ、色々あったが、そんな悔しかったり寂しかったりした経験が、人の強さとか我慢する事とか、優しさとかを育成していくのだろう。幼稚園児から小学校6年生まで大勢で遊んだマンションの思い出は、今となっては良い思い出である。

 ところで、手元に一本のカセットテープが残っている。その中には、ある夜の我が家の会話が記録されている。若い頃の父母の声と、3歳ぐらいの私の声を聞くことが出来る貴重な記録なのだが、大人になってから聞いてみた。その中の母が父に今日の出来事を話している内容が印象深い。

「今日ね。アルプスの少女ハイジごっこをしてたんだって。皆、ハイジかクララになりたいって、人気なのね。あの子もクララになりたいって言ったみたいなんだけど。でもねあの子、今日もヨーゼフだったんだって。いっつもヨーゼフなんだって」

 まさか、まさかの犬役・・・しかも「今日も」そして「いっつもヨーゼフ」の連続性も合わせて、3歳の頃の私が切なくも愛しくなった瞬間だった。 

◆2008.9.23 By なつむ◆

20 ・「緊張との闘いの中で」

 子供の頃から舞台でピアノを弾く時に、私は緊張しているように見えないと良く言われた。しかし世の中に緊張しない人なんて居ないわけで、私が緊張しないように見えたのは、舞台に上がる前に良くあくびをしていたからかもしれない。これは緩和しているのではなく、緊張していて酸欠になっている、というのが本当の理由だ。しかし、基本的に舞台に出る時にはにこやかに登場し、余裕を持って腰掛け、弾きはじめるようにしている。つまり、他人からは自信たっぷりに見えるのである。

 舞台に上がる時。それはライトを浴びて、その場に居る人に自分の表現する音楽を聴いてもらう時間なのだが、ピアノという楽器は声楽などに比べると非常に孤独である。舞台の上にいるのは自分とピアノだけ。ピアノと対面した状態で演奏し、客席は右横に居る形となる。そして舞台は自分との闘いの場となる。

 その孤独さは多くの人が感じるところのようで、大学の卒業演奏会の時、ピアノ組は皆ナーバスになっていたが、声楽組は早く自分の番が来ないかと終始楽しんでいた。譜めくり人付きの伴奏者を連れて3人で登場し、客席と対面し、楽しげに歌い帰ってくる歌組と、行きも帰りも一人のピアノ組。どうもこの差は非常に大きい。

 緊張。それはしてもしなくても、第三者からすれば全く関係ないもの。それ故、極力したくないものなのだが、重要度が増せば増すほど緊張は大きくなっていく。

 という訳で、自分でもびっくりするような緊張をした記憶が2回ある。
一つは大学3回生の時の学内演奏会でのこと。シューマンのソナタを弾く事になっていて、舞台袖で順番を待っていた時、自分の胸を見たら信じられない事に、目に見えるように胸が心臓の音に合わせて脈打っていた。胸自体がドキドキと動いているなんて、見た事がない。ありえない!!脈が目に見えるなんて。しかも鎖骨の下辺りで。
どれだけ緊張してるんだ?!と自分に突っ込みを入れてしまう出来事だった。後にも先にもこれはこの時だけの現象だった。

 そしてもう一回は卒業演奏会の日。自分では落ち着いているつもりだったが、緊張していたのだろう。ラヴェルの「道化師の朝の歌」を無事弾き終えて舞台袖に入った瞬間、思わず目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。そして、思わず舞台袖でしゃがみこんでいた。
物凄い解放感と、緊張による疲労感とで立っていられなかったのである。舞台袖で板の上に崩れ落ちながら、こんなにも重圧を感じていたのかと、これまた自分にびっくりした。

 卒業後、何度も舞台に立っているが最近変化が起きている。相も変わらず緊張はしているが、それはいい意味での緊張で、聴いてくれている人の存在と自分が奏でている音を楽しむ事が漸く出来るようになった。
 音を味わい、楽しむ。こんな基本的な事が、学生時代には緊張の中非常に難しく感じられたのだ。

 最近では人前で弾いていると、演奏が終わるのがとても残念になる。そして最後の音を弾き終える時、ああ、終わってしまったと、一抹の寂しさを感じ、またこの場に戻って来たいと思うのである。

◆2008.10.5 By なつむ◆

21 ・「ダッキーの話し」

 私は一度だけ、家族が出来る瞬間に立ち会った事がある。といっても、人ではなく犬の話しだ。昔し私が良く行っていた薬局で働いている人の家のゴールデンレトリバーが子犬を産んだ。それが何匹だったかは覚えていないが、とにかく貰い手を探していた。
 その情報は私から母に行き、母から知人に伝わり、その人が欲しいという事になったのだ。という訳で、世話人の私と母は、その人の家族と一緒に子犬を見に行く事になった。

 さて、ゴールデンレトリバーといえば茶色。いや、ゴールデンというぐらいだからゴールドの毛並みという事にしておこう。そのお母さん犬はランちゃんという人なつっこいゴールデンレトリバーだった。しかし、彼女の子犬には数匹黒い子供が混ざっていた。つまり、ラブラドールレトリバーである。
 恐らくお父さんがラブラドールだったのだろう。メンデルの法則を見るようで、面白いな〜と眺めている私の側で、母の友人は黒いラブラドールの男の子を貰う事に決めた。家族が出来た瞬間である。

 さて、この子犬はダッキーという名前がつけられ、それはそれは自由に育てられた・・・らしい。
犬にはそれぞれ犬種別の特徴というのがあるのだが、ダッキーも例外なくレトリバーならではの習性を持っていた。
 ゴールデン(ラブラドール)レトリバーという犬種はそもそもイギリスで狩猟に連れて行く為に作られた犬種である。ご主人様が打ち落とした鳥を、川に入ってでも咥えて持ってくるというのが仕事なのだ。そこには、水が好きという事と落ちたものを拾い集めてくる、という習性が入っている。

 庭でダッキーを飼う事に決めてからしばらくたったある日。朝起きて玄関のドアを開けると、庭中の枝や庭いじりの道具が玄関にうず高く積まれていた。落ちたものを拾い集めるという仕事を彼は一晩かけて成し遂げたのである。しかも玄関に。彼にしたら絶対家族に見てもらえる場所を考えた結果だったのだろう。得意げなダッキーが目に浮かぶようである。
 また、海(川だったもしれない)に彼を連れて行ったところ、水を見た途端ダッキーは迷うことなく水に飛び込んでいた。これぞレトリバーである。しかし、びしょびしょになったダッキーをワゴン車に乗せて帰って来る事になった知人を思うと忍びない・・・

 というように、彼は非常にラブラドールらしい習性を持つ犬なのだ。ところが、一つだけ飼い主に忠実な犬、レトリバーらしからぬ話しが私に飛び込んで来た。

 そのうちのおばあちゃんがダッキーを散歩に連れて行った時の事。田んぼの近くの道を力の強いダッキーにひっぱられながら、おばあちゃんは散歩をしていた。すると、何が原因だったのかは分からないが、ダッキーが不意に強い力で動き、おばあちゃんが田んぼに落ちてしまったのだ。
田んぼは歩道から随分低い場所にあったらしく、這い出すのは少々骨が折れる高さだった。歩道に立ち、おばあちゃんを見下ろすダッキー。そしてダッキーを見上げた状態で田んぼから這い上がろうとするおばあちゃん。
 あぜ道に手をかけ、上に這い上がろうとした瞬間、あろうことかダッキーがおばあちゃんの頭にお手をした・・・いや、這い出そうとするおばあちゃんを押し戻したのだ!それは単なる偶然ではなく、数回繰り返されたらしい・・・

 そんなダッキーももう10歳を数年過ぎた。先日見せてもらった写真では、真っ黒だった毛並みに白髪が混じっていた。首のところに入った白い毛は、まるでツキノワグマのようである。白髪が混じった顔を見ながら、ドッグイヤーという言葉を思い出し、何だかちょっぴり切なくなった。

・ダッキーの写真はこちらです・

◆2008.10.12 By なつむ◆

22 ・「B級映画の楽しみ」

 食べ物の話しをする時に、美味しかった話しより不味かった話の方が盛り上がるという 不思議な法則があるように、映画にもいろんな粗が目立つB級ならではの楽しみがある。 日頃映画を見る時は、極力ハズレないようにセレクトしている私だが、時折B級映画がみたくなる。 ところで、B級映画の条件って何だろう。

 まず簡単に思い浮かぶのは、予算が無い映画。端々にチープさが垣間見られる。そしてメジャーになれない内容、例えばバカすぎる、製作者が自分の趣味に突っ走りすぎているである場合が多い。言い方をかえれば、社運をかけるような大作ではないので、案外自由に作られてもらえる映画と言える。
 まあ、その条件をかなり満たしておきながら、A級の予算と観客動員を誇るティム・バートンという稀有な存在も居るが、基本的にはB級映画は配給もされにくいので、DVDやケーブルTVで見ることになる。そして、今は名優と言われる人たちの、駆け出しの頃の、まあ、言ってみれば恥ずかしい?映像を見る場合もある。

 さて、そんなB級映画で私のお気に入りの一つに「トレマーズ」がある。この映画、ジャンルはホラーにも片足を突っ込んでいると思うが、とにかく見ながら騒いで、騒いで、爽快になって終わる。つまり、家でしか見られない。ギャーギャー騒ぎながら見てこそ、な映画なのだ。
この映画のツボはその騒げるところと、若き日のケビン・ベーコンである。アメリカのとある田舎で起こったある事件。そして、始まる命がけの闘い。この映画の内容はびっくり箱を開ける楽しみなので詳細は書かないが、間違いなく「B級の名作」である。結局シリーズ化され、映画は4作そして連ドラまで作られたらしい。ヒットしすぎである(笑)

 次に思い浮かぶのは「ロッキー・ホラー・ショー」これは舞台でも有名だが、何といっても映画版のティム・カリーの気持ち悪い魅力に勝てるものはないだろう。はっきり言って、この映画の内容は酷い。悪趣味だし、へんてこりんな話しだし、最後は宇宙人ネタだし、とっても奇妙。だが!その全てを覆い尽くす魅力がある。そして、「タイム・ワープ」を一緒に踊ってしまいそうになるのだ。
 病んだ映画を見ながら、病んだ魅力にやられてる自分も病んでいるのか?と思わなくも無いが、この映画にはもう一つおまけがつく。
 聡明な女優という位置づけにあるスーザン・サランドン。若き日の彼女がこの映画に出てくる。しかも、バカなカップルの役で。スリップ姿で歌う彼女を見ていると、人に歴史有りと実感してしまう。
この作品に対する彼女のコメントを聞いた事はないが、もしかするとこの世に出回っているロッキーのDVDを全て回収したいと思っているかもしれない。

 スーザン・サランドンで思い出したが、この人がこんな映画に?というのの極めつけは、ジョージ・クルーニーの「リターン・オブ・キラー・トマト」かもしれない。以前BSの深夜に放送があった。バカすぎて全部は見てないが、その中で空中に浮かぶチープなバレーボールサイズの吸血トマトとジョージ・クルーニーが闘っている。このトマトがまた、チープすぎて笑える。粗いフェルトで作った、粗悪なトマトぬいぐるみが空中にプカプカ浮かぶ様は、何というか・・・子供だましにすらなれていない。だが、ジョージはそのお化けトマトから真剣に逃げていた。シュールな画面である。

 さて、最後に取り上げたい作品はケン・ラッセルの「サロメ」である。監督の名前を聞いただけでも既に怪しげだと思う人も居るかもしれないが、この作品。彼ならではの倒錯した世界が広がっているのだが、私の一番の衝撃は、映画を見た時ではなく、淀川長治さんのレビューを読んだ時だった。
 ネタバレになるが映画の最後でサロメ役のアクターが全裸で殺されるシーンがある。この時、日本なのでもちろん画面には修正が入っていた。ああ、殺されてしまったと思うに留まったのだが、この映画を修正なしで見た淀川さんのレビューにはこうあった。最後の最後で、彼女は彼だったことが明かされる、と。
何と、あのサロメ役の彼女は彼だったのか!!!100%どこから見ても女性だったのに、何という展開!!その瞬間、彼は私が今まで見た中で、一番性別が分からなかった人となった。

 だからそれで?と言われればそれまでなのだが、作品の最後のシーンが一部伏せられたまま日本では見られ続けているというこの現状。諸事情があるとはいえ、B級だから正さなくて・・・いいんでしょうか?

◆2008.10.19 By なつむ◆

23 ・「オチ無くしては」

 ある日、大学のクラスメイト2人が怒りながら話していた。何でも、京阪電車で二人、いつものように楽しく話していたら、側に居た観光客から、面白いからもっとしゃべってくれと言われたというのだ。
「失礼だと思わへん?」
と一人が言い、 「人の会話聞いてんねんで?!しかも続けろって、私ら芸人ちゃうっちゅーねん!」 ともう一人が言った。それを聞いた私は、うちのクラスではこの2人の会話、3番手か4番手ぐらいの面白さなのに・・・ともっと違う事を考えていた。

 というように、関西人の会話はどうも面白いらしい。というよりむしろ、面白くないと相手にしてもらえないぐらいの風土が関西には間違い無くある。
 友達同士の会話でも、聞いて!とわざわざ人の注目を集めてから話した人間の話しに「オチ」が無かったら、まだ話しは終わっていないと周囲の人は一拍オチを待つ。それでも出てこないと、
「えーっ!!」
とオチがない事に滑って見せたり、
「オチは無いんかい!」
と突っ込んでみせる。つまり、ある程度の話術が無いと話しを聞いてもらない空気がうっすらと日常にあるのだ。

 この、「話術」のレベルを求める風土は一体どこから来ているのだろう。ここからは私の持論以上の何ものでもないのだが、それは平安時代にまで遡ると勝手に思っている。 言うまでも無く、江戸になるまで日本の中心は関西にあり、貴族の間では和歌が重要なものだった。 枕草子を読んでも、源氏物語を読んでも、歌が詠めない人は無粋だ、面白くないという評価を受けている。その公家文化が基礎となり、こんにちの「話しへのこだわり」となったのではないかと思う。 まあ、平安時代の和歌と現在のボケ、突っ込み、オチには随分思い切った変化があったと考えなければならないが、言葉遊びにこだわる気質は間違いなくその辺りから生まれて来たのだと思う。

 話しにオチが無いとある意味相手にしてもらえないという話しを、以前東京の友達一人と関西人二人で話していた時のこと。
「えー、怖い。じゃあ、私の話しって・・・」
と東京の友達が言った瞬間、
「あ、大丈夫!関西圏の人にしかそのルールは適応してないから!そこは求めてないから!」
と即答した二人。そう。関西人は旅行者にそれを求めるような事はしない。だが、それが在住となると話しは変わってくる。

 先日、東京出身で4、5年大阪に住んでいる同僚の事を会社の人が語っていた。
「あいつの話し、オチがないやろ。話しを聞いてても、オチが無いからどこで終わるかわからへんねん!もう大阪も長いんやから、そろそろ慣れなあかんって言ってんけど、あいつ、あかんわ〜。もっと努力せな」
すると、一人がこう返した。
「あいつに話しのオチを求めてもあかんて。でもあいつ、あいつ自身がオチやから!」
「そうか、あいつは人生がオチか!!おいしいな〜。人生がオチって、これ以上のもんはないよな!羨ましいわ!!それいいなぁ。オレもそうなりたいな〜」
人生がオチ・・・しかもそう語る二人からは人をバカにした空気は無く、「オチ」へのリスペクトが感じられた。
 そこまでオチに価値観を見出す人も居る関西。私は生まれた時からこの地に育っているのでさほど感じないが、実は日本の中でも相当変わっている地域なのかもしれないと、今更ながらに感じる今日この頃なのである。

◆2008.10.26 By なつむ◆

24 ・「画期的・・・?」

 私の通った公立高校は、その昔「画期的」な学校になるはずだったらしい。何が画期的だったのか、その内容は教えてはもらえなかったが、その計画の前にオイルショックが立ちはだかり、画期的になる資金が無くなったそうだ。
その後、かなりの時間を経てから入学した私は、「画期的」を享受する事はなく、「資金不足」の結果を実感する事となった。

 4階建ての校舎は斜面の上に立っていた。そして広がる広大な土地。まず、山の斜面を4段に切った場所を想像して欲しい。一番上の段は4階建ての校舎があり、駐輪場と駐車場がある。更に、バスケのコートが1面、弓道場が一つある。さて、次は3段目。ここには体育館とは別に柔道&剣道場がある。運動部の部室も並んでいる。そして2段目には25mプールと、テニスのコートが2面。野球部のストレッチ用のテントもあった。そしていよいよ1段目の校庭である。ここがバカみたいに広い。どれぐらい広いかというと、200mトラックが2つ取れてまだ余るぐらい広い。球技大会になると、この校庭ではソフトボールが6面取れた。

 このバカみたいな広さは・・・何?しかも、無駄に体力を使わされるのである。想像して欲しい。 1年生の教室は4階。そして体育があるのは校庭。校舎の中で既に4階分の階段を下りて外に出て、更に階段を下りて体育館の横を抜け、更に階段を下りてプールの横を通り、長い長い階段を下りて漸く校庭である。そして言うまでもなくこの逆がとにかくしんどい。授業が終わり、校庭から教室まで戻るのに修行僧のような階段が続く。そして移動と着替えの時間は短い。何を思ってこんなに運動大好き!!みたいな学校になってしまっているのか全くもって謎だった。なぜなら、どの運動クラブもさほど強くはなかったのだ。そこには画期的は広さだけがあった。

 さて、そんな土地だけはあります!な学校の、でもお金はありません!という校舎はそこはかとなく貧乏だった。窓は鉄枠・・・アルミサッシでない窓なんて、私はここで初めて見た。言うまでもなく、無駄に重たく風が吹くとガタガタと音を立てる。風の強い日は教師の声が聞こえにくいぐらいである。  更に冬になると石油ストーブが設置された。そして、各教室から出される小さな煙突。。。見方によってはかわいいが、校舎の窓から出された煙突がずらっと並ぶ様は、ある意味新鮮、ある意味驚きだった。
そして、更に怖い事が起こった。鉄枠の窓は年季が入っていてさび付いている。故に開閉が大変になっていた。そして、遂に窓の下だけが外れてしまった。しかし、窓の上はしかっかりはまってしまっていて取れない。つまり、窓が1枚、宙ぶらりんになってしまったのだ。

我々の教室は3階。そして身長190cmの化学担当の担任が言った。
「お前たちだけでも助けたい。絶対にこの窓の下を歩くな!!」
根本が間違っている・・・と思いながら、もしかするとブラックな笑いをとる教師が市民権を得ている学校というのが、ある意味画期的なのかもしれないと思った瞬間だった。

 因みに、その後窓は速やかに修理され、けが人を出すことはなかった・・・って当たり前である。

◆2008.11.2 By なつむ◆

25 ・「意外と知られていないかもしれないこの楽器について」

 この世にある楽器の中で、比較的万人に馴染みのある楽器はピアノだろう。ピアノが家にあるという人は結構多いと思う。しかしこの楽器、案外知られてない事も多い。という訳で、今日は(今日も!)一方的に話しを進めてピアノの話しである。

 まず、このピアノという名前の由来だが、正確には「ピアノフォルテ」という。ピアノという楽器が誕生する前、チェンバロなどといった鍵盤楽器は音の強弱がつけられなかった。この音量を好きなように操れるところから、ピアノは「ピアノ(弱い)フォルテ(強い)」という名前がつけられた。  ピアノの鍵盤は88鍵。スタウィンウェイもヤマハのピアノも、通常は88鍵で作られている。しかし、ベーゼンドルファーというドイツのピアノには、92鍵と97鍵という通常より鍵盤数の多いピアノが存在している。普通の鍵盤の低音部の先に黒い鍵盤が数鍵ついている。
白鍵まで黒いので最初このピアノを見た時にはドキっとさせられる。通常のピアノの一番端の音でもかなり低音なのだが、更に低い音が用意されているのだ。  果たしてその音域の広さは必要なのか?という事になるのだが、私が今まで弾いた楽曲の中でラヴェルの組曲「鏡」には、このピアノでしか楽譜に書かれた音が出せない音が存在していた。つまり、通常1音だけだが、楽譜通りには弾けないのである。

 さて、ペダルである。子供の頃、ぺダルが必要な曲を早く弾けるようになりたいと思っていた。ペダルが踏めるようになる事、イコール難しい曲が弾けるようになった、という事でもある。それ故、ペダルを踏むようにと言われた時にはときめいた覚えがある。

 ところでアップライトピアノには通常2つのペダルがついている。右のペダルを踏むと音が響き上手くなったように聞えるが、左のペダルは何の為にあるのかご存知だろうか?実は私もはっきりとは分からないのだが、どう考えても弱音ペダルのつもりとしか思えない。
 弱音ペダル。これは弱い音を出す時に、指の力だけでなくピアノを内部から動かして音をセーブさせるようにするペダルである。グランドピアノなら間違いなく「弱音」になるのだが、アップライトは構造上効果がほとんど現れない。
 私が弱音ペダルを初めて踏んだのは、ショパンのワルツだった。いかにもピアノ曲という響きにうっとりしながら、ピアノが持つ機能を初めて使う事に、自分が少しずつステップアップしていくのを実感した瞬間だった。

 さて、最後に残る真ん中のペダル。グランドピアノでも2つしかペダルがついていないものもあるが、基本的にピアノのペダルは3本である。しかし、この3本目を使う事は一番少ない。これはどう使うのか。実はこのペダル、音を衰退させずほぼ同じ音量でキープする役目を持っている。使い方には少しコツが必要で、鍵盤で音を出した直後に踏むとその音が鳴り続けるようになっている。これが少しでも遅れると機能しない。このペダルが必要になったのは、大学4回生の時だった。ラヴェルの組曲「鏡」を弾いた時、初めてこのペダルが必要になった。という訳で、このペダルは長年ピアノを弾いていても使ったことが無い人が案外多いのではないだろうか。

 ということで、少しはピアノに詳しくなっていただけただろうか。と言っても、何の足しにもならない話しかもしれないのだが。でも、意外にピアノはメカニックなのである。

◆2008.11.16 By なつむ◆

26 ・「京都、その魅力的な町 その1」

 私は大学時代の4年間を京都に通って過ごしたのだが、元来の方向音痴と、いまどき珍しいぐらい勉強しなければ卒業が出来ない学科だった為、家と大学を行き来しているだけの日々だった事が祟って、未だにあの非常に分かりやすいといわれている碁盤の目の地図が頭に入っていない。

 という訳で、私と京都を歩く友達は全員が私の土地勘の欠如にびっくりする。4年間、何をしていたのかと、全員が驚愕してくれるのだ。大体本人がびっくりするぐらい分かっていないので無理もない。
 そして社会人になった後は、しっかり地図が頭に入っている友達としか歩かないので、未だ私はほとんどあの街を分かっていない。
 京都は好きだが簡単に迷ってしまう・・・あの碁盤の目は私にとって十分に迷路になっているのである。

 が、そんな情け無い状態の私でも魅了されてしまうのが京都なのだ。京都。この特殊な町の何と魅力的な事か。近くに住んでてよかった!だって毎日だって通える距離なんだもん!!と、バカみたいに世間に向かって吠えてみたくなるぐらい、今となっては京都の近くに住んでいる幸福をかみ締めている。何処がそんなに良いのか。

 まず、美味しいものが色々ある。そして、季節の移り変わりを愛でる事が出来る。そして、この町に住む人々が味わい深いのである。

 京都という町は色々な顔を持っている。大学時代、私に見せてくれたのは、学生の町としての京都である。友達の下宿の近くの商店街で買い物をした時、少量を嫌な顔せず売ってくれた店の何と多い事か。下宿だらけのエリアだったからだろう。最初から一人分の量で売られている大根なんかもあった。そういえば、肉屋のおじさんがオマケをしてくれたのを覚えている。スーパーで買い物をする事が多くなった現代で、お店の人と対面で物を買うのが、かえって新鮮だったのを覚えている。
 そういえば、大学周辺の喫茶店は安くてボリュームのあるランチを出す店が多かったし、どこも学生でいっぱいだった。ちょっとおしゃれな店でもそれは変わらなかった記憶がある。アルバイトの店員で切り盛りしている店が多い中、長く商売をしているんだろうなぁという昔ながらの食堂みたいなお店も路地にあって、それもまた気になる存在だった。そこには基本的に、特別メニューがあった。

 今でも覚えているのは、大学の裏路地にあったカキ氷屋さんである。このお店は老夫婦のお店で、引き戸を開けて中に入ると、昭和初期かと思うような「食堂」が現れる。何の変哲も無い店なのだが、ここのお店には「イチゴミルクカキ氷」という目玉商品があった。
 文字を読むだけでは、何が目玉なのか分からないだろうが、ここのイチゴミルクのイチゴは生のイチゴを潰したものだったのだ。それをカキ氷の上に練乳とともにたっぷりかけてくれる。これがうちの学生の間では人気で、シーズンラストの日ともなると、どこからともなく「今日が最終日だって!」という情報が広まる。私も「それは食べなきゃ!」と友達と連れ立ってこのお店に行ったのだが、いざ行ってみると坂の下にあるこの店を先頭に、ずらっと行列が出来ていた。日傘を持って自分たちの番を待つ学生。事情を知らない人にとっては、何事?である。
 このイチゴのシーズンラストの日に初めてこのお店を訪れることになった私は、行列してまで並ぶカキ氷とは何ぞや?という思いでいっぱいになっていたのだが、入り口を入ってびっくり。70代ぐらいの老夫婦が必死に氷を作ってはかき氷を運んでいた。うーん。京都は面白い。と、何だか時間の止まったような光景に興味を覚えたものである。

 この他にも、京都の路地の食堂は結構曲者で、通学途中、歩いている道で手作りの「おはぎ」手作りの「おいなり」手作りの「大学芋」と、目を引くものがポソっと店頭のガラスケースの中に置かれていた。
不思議なもので、歴史を感じる食堂のガラスケースに入っていると、長年売られているからには美味しいんだろうなぁという気になってしまうのである。そして買ってみると、それなりの味がして、なるほどな〜と妙に納得していたのを覚えている。

 さて、関西育ちの私であるが、京都に通って「あ〜京都だ〜」と実感した瞬間。それは日常にある京都弁を耳にした時だった。
大学近くのお蕎麦屋さんに入った時、「おおきに〜」と自然に発音された京都弁が耳に入ってきた。
そして、大学の付属の小学校に通う子供たちを送り迎えしているお母さんが、車道を渡る子供に注意している言葉「危ないえっ!ちゃんと見よし!」これは新鮮な響きだった。
後々京都生まれの友達と話していたら「見よし、聞きよし、遊びにきよし〜」とニコニコしながら彼女が言った。同じ関西といえども京都はまた別言葉なんだなと実感した瞬間だった。

 とまあ、京都については、簡単には語りきれない。という訳で、この話しは続くのである。

◆2008.11.25 By なつむ◆

27 ・「京都、その魅力的な町 その2」

 京都では「いちげんさんお断り」の店が多いと良く耳にする。間違い無くそういう店は存在するのだが、私は今までそのような断られ方をした事は無いし、こちらが気分を害するようなあしらわれ方をした事がない。
 「いちげんさんお断り」のような高級な店に足を運んだことが無いからだとも言えるのだが、こちらが基本的な礼儀を忘れなければ問題は起こらないし、敷居の高さも感じない。
それよりもむしろ、イタリアやフランスと同様に、部外者には入り込めない部分を持ちつつ、観光を大切な産業と認識し非常に賢く生き抜いている町だと思う。彼らは自分たちの商っている商品、生み出す物に対してプライドを持っている。そして我々はそんな町だからこそ、職人の技に出会い、楽しむ事が出来るのである。基本的な礼儀を忘れず素直にリスペクトする心を持っていれば、非常に面白い町がそこには広がっている。

 京都に行く度、季節が変わる度に訪れてみたくなる日本料理の店が木屋町にある。カウンターと個室が1つだけのこじんまりとした店なのだが、いつ訪れても何かしらか、記憶に残る味に出会う事が出来る。
 この店の板長はとても気さくな人で、以前カウンター席に座った時に、美味しかったと告げた料理の作り方をこと細かに教えてくれた事があった。本当ならば企業秘密のはずなのだが、びっくりするぐらい具体的に、口の中に入れると淡雪のようにとける鶏のしんじょうの作り方を教えてくれた。しかし、しかしである。その工程たるや、ちょっとやそっとでは作れるとは思えないほど手間のかかったものであった。話しを聞いているうちに悟ったこと。それは、いくら説明し、作り方を教えてところで、お客さんには作れないと分かって彼は話しているという事だった。簡単な浅漬けにしても、漬ける時の塩が違うのだろうから同じようにはならないよねと、友達が後で言っていたが、とにかく秘密を明かした所で、我々には手が届かない物であるが故の種明かしなのだ。流石である(笑)

 さて、大量生産、保存料の使用による賞味期間の引き延ばしが当たり前になっている現代にあって、昔ながらのペースを崩さず商いをしている店に京都では度々出会う事が出来る。そして親切さに驚かされることもある。

 雑誌に掲載されていた、昔ながらのロールケーキが美味しそうな洋菓子屋さんを訪れた時の事。その店は老夫婦二人が切り盛りしていた。いかにもケーキ職人というおじいさんが奥でお菓子を作っている。そして奥さんがカウンターの中で常連さんと話しながらケーキを箱詰めしていた。
 ガラスのショーケースの中には、お目当てのロールケーキ、そして懐かしい雰囲気が漂うシュークリームとチョコレートがかかったエクレアがあった。美味しそうだと話す我々に、常連さんらしき女性が
「美味しいよ」
とニコニコと教えてくれる。結局ロールケーキをお土産に、シュークリームを一人一つづつ、ちょっとお行儀が悪いが食べながら歩く事に決めた。ロールケーキを受け取りながら
「賞味期限はいつまでですか?」
と尋ねた私に、
「食べてみて・・・あ、ちょっとおかしいなって思いはった時、ですよねぇ」
と答えた奥さんの一言に、ハッとした。
「そうですよね!」
本当、その通り。その通りなのであるが、賞味期限のシールに慣れた我々はこんな基本的な事も忘れていたという驚きと共に、賞味期限の見極めは自分の感覚で、という一言に非常に合点が行った。その通りだと、思わず右手のこぶしを左の手の平にポンと打ち付けたくなるぐらい、目が覚める一言だった。

 その後、一人一つづつシュークリームを手に町を歩き、食べ終わる頃老舗の扇子屋さんに到着した。店構えも扱っている商品も非常に美しく、歴史を感じさせる店である。2階にある展示コーナーには皇室の訪問時の写真がパネルになって飾られていた。
 1階に戻り、粋な扇子を見つけて購入した時の事。先ほど食べたシュークリームの紙が入ったゴミ袋をお店の人が発見し、捨てておきましょうか?と申し出てくれた。恐縮したのは言うまでもない。しかも他の荷物のまとめ袋までくれた上での申し出である。こんな老舗の敷居の高そうなお店で、たかだか2000円程度の買い物をしただけなのに、ゴミまで捨ててくださるとは(笑)この親切には「観光都市京都」を感じた。

 さて、職人気質を感じるこんな事もあった。八坂神社の入り口近くにある鯖寿司で有名な「いづ重」。小さなお店なのだが、絶えずお客さんが鯖寿司や小鯛の笹寿司、その他持ち帰りの出来るお寿司を求めて訪れている。
初めてこのお店を訪れたのは夕方だった。メニューを見た私は、小鯛の笹寿司に魅かれた。
「あの、小鯛の笹寿司を一つお願いします」
すると、どこから見ても寿司職人という感じの板前さんが言った。
「あー。鯛は今〆始めたところやからねぇ」
と言って、昆布の間に敷き詰めた小鯛をちらっと見せてくれた。
「いつ頃出来るんですか?」
「明日の昼やね〜」
「・・・無理ですね」
「無理やねぇ!」
商売っ気がないのかと思えるぐらい、明快にきっぱり、即答だった「無理」の一言。打てば響くように返って来た言葉に思わず笑ってしまった。まだこの時間なら売れる可能性はあるが、量産はしないのだろう。昆布締め中の鯛を見ながら、丁寧な仕事の積み重ねを垣間見たなと少し嬉しくなった。
無い物は無い。お客にはまた来てもらえばいい。という姿勢が感じられる。代わりに買って返った鱧寿司は丁寧な仕事がされていた。

 京都の町を歩いていると、その歴史も去ることながら、この町に住む人々が面白い事に気がついてくる。京都の魅力はそこに住む人によって生み出されている。人間力。京都の魅力は正にこの人間力なのだろう。
 新旧入り乱れる町、受け継がれる伝統、時代に流されず自分のやり方を貫く人々。急がない、気を抜かない、慌てない町。私の京都通いはまだしばらく続きそうである。

◆2008.11.30 By なつむ◆
28 ・「怖がりの度合い」

 幼い頃の私は、かなりの怖がりだった。例えば、ジョーズを見ては水に入ったらジョーズが出てくるのではないかと思い、母が先に入って安全の確認が出来るまでお風呂のお湯に浸かることが出来なかった。まあ、母がジョーズに食べられても良いのかという突っ込みはあえてして欲しくはないが、相当怯えていたらしい。とにかく大丈夫だからと説得されないと、しばらくお湯に入れなかった。
 また、横溝正史ものの映画の予告にも怯え、当然の事ながらホラー映画の予告にも怯えていた。そんな私にとって、洗面所に一人で行き、歯を磨き、顔を洗うのに目をつぶる事は物凄く勇気の要る事で、しばしば母に嘘をついていた。つまり、洗面所に行き、何もせずにすぐに帰ってくるのだ。

 という過去を持つ私も、流石に大人になるとある程度の免疫ができた。未だ怖がりではあるが、時折日々の話題の彩りとして怪談話しをしたりするし、キングの小説を読んだりもする。そして自分自身でもびっくりするぐらい霊的なものを信じていないんだなぁと思った出来事もあった。

 今から数年前の事だが、それは朝の光が差し込む自室での出来事だった。布団に中で朝の光を感じていたが、まだ眠いのでうとうととしていた。すると、ドアが静かに開く音がした。誰かが入って来たなと思い、母が起こしに来たのかと思いながらもまだ目をつむっていた。すると、上掛け布団の上から覆い被さられる重みと、息遣いが聞えて来た。母が覗きこんでいるのかと思い、漸く目を開けると、何と市松人形の女の子の顔が顔のすぐ側にあるではないか。おかっぱの髪に赤い着物の人形が上からギュっと私を押さえつけている。その瞬間、私は「これは夢だ、これは夢だ」といわゆる金縛りの状態になりながら唱えていた。ここで凄いのは、夢だと瞬時に思った自分である。びっくりするぐらい、幽霊とかその手のものを信じてないんだな〜と自分自身に驚いた。そしてその後、また普通に眠りに戻ったのにも、我ながら神経の太さを感じるところであった。

 とまあ、推定「夢」を経験した私は自分の現実主義を自覚する事になったのだが、やっぱり怪談は話題として面白いので時々友達と話しをしては盛り上がる。
そんな中、一度こっちがびっくりする事があった。私より年上の一人暮らしの友達が、相当な怖がりだったらしく怪談話しをする私とその共通の友達二人に腹を立て、1週間口をきかなくなってしまったのだ。これは怪談話しより怖い出来事だった。年齢的に相当な大人が遊びで話していた事に本気で立腹し、怒りを1週間継続したのだから。どこどこのエレベータに幽霊が、程度の話しだったのに。未だにこれは怒られた友人との七不思議にカウント出来る話しとなっている。

 そんな事がありつつもやはり怪談話しは私を含め大勢が興味を示すものなので、面白い話しをしてくれそうな人が居たら話しを聞いたりしているのだが、私が最近聞いた中で一番怖かったのはこの話しだ。これは舞台照明を担当していた人から聞いた実話である。

 劇場と怪談話しは切っても切れない関係にある。何故なら高所での作業で実際に多くの人が亡くなっているそうだ。今でこそハーネスを付けて作業することになっているらしいが、昔は皆慣れてしまうと恐怖心が無くなり、命綱なしで作業をして命を落としていたらしい。そして転落死がおこるのだ。
 さて、劇場には高所作業用に「キャットウォーク」というのがある。どこの劇場にもあると思うが、天井近くに設置されている。照明さんとかが作業する場所である。劇場に入って天井を見上げてみて欲しい。見るからに怖い高所にそれはついている。
 どこのキャットウォークも天井近くの高い場所にあり、幅もさほど広くない為大勢で作業出来るイメージではないのだが、幽霊が出ると言われているあるホールで作業をしようと上がって行ったところ、こんな貼り紙があったそうだ。

「この場所での事故が多発しています。一人で作業をしていて後ろから声をかけられても、肩を叩かれても、決して振り向かないで下さい。 館長」

 これはもう、怪談の域ではなく、実害になっているというのが並ではない。実際、誰もいないのに気配を感じたり、呼ばれたと思って振り向きざまに怪我をする人が続出しているそうだ。しかも館長の署名入りというのが、噂ではなく真実である事を表している。

 最初この話しを聞いた時には、流石に背筋が寒くなった。そして次の瞬間こう思った。この話しをしたら、1週間口をきかなかった友達は、間違いなく私とは絶交になるだろうと。

◆2008.12.07 By なつむ◆

29 ・「気づけば注目を集めていたこの話し」

 私事なのだが、2007年に職場で異動があり、特殊な仕事をする事になった。その中の一つが音楽著作権関係の仕事である。
 子供の頃からピアノを弾き、大学での専攻も音楽という、常に音楽に関わって来た私だが、仕事で音楽に関係する事になって初めて「著作権」の事を勉強する必要が出て来た。
 度々このHPで「試験を受ける」とか「受かった」とか書いているのは、著作権がらみの検定だったのだが、著作権について詳しくなっていくうちに、世の中で「著作権」が度々ニュースに登場するようになって来た。

 まずは某演歌歌手が持ち歌を歌えなくなり、現在また歌えるようになったという件。そしてもう一つは有名なアーティストが著作権詐欺を働いたという事件である。
何かと話題になって来ると、周囲の人からは著作権についての質問を多く受けるようになる。という訳で、今日は私が著作権を勉強していく中で「へ〜」っと思った事を皆さんにもおすそ分けしてみようと思う。

 まず、著作者は音痴に歌われる事を拒否する権利があるらしい。最初に知った時には「おーっ!」と思わず声を出してしまったが、なかなかシビアな世界なのだ。
 替え歌もダメ、絵に落書きするのも基本的にはダメ。実際にはありえないと思うが、試験問題には同一性の保持(本来の姿を保つ事)の為には、落書きなど手を加えられる危険があるのなら、絵を焼いてしまってもいいとまで書いてあった。本末転倒!!!と思わず教科書に突っ込みを入れたのは言うまでもない(笑)

 次に、そうなのか・・・と思ったのは、テレビなどで話している人の背景に移りこむ著作物の話し。例えば、著作権切れをしていない絵が掛かっている部屋で誰かのインタビューを撮っているとする。この場合、絵の著作権はどうなるのか?話している人の後ろに映り込むだけなら何ら問題は無い。だが、例えばインタビュー前に絵だけをしっかりアップで映した絵は、著作権が絡んで来る。テレビで放送する許可を取る必要が生じ、恐らく使用料も発生してくる。意識的に撮ったか、撮らないかが境界線になっているのだ。著作権、微妙!!

 次に、CDをMDとかipodに個人的にダビングするのは問題ないが、コピーガード付きのビデオ、DVDをコピーする為にコピーガードを外したら、個人的にダビングして楽しむだけでも法に触れる。まあ、これは簡単に予想できる事だが、デジタル家電には、予め著作権費用も含まれている事をご存知だろうか?著作権料が自動的に徴収されているのである。正式にはそれを「私的録音録画補償金」という。私的にダビングされることを見越して、先にお金を徴収するシステムである。しかし・・・その分配先はどうなっているのだろう。補償金の行方が気になる私なのである。

 その他に、たとえば作った人が分からない音楽をどうしても使いたい場合は、とりあえず文化庁長官にお金を払っておくという方法がある。受け取った文化庁長官は、まあ個人が受け取る訳でないにせよ!預かっている訳で、いつまでたっても作者が分からない場合その使用料として納められたお金はどこに・・・とこれまた個人的にはその行方が気になっている。

 さて、著作権著作権というが、この権利はどのように発生するのだろうか?日本では、著作権法は「知的財産法」の中の一つとして制定されているが、他の特許や意匠といった申請、登録して初めて権利が発生するものとは違い、著作権は創作時に、その芸術性の高さには関係なく発生する。故に幼稚園児の書いた絵も、その子の著作権が自動的に発生しているのである。という事は、我々が住む地球はそこらじゅう著作権を持つ物で溢れかえっているのだ。しかも日本の場合、博多人形といった量産されるようなものであっても、著作権を持つ場合がある。椅子や机といったいわゆる応用美術にも、芸術性が認められれば、日本では意匠とダブルで著作権も持ちうる。という風になかなかにややこしいのだ。

 既に自分の持ち物ではない物を売るという詐欺を働いた作曲家の話しは、著作権うんぬんというより単純に無いものを売るという詐欺事件であるが、某歌手の作詞の変更は直球の著作権の侵害だった。
作者は死ぬまで著作人格権というのを持ち、これは相続も譲渡も出来ない。そして著作人格権の主な権利は替え歌や編曲を勝手にさせないという事である。という訳で、作者が亡くなったので著作人格権は自然消滅し、彼はまたその歌を歌えるようになったのだが、ここで思うことはただ一つ。この騒ぎ、著作者が許可すれば何も問題にならなかった。という事は、著作権侵害というよりも人間関係が一番の問題だったに違いない。

 それにしても・・・「歌が下手だから著作人格権の侵害になるので、あなたには歌わせません」と言われた人っているのだろうか?と、時々数人の該当しそうな芸能人を頭に浮かべながら苦笑してしまう私なのである。

◆2008.12.21 By なつむ◆

30 ・「大晦日の事」

 うるう年を除いて一年は365日。毎日は24時間で一つづつに番号が振られ 特定するのは簡単だが、日々を全て記憶に留めておく事は不可能であり、 結局節目節目の日の記憶のみが残っていく・・・という訳で、大晦日は一年の 締めくくりに当たる日だけに、案外記憶の中に鮮明に残っていたりするもの。 という事で、今日は大晦日話しである。

 子供の頃の大晦日といえば、何故か我が家はおでんとはりはり鍋が定番で 市場で買ってきた鯨と水菜の画像が鮮明に蘇ってくる。 癖のある鯨の味は子供の私には好きになれず、早く無くなしたい一心で食べ進んでいたが、 懸命に食べる私の姿を見て、両親は鯨好きな子供だと思っていたらしい。 必死な努力が仇になってるケースである。
 そしていつしか居眠りする父を起して 母が用意する晦日そばを食べる。海老天なの?にしんなの?となかなか起きない 父に聞くのが私の役目。それが小学1年生までの記憶である。

 一番滑稽だったのは、2000年問題が騒がれた1999年から2000年に変わる 瞬間の大晦日。これまた眠っている父を背後に、私と母の二人は紅白を観ながら 一応備えあれば憂いなし、とばかりに二人とも手に一つづつ懐中電灯を持ってカウントダウンをした。 いきなりライフラインが途切れるかも、と脅かされていた故である。
 停電に備えていたのだが、年が変わっても、何一つ変わる事が無かった我が家で 二人、あはは〜とお互いの姿の滑稽さに笑いあった記憶がある。 あの2000年問題は一体何だったのだろうか。

 さて、大晦日記憶ベストワン!と、勝手に自己ランキングに突入しているが、 忘れられない大晦日がある。恐らくこれからも大晦日といえばこれだろう。

 小学2年生で田舎に引っ越した私は、初めて徒歩圏内にお寺がある人となった。 つまり、除夜の鐘がつきに行けるようになったのだ。 春はつくし採り、夏はホタル、冬は雪合戦、大晦日には除夜の鐘!と田舎生活を満喫 する事になったのだが、除夜の鐘は曲者だった。
 忘れもしないその日。隣のお姉ちゃんとその妹、三人で除夜の鐘を突きに行く 予定を立てていた。もちろん深夜だけに親つきである。
 集合したのは鐘が鳴り始めた12時頃。なかなか出てこない隣のおじさんと 既に揃ってしまった子供3人。鐘の音は聞えてきている。 焦った三人は思わず、大人を待たずに歩き始めてしまったのだ。
  目的地のお寺は・・・住宅街を抜け、山に入る。鬱蒼とした木々の間を抜け、 細い川の横を抜け、鐘の音はすれども人気は全くない。

ま、まずい・・・でもここまで来てしまっては、引き返すのも怖い。 小さな滝のあるお寺に近づくほど、水の流れが聞えるようになり、 歩いている道の下の方、深い場所に水が流れている音がする。
こ、怖い・・・実はここ、夏には子ども会の肝試しに使っている場所なのだ。 それでも3人、鐘の音のする方に進むしかない!とばかりに突き進んでいく。除夜の鐘は108つ。間に合うのか?と逸る心と恐怖が3人の歩みを更に速める。 そして、漸く鐘の音がする場所にたどり着いた。 何故かこのお寺の鐘は地上にはなく、やぐらの上にあったのだ。

 一人ずつ、暗い中を足元に気をつけながら老朽化の進んだ階段を上っていく。 そしてそこの待っていたのは・・・

 まっくら闇に目が慣れた頃、見えたのは暗がりの中うずくまる老婆。 背中を丸め、髪は後ろでまとめている。そして彼女の手には数珠が!! どうやら108つを数えているらしい。うる星やつらの妖怪話しに出てきそうな おばあさん(分かる人だけ分かって欲しい)が、寒いやぐらで、うつむきながら 一つ一つ数珠の玉を動かしていく様は・・・もう、ホラー以外の何者でもなかった。。。

 こ、こわいっ!!!!

 必死で歩いてたどり着いた除夜の鐘。突かないわけにはいかないので、 とにかく一つ鐘を突き、猛スピードでやぐらを駆け下りる3人。 除夜の鐘と肝試しを一度に体験することになろうとは!!! まさかの展開である。新年早々、肝試しをする事になるなんて!!!

 二度と来ない〜!!と怖がりの私は泣きそうになりながら家路を急いだ。 さて、その後。大人を待たずに真夜中に子供だけで遠征してしまった事を 両方の親にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。

◆2009.1.17 By なつむ◆

31 ・「失われゆく記憶」

 先日、祖母が亡くなった。人間いつかは死を迎えるのだが、死への恐れはそこに至るまでの身体的な苦痛や孤独といった過程が大きいと感じている私にとって、大病もせず、最後の2ヶ月以外、ほぼ自宅で92年もの長き一生を終えた祖母は正しく大往生だったと思う。

 祖母と暮らしていた叔父と、葬儀場で話しをしていて気づいたのだが、祖母の92年という時間は激動の時代であり、生きた歴史ともいうべきものだった。生まれ故郷の静岡で関東大震災の揺れを経験し、2.26という事件もリアルタイムにあり、結婚を機に東京へ。その後、東京大空襲を生き延び、戦後を迎え、平成になって21年も彼女は生きたのだ。大正、昭和、平成と生きたのである。

 そこでふと思う事があった。私は祖母が体験した日本の歴史を彼女の口からはほとんど聞いていない。第二次世界大戦以降も絶えず戦争に携わっている国が多い中、「戦後」が存在している貴重な国、日本で戦争を体験した人々が高齢となり亡くなっている昨今、その記憶も日々失われていく。

 以前、村上春樹の「ねじまきどりクロニクル」という長編小説を読んだ時の事。その物語の中で「ノモハン事件」が登場した。朝の通勤電車で読んでいた私には衝撃的な内容であり、一日のスタートで既に疲労がピークに達した。ノモハン事件は中国、満州で起こった事件である。ロシア人とモンゴル人、そして日本人が兵士として登場する非常に残忍な場面がそこには描かれていたのだが、そこでふと、シベリアに抑留経験のある祖父の事を思い出した。彼は私が4歳の時に亡くなったので、話しを聞く機会は無かったのだが、小説を読んでいるうちに、一体うちの祖父はどんな体験をしたのだろうかと、それが気になるようになってきた。両親に聞いてみると、父は全くその話しを聞く事はなかったらしい。一方、息子の嫁である母には、時折祖父は面白いエピソードだけ話していたそうだ。人間、本当に辛い話しほど、近しい人には、特に家族には出来ないものなのかもしれない。記憶から無くしたいぐらい辛い思い出は、なかなか語れる物ではないと硫黄島からの帰還兵だった人が語っているのをテレビで見たことがあるが、そうして記憶はほんの数十年の事であっても、徐々に失われて行く。

 私は今まで戦争体験の語り部から話しを聞く機会が2回あった。それは、体験者のみが語る事が出来る事実であり、映像や写真をも凌ぐ力を持っていた。
 戦後が当たり前になってしまった今、一人一人が持っていた記憶はその人の人生の終焉と共に消滅していく。祖父母という近しい人間の事ですら、その人たちが居なくなってしまった今、その人たちの人生を紐解くことは容易ではなくなっている。
失われゆく記憶が人間にとって重要であり、これからの自分たちの未来に知恵をもたらしてくれるものであるのなら、一刻も早くその記憶を留められるようにしておくべきである。まずは家族から。話しを聞いておく必要を感じる今日この頃なのだ。

◆2009.1.25 By なつむ◆

32 ・「モーツァルトはお好き?」

 先日、友達二人から世の中モーツァルト好きが多いので、「好きじゃない」となかなか公言出来ないという話しを聞いた。
確かに、モーツァルトのアニバーサリーには世界中、特に日本などはテレビで特集を組んだりしているし、メジャーな作曲家である事は確かだろう。ウィーンのお菓子売り場に行けば、そこら中モーツァルトの顔のついたチョコレートが並んでいるのも事実である。が、「私、モーツァルトが好きじゃないんです」って言うのがそんなにリスキーだと思っている人が居るとは驚きの事実だった。
モーツァルトが好きじゃなければ人じゃない、とまでは言わないにしても、彼は物凄く好かれているというこの友達二人の共通認識。これは、大学時代ピアノ専攻だった私にとっては「何で?!」というぐらいびっくりな事実だった。

 なぜならば、「私はモーツァルトが嫌い」なのである。いや、彼の作ったオペラは好きなので正確には「モーツァルトのピアノ曲を弾くのが嫌い」なのだ。苦手、嫌い、弾きたいと思わない。という言葉が私の中では大量発生していた学生時代。私はアンチモーツァルトを公言してはばからず、恩師もこの子には向いていないと諦めていた。そして、周りを見回しても「私モーツァルトが大好きです!」というモーツァルLOVEなクラスメイトは一人も居なかったと記憶している。

 私に言わせれば「モーツァルトは割に合わない」作曲家である。なぜなら、彼のピアノソナタを始めとするピアノ楽曲は、音が転がるように展開し、真珠のような粒ぞろいの典雅な音が要求される。それが心地よさを生み出し、野菜もすくすく育っちゃうα波(でしたよね?)を出してしまうのだろうが、いかんせん、弾いてる方にすれば余り達成感が無い。リストやショパンといった作曲家の曲は華やかで弾き栄えがするのだが、モーツァルトはどこまで行っても「綺麗にさらえましたね」という言葉が最高の褒め言葉で、それ以上のところまではなかなか到達出来ないのだ。
 そして「モーツァルトは、指がモツレルト」という言葉があるように(嘘みたいな本当の話しだが、某音楽家が言っていた)指使いを真剣に考えるほど、とにかく音がコロコロと転がっていて、地道な練習が必要になる。そんな作曲家だから、「感覚で弾く練習嫌いな私」にとって、モーツァルトの良さは、学生時代全く見出せなったのだ。

 さて、そんなモーツァルト嫌いな私だが、生まれて初めてみたオペラ「魔笛」からモーツァルトの認識が変わった。「モーツァルトのオペラは面白い」それに付随して、交響曲の認識も少し変わって来た。
そして、ウィーンで彼の直筆の「フィガロの結婚」の楽譜を観た時、その譜面から溢れ出た音を感じて感動した。彼が譜面を書くとき、音は正しく天から降ってくるように彼に降り注がれ、夢中になってその音を譜面に書き記していったのだろう。彼の残した楽譜は、音符が勢いに任せて書かれて踊っているように見えるのに、何故か確実に読み取れる不思議な見やすさを持っていた。
 彼の短い人生の中であれだけの曲を生み出して行ったという事は、書くスピードも大変なものだったと思われる。譜面はフリーハンドでかかれ、小節線に定規を使った線は見当たらない。しかし、確実に読める楽譜なのだ。正しく神童を感じた瞬間だった。

 ところで、モーツァルトが世に出てくるまでは、オペラは全てイタリア語で歌われていた。私の記憶が正しければ、モーツァルトはオペラに初めて母国語を持ち込んだ人である。モーツァルトの後期の作品、魔笛やドン・ジョバンニはドイツ語がスタンダードになっている。有名なフィガロの結婚は貴族がやり込められる話しだし、魔笛はフリーメイソンの色が濃いし、魔笛が初演されたのは王宮の劇場ではなく、今もウィーンに残るアンデアウィーンという街の劇場だった。こうしてみるとモーツァルトはなかなかの革命児だったのだ。子供の頃から弾かされていたピアノ曲には面白みを感じなかったモーツァルトだが、オペラという場所から見える彼はなかなか面白い人なのだ。

   というように、学生時代とはモーツァルトの認識は変化を遂げたが、未だ私の「モーツァルトのピアノ曲嫌い」は頑なに変わらない。なぜなら、神に愛されていない凡人にとって神に愛された人間が湧き水のごとく生み出したであろうピアノ曲を弾く難しさは何ら変化を遂げていないからだ。モーツァルトの楽曲は弾くものではなくて、聴く物である。それが私の出した結論である。
 そして、モーツァルトが嫌いな人は嫌いだと公言してもいいと思う。それがもとで友達をなくすなんて事は多分無いだろう。相手はあのモーツァルトである。好きな人が多い存在ほど、嫌いな人も多いとうのは世の常なのだから。

◆2009.2.11 By なつむ◆

33 ・「飛べるのか?」

 野鳥・・・と言っていいのかどうかは知らないが、多分世界中にスズメとハトは存在している。鳥に詳しくない人でも、スズメとハトは見分けがつくぐらい、この鳥たちはメジャーである。そして、この鳥類2種は私の観察対象となって久しい。

 事の発端は、イタリアミラノのガレリアにあったマクドナルドに生息しているスズメ達だった。 ガレリア内のオープンカフェのようになったマクドナルドで食事する観光客。そのテーブルに スズメ達が遊びに来る。我々のテーブルにも遊びに来て、全く人を怖がる様子は無く、フライドポテトを ねだって来た。最初は「可愛い〜!」と思い、ついでにスズメもイタリア語なのかしらんと、どうでも良い 事を思って見ていたのだが、やがてある事に気づいた。
「ここのスズメ、太ってる!!!」
そうなのである。フレンチポテトを毎日、毎日食べ続けている彼らは、丸々と、いや、パンパンに、 いや、飛べるのか?というぐらい太っていた。まん丸なスズメ。こはいかに・・・
食生活の悪さがダイレクトに体型に出ているスズメがそこには存在していた。

 それ以来、スズメの「体型チェック」が私の日課?となった。私の住まいの周辺のスズメは住宅地だけに ジャンクフードは食べて無いらしく、いたってスリム。これぞスズメというサイズである。
がしかし!西の某テーマパークのスズメは違った。もう、びっくりするぐらい丸い。転がせばコロコロと 転がるんじゃないかと思うぐらい、もっちり、ぷっくり、ぽってりである。なぜならば!
思うに、ポップコーンの食べすぎである。テーマパークといえば、ポップコーン。そして、フレンチポテトも 貰っているに違いない。これまた人に慣れている彼らは平気で地上に降り立ち、落ちたポップコーンを ついばんでいる。コロコロなスズメが10羽ぐらいで懸命にポップコーン拾いをしている様はキュートなのだが、 どう見てもメタボスズメの図である。そして彼らの「飛翔高度」は低い・・・
 パリで観た、ルーブルのカフェに遊びに来るスズメは、フランスパンが体にいいのかスリムだったなぁ・・・ と少々感慨深くなりながら、ポップコーンって怖いかもとスズメを眺めてしまうのだ。

 というように、食べ物で体型の変化が起こっているスズメは飛び難そうだが、あえて飛ばない鳥に 私は出会ってしまった。

 ある朝、通勤電車を待っていた時の事。ハトが駅のホームに一羽佇んでいた。各駅の電車が来たので 乗り込むと、何故かハトも一緒に入ってきたのだ。その電車は両方の扉から乗り込めるので、 乗り込んだハトはそのまま出て行くのかと思ってとりあえず観察していた。
この電車は空いているので、乗り込んだ全員が座ってもまだ座席は空いている。という訳で、通路に人は 居なかったのだが、この日はハトが通路に立っていた。

 やがて両方のドアが閉まる。でもハトはまだ通路の中央に立っている。閉じ込められた!と焦るのか?!と 眺めていても、ハトは一向に慌てる様子もなく、ドアとドアの中間の通路に立っている。
やがて電車が動き出した。この電車は結構揺れるのだが、ハトは通路の中央にしっかり立ち、何とバランスを 取っているではないか!もしかして、このハトは電車に乗ってる?! そうなのだ。このハト、実はとっても電車に慣れているのだ。
「あ、ありえない!!」
と凝視する私。そして慣れた様子で電車に揺られているハト。そして遂に次の駅に到着した。
「えーっ!!!」
と心の中で叫んでいる私を尻目に、乗客が降りて行く最後尾に、ハトもくっついてトコトコと下車。お尻を振りながら駅のホームに降り立ち、どこかへ消えて行った・・・

 この、電車に乗るハトの衝撃は凄く、会社に着いた時から会う人、会う人に話したのだが、誰も信じてくれない。何故携帯で写真を撮らなかったのか、と言われ、確かに・・・と思う事数ヶ月。
ある日、会社の友達が私に言った。
「私も一駅乗るハト、今朝見た!!!!」
かくして、私の目撃情報は事実と認定される事となった。しかし、何故に一駅、通勤時間にあのハトは電車に乗るのか。そこには、とても基本的な一つの疑問が残るのである。あのハトは・・・飛べるのか?と。

 メタボのスズメと電車バト。いずれも飛んでこその「鳥類」なのだろうが、そのうち「鶏」のように飛べない新種が出てくるかもしれない。

◆2009.2.15 By なつむ◆

34 ・「失われた味を求めて その1」

 特にプルーストのファンでもなければ、「失われた時を求めて」というあの長編小説を完読した訳でもない。がしかし、私には「失われて」はいないが、日本では手に入らないが故に、「求めて」久しい「味」がいくつかある。タイトルはまあ、正直、何だかごろが良い感じがして書いて見たかっただけとご理解頂きたい。

 さて、海外に行く楽しみの一つに料理がある。現在日本食が世界各国でブームになっている事からも分かるように、日本の食文化は高いレベルにあって、実際に美味しいものが多い国だと思う。それでも、世界には日本には無い美味しいものが多く存在している。そしてそれは「おっ!これは!!」と心が躍る瞬間の訪れであり、至福の時を味わうことになる。
 海外に行くと食事に困るという話しを時々聞くが、美味しい店に出会う事が出来れば、そんな悩みは当然の事ながら消えていく。私にとって、NYも、ウィーンも、チェコも、パリも、ロンドンですら美味しい町なのだ。

 という中で、特に忘れられない味の話しを今日はしたいと思う。食べ物はまずい話しほど盛り上がるとも言うが、たまには美味しい話しというのも良いものだろう。

 まず、NY。未だ追い求めている味。それは、サラベスキッチンのコーンマフィンだ。何の変哲もない、とうもろこしのマフィン。だが、侮るなかれ。そのしっとりとした中にある、コーンミールのサクサク感が絶妙なのである。たまたま滞在したマンションの前が日本にジャムを輸出しているサラベス・キッチンで、朝食用のマフィンを調達した。その時に買ったマフィンが忘れられず、帰国後仕方が無いので自分で焼くしかあるまいと、一時マフィンばかり焼いていた。だが、あの味には未だに出会えていない。

 次に、同じパン系繋がりでいくと、ウィーンのカフェ、ハイナーでスープを頼んで出て来たフランスパンタイプのプチパンが未だに忘れられない。丁度良い加減に温められたパンの香ばしい匂いと、生地の美味しさは驚きだった。この時には、ウィーンの職人の底力を見せられた気がしたものだ。香りといい、味といい、歯ごたえといい、全てが楽しめるパンだった。

  さてカフェと言えば、ケーキ。という事で、次はパリに話しは飛ぶ。昨年訪れたパリで衝撃的な味だったのは、タルトタタンだった。日本で食べるリンゴのお菓子、タルトタタンは甘すぎるほど甘く煮たリンゴが大部分を占めるお菓子だが、パリで食べたそれは全く別物だった。目の前に出されたタルトタタンの大きさに、最初は頼んだ全員が躊躇したのだが、一口それを食べたところから躊躇は喜びへと変身を遂げた。「私が今まで食べて来たタルトタタンは何だったの!!」と叫びそうになる一瞬だった。
 本場フランス、しかもかの有名なポワラーヌに隣接したお店で食べたタルトタタンは、口の中に入れた途端、自然で濃密な、どちらかというと最高に美味しい鳴門金時の石焼芋に似た味がした。何という美味しさ。何という幸福感!大きくカットされたタルトタタンは最初の危惧とは裏腹に、良いペースで無くなって行った。流石に最後の方はちょっと厳しくなってきたが、とりあえず全員が完食。本物の味に完敗の体験だった。先日パリで有名な料理人が日本に出したお店に行き、デザートにタルトタタンを頼んだが、残念ながら日本のタルトタタンだった。あの味はあの店でないと出会えないのかもしれない。

 日本でも結構浸透しているが国が違えば別物だった、という繋がりで思い出すのはチェコ、プラハで食べたザワークラウトである。キャベツの酢漬けでドイツでも定番の添え野菜である。言ってみれば洋風漬物だ。プラハ城の中にあるレストランで出て来た紫キャベツの酢漬け。これが何の変哲もない食材なのに、そのすっぱさと甘さが絶妙で、こんなに美味しいものなんだ!と大げさでなく目から鱗だった。料理との相性も抜群で、今まで気が向かないと食べない物だったのが、その出会いが引き金となり、プラハに居る間あちこちのザワークラウトが楽しみになった。そして本当にプラハで行った店のザワークラウトは、当たりも良かったのだろうがどこも料理との相性も良く美味しいものだった。それ以来、そのうち自分で漬けてみようかと思っているぐらいである。

 と、ここまで書いて来てお気づきの方もいらっしゃるかと思うが、日本で無い味に出会うと、私は自分で作ってみようと思う傾向にある。最近では、パリ、ポワラーヌのクッキーを作ってみようと試みた。ポワラーヌのクッキー。これまた何の変哲もない、円形花形?のクッキーなのだが、食べ進むうちにその味わいの深さに気づく。薄くて歯ごたえがあって、バターと小麦粉と卵と砂糖で出来ているのだろうと簡単に推測で出来るというシンプルなものだのだが、食べ終わった途端、また食べたくなるのだ。その味を求めて日本であがいてみようとしたが、やはり見つからない。そして、輸入されたポワラーヌのクッキーはすこぶる高い。故に似た物が出来ればと自分で作ってみたが、小麦もバターも、オーブンも違うので、当然の事ながらあの味は出なかった。発酵バターと石釜。特に石釜は調達できないので諦めるしかない。

 と、随分長くなってしまったのだが、食べ物の話しはまだまだ尽き無いので、この話は続くのである。

◆2009.3.9 By なつむ◆

35 ・「失われた味を求めて その2」

 その昔、私は食べ物に全く興味の無い子供だった。この世に生まれ落ちた時、私は食に感心が無かったらしく、お腹が空いたから泣くという基本的な事もしなかった。母乳で育てていたらどんどん痩せていったらしく、原因を調べたら母乳が出ていなかったらしい。急遽人工乳に切り替えたそうだが、とにかく子供の頃は食べ物に興味がなった。

 そんな私がいつの頃からこんなに食にこだわるようになったのか。そのターニングポイントがどこだったのか、残念ながら記憶は無いのだが、今や日本だけでなく海外の味をも追いかけたいという、業(ごう)のようなものを抱えるようになってしまった。人間長く生きていると変わるものである。

 さて、前回に引き続き日本では出会え無い「味」の話しである。
食べ物好きで芸術好きな私が昨年まで一度もパリを訪れていなかったという話しをすると、知り合いは皆不思議がるのだが、何故か昨年までパリには行った事がなかった。
 初めてのパリは美食の殿堂というより、滞在中は食べ物の美味しさの水準が高い街という印象を受けた。驚くほどの味にはなかなか出会えないが、どこに入って何を食べても普通に美味しい街、パリ。しかし、思い返してみるとフランスという国の底力を感じる味に色々出合っていた。

 前回書いたタルトタタンも、ポワラーヌのクッキーも底力を感じる物だが、短い滞在期間の中で、その他にも色々な出会いがあった。ラファイエットやボンマルシェの食材フロアの充実もフランスの「食」へのこだわりと文化を感じるものだったが、何気ない物もしっかり吟味されて出されていると感じる瞬間が多々あった。
 滞在中、すっかりお気に入りになってしまったルーブル美術館の一画にあるカフェ。ここのでとる朝食は幸せな一時だった。ルーブルのピラミッドと建物を見ながら、オープンカフェで清々しい朝の空気を感じていると朝食が運ばれて来る。エシレバターと、フーケのハチミツ、ジャム数種類。カフェオレ、絞りたてのオレンジジュース。そして温められたフランスパン。
日本で食べると、カルピスバターの方が好きだと思ってしまうエシレバターも、フランスの小麦で焼かれたパンにつけて食べるとその美味しさが舌に染み入って来る。発酵バターはチーズにも似た味がして、少々癖があるとも言えるのだが、日本のそれより主張の激しい濃厚な小麦の味と対等に勝負し、融合していく。つまり、美味しいのである。
 また、小さな瓶に入ったフーケのハチミツは、癖が無く、これまた濃厚な味でかなり幸せを満喫出来る。どうにか入手して日本に持って帰りたいと思う味だった。小さいながらも一人に一瓶付くなんて、何て贅沢な、と思いながら何度かこのハチミツを食べた。この味にもまた、フランスの底力を感じさせられた。

 ところで、パリと言えば焼き栗だが、残念ながら私がパリを訪れたのは初夏で焼き栗屋には出会えなかった。しかし、ヨーロッパにはパリに限らずシーズンになると焼き栗屋が出没する。という訳で、私が出会った焼き栗はウィーンだった。という事で、再びウィーンに話しは戻る。

 ヨーロッパが秋を迎える頃、日本の焼芋のように街には焼き栗屋さんが出る。日本の焼き芋のように炭火で甘く美味しく焼かれた栗は、紙袋に入れておじさんが手渡してくれる。それを歩きながら、もしくは持ち帰って食べるのだが、とにかく美味しい。日本の栗よりも小粒で、噛むと甘みが広がる。出来る事ならお土産にしたいと思うのだが、一日経つと当然栗は硬くなってしまうので、残念ながらその場でしかこの美味しさは味わえない。時間と、食材の両方が揃ってこそ味わえるちょっとした贅沢なのだ。そして、一度この焼き栗を経験すると、ああ、もう焼き栗の季節だなと、秋になると食べられないことにちょっぴり寂しくなるのである。

  さて、2回に渡って書いてきたこの「失われた味を求めて」の最後を飾ってもらうのはこの味だろう。 ウィーンにあるプラフッタというお店のターフェルシュピッツ。魔法のスープと言われるこの店のコンソメスープは絶品である。ターフェスシュピッツ、つまりここの牛肉と野菜のコンソメ味の煮込みの味わい深い事。このお店では、鍋ごと料理が出される。料理を注文すると、テーブルに美しい鍋が運ばれてくる。
 中には牛肉と野菜が煮込まれて入っているのだが、まずサーブされるのは、スープのみである。目の前に置かれた白いカップに「魔法のスープ」がサーブされる。口に入れた瞬間、体にじわ〜と温かさが広がり、舌の上ではいくつもの味が少しずつ訪れて行き、最後に幸福感を運んできてくれる。ウィーンの職人技を感じるこの味は、日本では出会えない独特なものなのだ。美味しい。本当に、美味しい。ただのスープ。されどスープである。  幸せなスープの後には、牛肉と野菜がお皿にサーブされる。言うまでもなく、このスープで煮た肉と野菜はまた味わい深い。幸せだな〜と思いながら食べ進んでいくと、ついにこんな物がサーブされる。角の取れた三角形。そしてその中にあるグレーのもの。これは、牛の脊髄を輪切りにしたもので、中央にあるグレーのゼラチン質のようなものは、髄だった。サーブしたウェイターが、薄くスライスしてカリカリに焼いたパンにその髄をつけて食べろと言う。骨髄。髄液・・・骨髄・・・狂牛病・・・狂牛病?
 プラフッタのスープは魔法の味。プラフッタの牛は直営の牧場の牛。ヨーロッパで広がる狂牛病。魔法のスープ。美味しい牛肉。伝統のある店。魔法のスープ。狂牛病、魔法のスープ!!
という訳で、頭の中では食欲と恐怖がぐるぐる回ったが、気づくと左手はパンに伸び、右手は骨髄へ。 ナイフで少し取った髄をパンに塗る。そして、口に運ぶ。 未だかつて、こんなにスリルを感じながら食事をした事があっただろうか。でも、口の中に広がった味は、何とも濃厚で、今まで食べた事の無いものに感じられた。美味しい・・・美味しい!まずいことに、美味しかった。なので、思わず全部食べてしまった。ドキドキしながら、でもめったに出会えないこの味に出会ってしまったのだ。お店が推薦している赤のグラスワインとの相性も良く、最初の恐怖はどこかへ行き、気づくとご機嫌で完食・・・多分またこの店を訪れたら食べてしまうだろう。一度食べたのだから、今更避けてももう遅いと自分に言い訳して。そしてリスクを2倍背負い込むことになるのだ。

 以上が私の「失われた味を求めて」の一部である。まだ「一部始終」ではなく、一部なのだが、思い返してみて思ったことがあった。最後のプラフッタの骨髄の煮込み。「失われた味を求めて」が「失われた命を求めて」にならないように気をつけなければならない。笑えない冗談は、ただの冗談ではない気がするのが、少しばかり恐ろしい・・・そして、今更気をつけても遅いといえば遅いのである。何せ食べてしまったのだから。

 と、2年前の話しにドキドキしてしまうぐらい、案外小心者なのだが、それでも、私の味をめぐる冒険はまた続いていくのである。

◆2009.4.4 By なつむ◆

36 ・「泣ける映画」

 時々人から「泣いた映画は何?」と聞かれる。私は映画を見てあまり泣かない方なので、見ている本数からすると泣く確率は極端に低い。でも、そこを無理やり思い起こしてみると・・・

 まず、「スタンド・バイミー」。これはクリス役のリバー・フェニックスが亡くなって以降泣ける映画になってしまった。映画のラストで「クリスはケンカを止めようとして刺されて死んだ」というナレーションと共にリバーが不意に画面から消えるシーンがある。彼自身のその後の運命を暗示する場面だったように思えて、何度見てもこの場面は悲しくなる。彼自身の儚さを感じ、今生きていたらどんな俳優になっていたんだろうと考えてしまうのだ。

 次は「ロングタイム・コンパニオン」。これは映画館で泣いた思い出がある。丁度AIDSで多くの才能が次々に命を落としていった頃の作品で、映画自体もAIDSで命を落とすゲイたちの話しだった。AZTがまだ出来る前に実に多くのアーティスト、クリエイティブな人々が命を落としていった。
ジョルジュ・ドン、ルドルフ・ヌレエフ、ロバート・メープルソープ、フレディー・マーキュリーといった人々の死は私に衝撃を与えた。
 この映画には、孤独な死、パートナーが献身的な看病をして支える中で迎えた死、様々な死が描かれている。同じ流れで行くと「フィラデルフィア」も泣けたが、後で考えてみれば、弁護士で献身的なパートナーも居て死を迎えるという主人公はかなり幸せだったと思える。

 そして「ニュー・シネマパラダイス」。これは、カットされていたキスシーンを大人になった主人公が見る場面では、多くの人が涙したと思うが私もその一人である。
 実は「ネバーランド」で終始涙目になっていたが、丁度愛犬を亡くした時期だったので、これは何が原因で涙が出ているのか正直分からない状態だった。何せ犬が画面に出て来ただけで涙を流していた時期だったのだ。同じ時期に見た「犬のえいが」の「まりも」の話しは言うまでもなく、犬だし、犬との別れの話しだし、これは物凄く泣けた。泣かせようという意図が感じられる作品だったが、犬なら仕方ない(笑)素直に泣いてしまった。私の場合、人では余り泣けないが、動物にはかなり弱い。

 と、書いていて気づいた事がある。やはり私は映画をあまり見て泣かない体質らしい。こんなに映画を見ているのに、もう泣ける映画のネタが尽きてしまった(笑)
 逆に一般的には泣けるらしいが泣かなかった映画はすぐに思い浮かぶ。「タイタニック」と「シンドラーのリスト」はその筆頭だろう。
 「タイタニック」だが、南米のとある国では映画館中笑いの渦だったと聞いた事があるので、私はとりあえずこの映画に関しては、笑いはしなかったが南米人という事にしておこう。
 「シンドラー」は、映画の終わりにシンドラー本人と、助けてもらった人たちの感動的な別れの場面があるのだが、私に言わせれば、ここの部分は全くもって必要ない。これでもか、これでもかと泣けるシーンを作らないと気が済まないとしか思えないスピルバーグのやりすぎ感、言葉は悪いが一種の「あざとさ」が鼻について逆に興ざめしてしまった。

 微妙なもので、製作者の思惑がちらちら見えると私の涙は止まってしまう。という訳で、私の涙腺を刺激するというのはなかなか難しい事のようだ。さて、皆さんの泣ける映画は何ですか?

◆2009.4.26 By なつむ◆

37 ・「道具が道具である為に」

 1980年以降に生まれた人には信じられない事かもしれないが、その昔、テレビはオンタイムの放送を逃すと見られないものだった。映画は映画館で見るかテレビで放送を待つしかないものだったし、ケーブルテレビも今ほど普及はしていなかった。レンタルビデオ店が世の中に登場したのは調べてみると80年代である。

 我が家にビデオが登場したのは意外に遅かったので、テレビ番組を繰り返し見られるようになったのは小学校中学年になってからの事なのだが、自分でも驚くほど当時見ていたアニメの話しや映像を鮮明に覚えている。どう考えても一度しか見ていない放送が、記憶の中に具体的に刻み込まれているのである。
 その記憶が蘇る度に、今しか見られないという緊張感と集中力を持って見るというのは何と凄いことかと思う。日常は過ぎ去るが、非日常は記憶に留まるのだ。
 そして、何度でも見られる今と、一度だけの放送を毎週楽しみにわくわくしながら見ていたのと、どちらが幸せなのだろうかと思う。これはテレビに限った話しではないが、便利さがもたらす負の面と言えるだろう。それなら録画しなければ良い、とも言えるが、便利さを手に入れてしまった今、それを手放す事はもう出来なくなっている。

 更に、便利さはツールであるにもかかわらず、我々をある意味支配する存在にもなり得る。

 ビデオしかなかった頃。その編集は容易ではなかった。また、録画できる時間も、180分テープを3倍にしたところで、540分が最長。という訳で、たとえば、24時間放送される番組をフルで録画しようとすると、夜中にテープの交換をする必要があった。これはやってみるとなかなか成功率が低い。私は24時間放送された「バンドエイド」を録画しようとチャレンジしたことがあるが、夜中のテープ交換に挫折した。しかし、今やハードディスク録画の時代である。時間の制限は無きに等しくなり、どれだけ録画しても本来ならいっぱいにはならないところまで来てしまった。
ビデオテープでしか録画出来ない状態から、ハードディスクでの録画が出来るようになった時、その画期的な便利さは驚かされるものだった。録画しながら追っかけ再生は出来るし、録画しながら録画しておいた他の番組も見ることが出来る。そして、保存しておきたい番組は、CMを抜いて編集できるし、切るのも繋げるのも自由自在となった。すると、とりあえず録っておく番組が増え、何十時間もあるハードディスクがいつの間にやら飽和状態になっていく。
 私たちの1日は昔も今も24時間であるのはかわりがない。故に、録っておいて見ない映像が次第に増え、ハードディスクの空きスペースも減ってくるので、今度は整理に追われるようになってくる。見ようと思っていた映像は山のようにあるのに、整理に追われて観る時間が無い、という人は案外多いのではないだろうか。結局、便利なはずのものが、「編集」と「整理」という仕事を生み出し、いつでも見られるという日常の緊張感の無さが見ない蓄積映像を増やしていく。悪循環である。

 追われると言えば、携帯電話に追われている人こそ多いのではないだろうか。その昔、メールはPCでやりとりするものだったが、今や友人とのやりとりは携帯メールが主流になっている。持ち運ぶことが出来る携帯でメールが出来るようになった事により、新たな問題が発生していると最近、ニュースで良く耳にする。一部の子供たちの話しかもしれないが、友達から来たメールの返信をすぐにしないと間柄が悪くなるという。携帯中毒とも言える現象が多々起こっているらしい。完全にツールである携帯電話に支配されてしまっているのだ。

 自分自身を振り返ってみると、確かに携帯メールを利用するようになってから、友達とのメールのやり取りは増え、それに比例して移動中の読書量は減少した。私の場合、外出する時には、お財布と鍵の次に携帯が欠かせない物になっている。海外旅行の時でも携帯は持って行く。今や何処に居ても携帯は猫の鈴のように我々と一緒に行動し、国内に居ようが海外に居ようが知り合いから連絡が入るのである。

 というように、便利さにはどうやら「拘束力」があるらしい。便利さが日常になり、それが当たり前になると自分と「道具」の関係が見えなくなってくる。これは今あげた例に限らず言えることだろう。

 世の中に流通しているものは、あくまでも人間の生活をより良く、便利にする為に生み出されたものである。そしてそれは、恐らく無かったら無かったで生活にさほど支障が無いと思われる。なぜなら、ビデオも、ハードディスクも、携帯も無い時代から人間は普通に生活していたのだから。
 かといって、今更それらを手放して生活する事は難しい。では、「拘束」されず、「支配」されずに生きていくにはどうすればいいのか。
「便利」な「道具」が「道具」である為には、時折その「道具」を手放す日を1日ぐらい作ってみるのが良いのかもしれない。時折使わない日を作る。私の場合、解放感と不便さの両方を感じることになると思うが、道具に対する自分の中のバランスを見つめ直す。これが人と道具の良い関係を築く秘訣なのかもしれない。

◆2009.5.5 By なつむ◆

38 ・「謎が解ける時」

 長年、何故だろうと思っていた事がある日何かのきっかけで、そうだったのか!と分かる瞬間がある。
失われた時を求めて」を書いたフランスの作家、プルーストは20年来何故だろう、何故だろうと考えていた事がある日突然分かり、その後1週間不眠不休で「失われた時を求めて」を書き綴ったという逸話を聞いた事がある。
 私の場合、それほどまでに衝撃的な事ではないが、最近ある疑問が解けた。長年私が感じていた不思議。それは、ピアノの練習に関わることである。

 大学でピアノを専攻していた私は、それなりに難易度の高い曲を弾いていた。今よりはずっと練習している日々だったのだが、練習してもなかなか弾けないフレーズが出てくる事がしばしばあった。弾いても弾いても、何故か上手くいかない時。そんな時はあまり固執せず、あっさり練習を諦める。もちろん努力した上で、今日はもうやめようという判断をする。そして翌日。何故かその弾けなかった箇所が弾ける様になっている事が多かった。こはいかに、である。
 また、最近では平日は仕事をしているので週末にならないとピアノが弾けない状態にあるのだが、弾かない時間が長いのにも関わらず、その曲を弾くことに関して後退することはなく、歩みはのろいにせよ、曲は次第に完成し、ある時点でこれで完成に近づいたと実感できるほどジャンプアップする瞬間が訪れる。これも不思議だったのだが、最近読んだ「海馬」という脳の本で、その答えを見つけた。

 今日出来なかったことが、何故か明日は出来るようになっている。何とそれは、脳が寝ている間に情報を整理しているからだそうだ。ある情報とある情報のツナギが上手く行っていないから間違える。それを睡眠中に脳はきれいに整理、接続していく。故に前回は出来なかったのに今回は出来る、という現象が起こるというのだ。素晴らしい!この説明を読んだ瞬間、「これだ!」と長年の謎が解けた快感に包まれた。そうだったのか!と。

 さて、謎が解けると次に気になるのはその不思議の舞台である睡眠である。睡眠は脳の情報整理の時間であり、とても重要なものだそうだ。脳の研究者である池谷氏によると、最低でも6時間は必要らしい。人は夢でその日受けた情報の整理をする。眠っている間、我々は夢を必ずみているらしく、覚えているのは本当にごくごく一部に過ぎない。夢を全て覚えていたら、夢と現実が分からなくなり人は混乱して生きて行けないそうだ。

 6時間の睡眠。それが無ければ、海馬は壊れて行き、仕事の能率も上がらない。どんなに忙しい時でも、6時間は睡眠の時間をとらないと脳はちゃんと働かない、とある。どうしよう・・・私の睡眠は平均、5時間弱。どんどん脳が破壊されていっているという事だろうか。しかし、脳細胞の破壊は気にしなくて良いらしい。なぜなら、日頃脳細胞は一部しか使われておらず、人は一生かかっても全部の細胞は使いきらないほどふんだんに用意されている。深刻なのは、睡眠不足による海馬の弱体化である。うーん。6時間。残念ながら私には高いハードルである。そして、長寿な人の睡眠時間は7時間だそうだ。8時間は眠りすぎだとニューズウィークには書かれていた。という訳で、とりあえず今のままだと私は本来の脳の力を発揮する事無く、長生きも出来ずに生涯を終えることになってしまう・・・かもしれない。どうしよう(笑)。

 ところで、睡眠が不可能を可能にする話しがあまりにもなるほどだったので、その話しを父にしてみた。すると、こんな答えが返って来た。
「だからか!ゴルフの夢を見ないから、ゴルフが上手くならないんだ」
微妙に間違っている気がしたが、とりあえず娘として頷いておいた私であった。

◆2009.5.17 By なつむ◆

39 ・「幸せな量」

 「宝くじで1億円当たったらどうする?」・・・という話しを先日職場でしていた。まあ、ここで「夢派」と「現実派」が垣間見えたり、価値観が見えたり、答えによって少しばかりその人の人となりがちょこっと分かってしまう質問である。
「家のローンを返す」「貯金する」は現実的な答え。「旅行に行く」「思いっきり買い物をする」は前者よりはちょっと夢寄りだと思うのだが、共通するのは「1億じゃ会社を辞めるわけにはいかない」という事だった。「とりあえず貯金して、何事もなかったかのように今まで通りの生活を続ける」派は案外多かった。

 ではいくらなら会社を辞めるのか。これには明確な金額を言った人がいた。「3億あったら会社を辞める」そうだ。なるほど。どう計算して3億円かは分からないが、確かに3億って無茶な使い方をさほどしなければ、生涯お金に困る事は無いだろう。

 私は宝くじを買ったことすらないし今後も買うつもりは無いので、これからも当たることは絶対に無いのだが、聞くところによると高額当選者は、当選くじが本物かどうかの鑑定を待ち、身を持ち崩さないようにというビデオを別室で見せられ、受け取り方法を選んで漸く手続きが終了するらしい。
ここで気になるのは、身を持ち崩さないようにするビデオの存在である。どんな内容なのだろう。そして、身を持ち崩す人が多いから出来たであろうそのビデオ。何だか幸せ感が薄い・・・更に、噂に聞くのは当選者に対する各種団体からの募金攻撃である。どこで聞きつけたか分からないが、とにかくプッシュが凄いらしい。当選したら絶対に口をつぐむ。これが鉄則というが、人間嬉しいと人に話してしまうのは仕方の無い事で、これは非常に難しそうである。
しかし、その持ちすぎたお金が他者に知られると、犯罪に巻き込まれる確率を格段に上げる事もある。日頃から資産を自慢していた人が泥棒に入られて全てを失ったという話しを昔し聞いたことがある。お金の自慢は額を言わないと出来ないし、それは同時に狙われるというリスクが伴うからやっかいである。持ってしまったがゆえの不幸がそこにはちらほら見え隠れしている。

 という事で、最近感じるのは「幸せな量」というのが世の中には存在しているのではないかという事だ。これまた職場で話していたのだが、例えばお昼を食べて、100円キャッシュバックがあったら嬉しい。これが、大金持ちだったら100円の楽しさはきっと分からない!小銭に喜ぶことが出来る幸せってあるよね!!と力説していた我々の小市民度が結構高いのは認める(笑)でも、本当にそうだと思う。

 また、お金を使うのには「才能」が必要だというのも感じる。以前、尾上菊五郎が余りにお金使いが派手なのでちょっと文句を言ったら「使う方も大変なんだ!」と返してきたと奥さんである富司純子さんが笑って言っていたのを覚えているが、使う事も案外難しいのだろう。以前ニュースで資産家の姉妹が現金をダンボールに入れて積み上げていたというのを聞いた。贅沢三昧で暮らせるのに、お金は使わずに積んでいたらしい。中には腐ってしまった紙幣もあったと聞く。正しく宝の持ち腐れである。

 また、成金な人々の生活をテレビなどで取材していると「物」の紹介に終始している。恐らく買い物は日常化するとさほど楽しいものではなくなると思う。某売れっ子作家が、自分のクローゼットを整理したら高級ブランドの全く同じ服が複数枚出て来たと書いていたが、その時点でもうその人は「気に入った物が買える幸せ」と「気に入った物に出会えた幸せ」を忘れていると言えるし、買われた「物」も不幸になっている。彼女は多分幸せな量をオーバーしてしまった人なのだ。

 おそらくこの世の中には「幸せな量」を「超える不幸」と「超えない幸せ」が存在している。そして、大多数の人には「超える不幸」は訪れない。だから「幸せな量」を超える話しをして楽しむのだ。普通の生活が出来て、辛い目にあわなければ結構幸せだと感じている人は多いのではないだろうか。という事で、振り出しに戻る。

さて、あなたは1億円当たったらどうしますか?

◆2009.6.7 By なつむ◆

40 ・「出来そうで出来ないこと。でも出来ること。」

 京都の町を友達と歩いていた時の事。
「京都にね。一ヶ月ぐらい住んでみたいわ」
と友達が言った。二人とも、関西圏に住んでいて、京都までは片道2時間弱で行くことが出来るので確実に日帰り圏内なのだが、この「京都に」「一ヶ月ぐらい」「住む」という3つの言葉は、何とも魅力的に感じられた。

 私は学生時代4年間京都に通っていた。夏は暑く、冬は寒い京都を体験している。故に、日本のどこに住みたいかアンケートで1位になったのは京都です、というのをテレビで見た時に、皆京都の厳しさを知らないから・・・と思ったものだ。 しかし、卒業後、日々京都の魅力に目覚めていく私がいた。京都は学生の町でもあるが、大人の町でもあるのだ。気象条件よりもその魅力が勝つ京都が私の中で誕生した。

 さて、次の「一ヶ月」という言葉だが、これがまた良い。京都は観光で食べている町だから、観光客には優しい。大学がたくさんある町だから、学生にも優しい。でも、よそ者には多分厳しい。故にショートステイが丁度良いあんばいなのではなかと思われる。短すぎてもこのディープな町は分からない。故の1ヶ月。

 そして「住む」である。京都は遊びに行って買い物をするだけでも楽しい。でもこの町を堪能するには、住んでみなければ分からないのではないかという事に気づいた。それにはいくつかの理由がある。
まず、京都の町の面白さだ。京都には路地が沢山ある。そして、普通の民家とお商売のお店が混在している。普通の家が続いたと思ったら、いきなり有名な焼き物、楽焼の美術館が現れたりする。こんなところに?という不思議な路地も沢山あるし、またそんなところにお商売屋さんが結構あるのだ。民家の陰にお豆腐屋さんとか、小学校の並びに芥子団子だけを売ってるお店とか、とにかく散歩したくなる町なのだ。もちろん、方向音痴の私が歩き回ると戻って来られない可能性は大なのだが。。。
 というように、路地を歩き回りたい。散歩がしてみたい。こんなところにこんな物が!と驚きながらそぞろ歩きたい、というのが一つ。神社仏閣ものんびり見て周ってみたい。
 次の理由は、食材である。京都といえば、錦市場が有名だが、錦もさることながら、デパ地下も充実している。そして、デパ地下に入っているようなお店の「本店」も魅力的なのだ。観光客として京都に行くと、基本的には出来上がったものを買って帰る事になるし、持てる量も決まってくる。私は食材を買い揃えて、料理がしてみたい。お惣菜を買ってきて、あれこれ食べてみたい。これはパリでも思ったことだが、食材が豊富な京都は、食材を買ってきて好きなように調理したりお惣菜を並べたりして食卓を囲むのが、とっても楽しそうなのだ。ちょっとそこまで買い物に出て、今日はこんな物があったとか、旬のこれを今日は食べましょうとか、そういう事を話しながら料理がしてみたい。それには、台所がついている場所に「住む」必要がある。故に旅館ではなく、台所と食卓がある場所に住みたい、となる。

 仕事をせず、ただ1ヶ月京都に住む。もしくは、仕事をしながら週末だけセカンドハウスのようにマンションを気心の知れた友人と期間限定で借りて住む。とにかく永住でも定住でもなく、京都を満喫してみたい。考えてみると、なかなか魅力的な話しである。また、住んでいる場所柄、全く不可能な事ではない。やろうとすれば出来ない事ではないが、でも、実際に考えてみると、色々と簡単ではない・・・でも、一生のうちどこかでやってみるのも面白いんじゃないかと思う。

 という考えを持つようになってから、結構経ったある日。糸井重里夫妻が京都に家を持っているという話しを聞いた。東京で仕事をして、1ヶ月に数日、愛犬ブイヨンをつれて京都の家で過ごすのだそうだ。おー!ここに実践者が居た!!と思ったのは言うまでもない。憧れの「時々京都」ではないか!!

 それ以来、現実的に考えた場合経済的な問題は残るが、「京都に住む」は、ますますそのうち試してみたい「出来そうで出来ないこと。でも出来ること」になった。まずは、いつ来るのか分からないその日の為に、迷子にならないように京都の地図を覚える事から始めようか・・・スタートラインが低すぎる。そこが一番の問題なのかもしれない。

◆2009.7.3 By なつむ◆

41 ・「家庭菜園のススメ」

 数年前、我が家の庭は畑になった。それまでは木や岩がある小さな日本の庭 だったのだが、ある日突然父が畑にする事を思い立ったのだ。 庭にはユンボが入り、みるみるうちに庭には「畝」が完成。そしてその年から 家庭菜園がスタートした。

 といっても、もともとそんなに勤勉な人が揃っている家ではないので、 基本的に我が家の野菜たちは雑草並の強さを要求される。手のかかる野菜は 次の年からは植えないし、農薬も化学肥料も一切使わないから、自然と 強い野菜しか植えられないようになった。そして残ったのは夏のプチトマトと 秋から春にかけてのわけぎ。その主役の脇に、夏なら胡瓜、青シソ、バジル、 オクラ、イタリアンパセリなどが植えられ、秋から春にかけては菊菜や小松菜 の種が撒かれる。

 さて、家庭菜園を始めてからというもの。スーパーでプチトマトを買うことが 出来なくなった。家で採れるプチトマトは非常に味が濃くて美味しい上に、いくらでも採れる。 1パックにつけられた値段と味を考えると、売り物のプチトマトにはどうしても手が出なくなるのだ。 冬になり、プチトマトが採れなくなってからでも、夏の収穫の記憶からついつい避けてしまう。 以前農家の人が、お店で野菜が買えない!と言っていたが、この感覚なのだろう。

 ところで、ここ数年我が家の周辺の苗を扱うお店が盛況である。不景気になり、物価も上がり という事に比例しているような気がしてならない。野菜苗の購入が争奪戦になっているのを感じるのだ。 数年前まで5月に入っても入手出来ていたプチトマトの苗が4月で売り切れてしまったりする。 人間、考えることは一緒でちょっとだけ自給自足に走っているのだろう。

 この自給自足、かのロシアでは一般的らしい。ロシアでは菜園付き別荘を「ダーチャ」と呼ぶ。 そして、一説にはこのダーチャがロシアの飢えを救っているらしい。 ロシア語通訳の故米原万理さんによると、エリツィン夫人はダーチャの野菜が夫の海外訪問に 付き添うより大事だったとか。胡瓜が心配だから一緒に行かないと決めたらしい。 ロシア人が真剣に取り組む家庭菜園。夫よりも野菜!国家よりも野菜! とにかく、自給率を上げているとまで言われる「ダーチャ」なのだ。 という訳で、家庭菜園はもしかすると食料難が来た時に、凄い威力を発揮するかもしれないのだ。

 さて、この私。日本の自給率の低下を嘆き、小さな一歩からと思い、ここ数年 わけぎの球根を知人に配っている。球根は植えれば普通よほどの事がない限り、芽が出てくるので非常に育て易い。 緑化と自給率の上昇にどれぐらい貢献できているのかはまあ、謎だが、人の楽しみはどうやら 生み出せているらしい。

 昨年、「これを植えたら何が出てくるんだっけ?」とわざわざ電話をしてきた人がいた。
「ネギですよ。今日、渡すときに説明したじゃないですか!分からないで持って帰ったんですか?」
というやり取りをした数日後。
「ネギが出て来た!それで、今毎日その成長を見守るのが楽しみになってんねん!今の俺の生きがい みたいになってるわ〜」
この変わりよう。何が出てくるかも知らずに持ち帰った人が今、成長を見守るのが日課になっていると いうではないか!!それは、家庭菜園って人によってはペットにもなるんだと、ちょっと笑えた瞬間だった。

 家計に優しく、緑も増えて、食べておいしく、時にはペットにもなってくれる家庭菜園。 これは、一石二鳥どころの騒ぎではない。という訳で、あなたもチャレンジしてみては?

◆2009.7.27 By なつむ◆

42 ・「インパクトの効果はいかほど?」

 現在、私の会社の自動販売機には「めっちゃ冷えてんで!」というキャッチコピーがドンと書かれた巨大ポップ(商品の宣伝用貼り紙などを指す)が貼られている。言うまでも無く、これは自販機の会社が作ったポップである。何というインパクト。何というフレンドリーさ。友達か!?家族か!?と突っ込みたくなるような「冷えてんで」である。
全国展開している会社のポップなのだが、恐らくこれは関西限定のコピーだろう。何だかなぁ。。。と眺めているうちに「関西ならではの何だかなぁ」に思わず思いを馳せてしまった。

 今は亡き中島らも。コピーライターでもあった彼は普通の関西人が放つポップが良く目についていたらしい。彼は自分のエッセイでインパクトのある店頭の貼り紙をいくつか紹介している。
たとえば、町のたこ焼き屋さんのポップ。「一船500円。どや!」どや!これは実に端的、フレンドリーな表現、単刀直入、そして「押し」と「問いかけ」をこの2文字に集約するという離れ業まで成功させた奇跡的なキャッチコピーである。

 また、悩みの後が見える貼り紙もある。関西名物の一つ、イカ焼屋。その店先にあった貼り紙は「シングル、ダブル、サンブル」・・・サンブル・・・3ブル???
 1、2までは分かったのだろうが、3の場合どう変化するのか分からず、「ダブルの次やから3ブルや!」となったのだろう。流石である。見切り発車OK!である。

 その他にも、関西にはワンダーエリアというのがある。私の知るワンダーエリアの洋服屋さんの店頭には、「ずるけないネッカチ」という貼り紙がある。翻訳すると「首から滑り落ちないスカーフ(ネッカチーフ)」である。このワンダーエリア内のしゃべり言葉(推定)「ずるける」をそのまま表現するセンス。流石である。
 またこのワンダーエリアには子供を恐怖に陥れる店もある。それは歴史のありすぎる漢方薬屋さんだ。この店先には物凄く古い人体模型(もちろん体の半分は体の中が見える構造)と訳の分からない絵が飾ってあった。人体模型は誇りだらけでいつ作られたのか分からないし、絵は子供にとって地獄絵図のようだった。土壁を爪でひっかき食べている子供。その横に筆で書かれた病名・・・その名前は忘れたが、この絵はいくつも異常行動に出ている子供が描かれていて、奇病一覧!みたいなパネルだった。壁を食べる病気って何?どうなるとこうなっちゃうの?当時小学生だった私には理解不可能だ!と初めてみた時に思ったが、大人になった今も残念ながらこの絵は謎のままである。 壁を食べる病気って何病ですか??
 他にも、耳の病気だの、何だか分からない病気が沢山あったが、あまりの気持ち悪さに記憶から抹殺した。というより、怖くて他の絵は直視出来なかったのだ。単純に考えて、この店頭はお客に「おどし」をかけていた。そして、この「おどし」と店の古さが「治す」というより「ここに居たら変な病気になっちゃうかも」という恐怖を生み出していた。今もこの店があるのかどうかは知らない。しかし、インパクトの強さでは私の中のナンバー1に未だ君臨している。

 ところで、大阪は立体物を使った宣伝も多い。道頓堀のカニ、ふぐ、すっぽんなど色々な立体物が店先に置かれている。まあ、繁華街での立体物はまだ効果もあるだろうと思うのだが、私は意図が全く分からない立体物を毎日目にしている。
 通勤電車から外を見ていると、かならず見えるビルの上。古いタイプの黒電話の受話器を取る瞬間を表現したらしい青い背広の腕がある。ビルの上から突然巨大な腕がにゅっと出ているのだ。ビルの上に黒電話。そしてその受話器を握ろうとする男性の腕。これは一体何を宣伝しているのか・・・さっぱり分からない。気持ち悪さだけがそこには残る。また、パチンコ屋の看板に、壁を突き破る自動車という立体物があった。当たりを表現したのだろうが、かけ離れすぎていて、これもまた訳がわからない。
 先の立体物ほどではないが、私には全く謎なパチンコ屋がもう一軒ある。名前は「ヴェニス」。ヴェニスはイタリアのはずだが、入り口にはめ込みになっているステンドグラスは何故か天女である・・・

 とまあ、大阪では強烈な印象を残すキャッチコピー、もしくは物体に出くわすことが多々ある。ここまで読んでもらった方にはご理解頂けると思うが、それは「どうでもよく個性的」なのである。
 何を意図してそれをつけたのか。それも謎だが、その強烈なインパクトが売れ行きにどの程度貢献しているのかが私にとっては一番の謎なのである。

◆2009.8.6 By なつむ◆


43 ・「展示室という時の止まった部屋の中で」

 海外に行くと、良く「博物館」に足を運ぶ。
先日映画「ナイト・ミュージアム」を見ながら、NY自然史博物館の事を思い出していたのだが、「博物館」の展示物を見るとお国柄を感じさせられる。

 まず、日本の博物館。上野の科学博物館は私のお気に入りの一つであるが、ここにはハチ公物語の忠犬ハチ公と南極物語のタロー&ジローの剥製があるのをご存知だろうか?
剥製というが元来好きでない私にとって、この3体の剥製は衝撃だった。まさか、こんな形で残されているとは!である。
 科博で見事だと思うのは、最上階に置かれているからくり時計。実際に動くことは無いが、動かしている映像を見ると何という技術力だろうと驚かされる。科博には恐竜の骨の展示もあり、古代動物のマネキンというか巨大フィギュアも置いているのだが、基本的に日本には無い物を輸入した、もしくは資料をもとに器用に復元した物が多く感じられる。日本らしい展示物と言えるだろう。

 英国自然史博物館で私が印象に残っているのは、不思議の国のアリスに出てくる絶滅した鳥「ドードー」の剥製である。アリスが無意識のうちに乗っていた鳥だ。本当にいたんだ!と驚いたのだが、流石イギリス。ちゃんと残していたか!と思った。
 ところで、イギリスはなかなか血なまぐさい国で、エリザベス一世の頃、処刑といえば斧で首を落としていた。歴史的に首を取る傾向にあるのかもしれないが、ここの鳥類の展示は何と首だけ!というのが非常に多く、首の剥製を壁一面に陳列されたのを見て、流石英国怖すぎると思ったものだ。
 そして、何といっても大英博物館。ギリシャ、エジプト、中近東を扱ったエリアに行くと、これは国家的大泥棒だったりして?とあまりの「ごっそり移動しました」状態に疑問だらけになってしまう。英国にあったから今も残っている、とも言えるのだが、その所蔵品の量と質を見ていると、うーん・・・と考えてしまうのだ。

 そしてアメリカ、ニューヨーク。大富豪カーネギーが恐竜の発掘に力を入れていた事も影響してか、恐竜の化石の充実度は素晴らしいものだったのだが、展示物を見ているとどこにおいてもアメリカの資金力を感じずにはいられない。自然史博物館、メトロポリタンその他もろもろ、私の勝手な感覚かもしれないが、何だかNYの展示品はどれもオークションの臭いがした。

 面白いと思ったのは、プラハの博物館。何とマンモスの剥製が置かれていた。マンモスといえば、ロシアで自然に冷凍保存されているものが出てくる。恐らくソ連侵攻当時の置き土産?なのだろう。マンモスか!!!と驚愕したのを覚えている。
そしてこの時、多数の剥製が展示されており、展示室はやけに空いていた。というより人が居なかった。一緒に行った友人は気持ち悪いから見ないと言うので、一人で剥製を見て周ったのだが、一つ発見があった。鳥類、爬虫類などはまだ普通に見て周れたのだが、霊長類エリアはどうしてもダメだった。私のDNAが勝手に作動したとしか思えない。猿はダメなんだ!!と己の反応に驚いた出来事だった。人間に近い動物は耐えられない。そんなことってあるんだと自分で自分が不思議になった。

 とまあ、挙げれば切りが無いのだが、どの展示室に行っても必ず思うことがある。特に剥製を見ていて思うのは、自分の死後、まさかこんな形で、こんな場所で、人目にさらされ続けるなんて、彼らは思ってなかったろう、という事である。
もし自分が死後、例えば頭蓋骨などがこんな風に展示室で展示されていたとしたら。死後は無の世界で本人の知るところでは無いにしても、こんなはずじゃなかったんだけどなぁ・・・と思い続けるに違いない。大英博物館の猫のミイラも、上野のハチ公も、英国のドードーも、こんなはずじゃなかったのに・・・とぼやいているに違いないと思わないではいられないのである。

◆2009.9.6 By なつむ◆

44 ・「備えあれば憂いなし?」

 少し前にらくだ年の女(愛すべき日々、vol.2参照)な友達がこう言った。
「ヨーロッパのおばあちゃんみたいに、私も60になってもハイヒールが似合うおばあちゃんになるの!」
そう思った彼女は、スポーツクラブに行き、筋肉がほとんど無いという現実に直面したらしく、プールでウォーキングというトレーニングを始めた。(バラしてごめん!ってこれ私信。笑)

 言うまでもなく我々は生まれた時から死ぬ時まで親からもらった体一つで生きている。まあ、臓器移植とか再生医療もあるが、基本的には最初から授けられた物で生きている。
という訳で、歳を重ねる度に人間メンテが必要になってくる。自分が持っているものを、いかに長く使えるようにしていくか。これを考え始めたら、まあそれなりに歳を重ねてしまったと考えて良いと思うのだが、私自身以前にも増して現状維持を考えるようになってきた。周囲からのブーイングを恐れず白状すると、自分より年長の人たちに囲まれて生活しているので、今のうちからちゃんとしとかなきゃ!という思いが強くなるのだ。

 まず歯のメンテ。体質的に虫歯になりやすい私は、予防歯科に通い定期健診を欠かさない。以前は3ヶ月に1度、最近は半年に一度、歯のチェックとクリーニングに出向く。そのお陰で、検診を担当する歯科衛生士と会うばかりで、歯医者さんには数年会っていない。つまり治療には至っていないのだ。
 朝昼晩と歯磨きをし、夜の歯磨きには形の違う歯ブラシを3本使い、フロスも使う。ここまでしていて虫歯になったら号泣だが、今のところ悪くなる様子は無い。人間食べることは大事だし、私は食べ好きだし、自分の歯で一生過ごせたらという、趣味と実益を兼ねた?努力である。慣れてしまうと、ルミデントもフロスも面倒ではなくなる。ついでにフッ素の入ったうがい薬を毎日使うという、仕上げまである。

 次に重要なのは足。人間の足の耐用年数は60年といわれているのをご存知だろうか?先日テレビで聞いてびっくりした。という事は、還暦を越えて歩けている人は凄いという事である。
 私はハイヒールが履けるおばあちゃんを目指していないが、というより今でもハイヒールを履いていないのだが、とにかく長持ちさせるには筋力が必要である事は間違いない。という訳で、時々思い出したように筋トレをする。継続しなければ意味がないのだが、これは時々途切れてしまう。でも、日々その必要性を感じて疲れ過ぎていない日には実践する。

 そして今私が気になっているのは首。というより、心配の域に達している。時折私が襲われる頭痛。その理由の大部分は首にあると思われる。以前整形外科に行った時、先生から首を曲げてみろと言われ、「普通はここまで曲がらないんだよ」と言われた。つまり・・・成人しているのに、首がすわっていない!!赤ん坊じゃないのに!!!という衝撃の事実であった。
関節が柔らかすぎるらしい。故に頭の重みに弱く(頭が弱いのでは無い)頭痛が起こる。とにかく首の筋力が必要だという整形外科医の助言を受けた。
簡単な首の筋肉を鍛える運動を教えてもらったのだが、それに加え効果がありそうなもの。それが何を隠そう、ラジオ体操!である。子供の頃、ラジオ体操なんて何の意味があるんだろう?と思うぐらい軽い運動だったのだが、大人になった今やってみて頂きたい。ラジオ体操第一を一通りすると、肩から上、上半身に結構くる事が分かる。肩こりも解消される気分になる勢いだ。何でも、肩こり腰痛予防になるらしい。そして、怖いのが動作ごとに関節が鳴る事・・・運動不足過ぎるだろうと自分に思わず突っ込みを入れてしまう。 最近ではダイエット効果も話題になっているが、子供の頃から良く知る体操であり、手軽に出来るので、忘れかけている第二体操を復習して続けて、第一、第二、セットで毎日続けて行きたいと今は(笑)思っている。

 人間、長年生きていると重力に攻撃され、代謝も鈍くなり、体力は低下してくるのにメンテは増えてくる。ある年齢に達している人の肌がキレイだったり、スリムだったりするのは、何もしてないと本人が言っても、体質だけでなく努力がプラスされていると思われる。
「備えあれば憂いなし」という言葉があるが、とりあえず一日でも長く自分の足で歩けて、美味しく料理が食べられて、快適に過ごせるように地道な努力を続けていこうと思う今日この頃なのである。

◆2009.10.11 By なつむ◆

45 ・「おそらくそれは収穫の時」

正確には覚えていませんが、以前マニュエル・ルグリがこんな事を言っていました。テクニックと理解は反比例すると。テクニックと表現力が非常に良いバランスでいる時間は短いとも話していたと思います。若い頃の方が体は動くけど、年を重ねる毎に体力は落ちて理解は深まっていく。

この言葉はレベルはどうであれ、体を使って表現する芸術に携わっている人全てに実感を伴う言葉なのではないでしょうか。
私がピアノを始めたのは6歳の時。大学でも音楽を専攻し、卒業するまでピアノを日々弾いていました。とあるピアノ科の大学教授は、テクニックが伸びるのは19歳までと断言していました。それが真実だとすると、ピアニストの技術的成長のピークは二十歳前後で、それ以降は維持以外どうしようもないという事になります。

現在私がピアノを弾くのは、子供の頃から習っていた恩師の発表会に出る時だけ。年に1回、1、2ヶ月程度練習をする時期がやってきます。いつも不思議になるのは、長い長いブランクがあるにもかかわらず、指が動かない事は無いという事。毎回、今年こそダメになっているかもしれないと思いながら鍵盤に向うのですが、譜読みも、指の動きも、特に問題を感じる事態に陥ったことはありません。ただ、確実に筋力の衰えは感じます。個々の指の筋肉、ペダルを踏む筋肉、手のひら、二の腕、全ての筋力の衰えを感じていきます。故に長時間の練習が厳しくなっているのです。

しかし、年を追う毎に進化していくのは自分の音を聞く能力です。いまや受験も試験も無い、選曲も自由な中での練習ですから、自分が弾きたいと思った曲を自分の解釈で弾いていくわけです。ここではこういう音が欲しい、この音は何を語り掛けたいのだろうかと考えながら、そしてはっきりとしたビジョンを持って演奏を続けて行くのです。
同じフレーズを2度繰り返す、という事は良くある事ですが何故繰り返すのか。それは何を意味するのか、どんな解釈を私はするのか。音の重なりの中で自分が欲しいのはどの音なのか。どんな音色がこの曲にはあっているのか。それを楽しみながら弾いていく訳です。
確かに今、筋力を取り戻さない状態でリスト、ラフマニノフ、ショパンの大曲などを弾けといわれるとテクニック的にかなり厳しい状態に追い込まれるでしょうから、明らかに「衰え」ていると思いますが、「音を味わう」能力は格段に伸びているように感じます。ルグリが言うように、私ぐらいのピアノ弾きでも、テクニックと理解の反比例が生じているのです。

子供の頃、弾いてみたいと思う曲は、簡単に言えば難しくて派手な曲でした。学生の頃も大曲と言われる曲が弾きたいと思ったものです。でも今、弾こうと思う曲は味わいのある曲。自分も人も楽しめる曲を求めて、何となく日々アンテナをはっています。そして自分が生み出す音を聴きながら、自分はこんな風に感じてるのかとか、自分の想いを10本の指が表現していくことの不思議を楽しむ「時」が訪れるのです。
大学の頃の友人の多くは、ピアノを弾かなくなってしまったと言いますが、今こそ楽しめる収穫の時期でもあるのに、勿体無い。こんなに贅沢なものを手放してしまったとは。

今ピアノを弾くと、学生の頃には見えなかったものが見えて来ます。それは私が学生の頃、未熟すぎたから見えてなかったのかもしれませんが、年を重ねてこそ見える風景というのは確実に存在しているように思います。そして、全身を使ってピアノを弾いていると、子供の頃からはじめてこそ出来る事だという実感を持ち、何て贅沢なのだろうとも思います。

時折、ふと思い出すのは、キリアンがダンサーの年齢に合わせた作品を作ると言って作ったNDT3。ダンサーの寿命は短いと思われている中、このカンパニーは40歳以上のダンサーで構成されていました。

今その時だからこそ表現できるものが確実に存在します。それは「若さ」にだけ存在するものではありません。
脳の研究者が、新しいものを記憶するのは若者が優れているが、記憶と記憶を繋いでいく能力、応用能力は30歳を過ぎると飛躍的に伸びると話していました。今を味わう。音楽を楽しむ。そして今が私の中ではおそらく音楽的には収穫の時のような気がします。
自分の音が聞える。自分を音を味わう。自分の音楽を構築する。音楽を奏でることが出来る事に感謝する。その時をもっと味わうために、細々とですが、これからも長くピアノを弾いて行きたいと思います。

◆2011.7.10  By なつむ◆

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