The Car Man Review vol.2

By Natsumu


The Old Vic Theatre 2000,October


マシュー・ボーンとAMPに架せられた二つの課題。一つはダンスカンパニーとしてのAMPの成長。もう一つはクラッシックバレエの名作を上手くリメイクしてばかりいると言われる事からの脱出である。

AMPの作品、特に白鳥を語る時、我々は「アダムの白鳥」「アダムの黒鳥」と幾度となく口にしてきた。
もちろん群舞、途中のクラッシックバレエのパロディーなど作品全体を通して「SWAN LAKE」は素晴らしいのだが、どうしてもプリンシパルダンサーばかりに目が行き、彼らの魅力にため息をつき、夢中にさせられるのである。

主役に魅了されるというのはロイヤルバレエ団やパリオペラ座バレエ団などのクラッシックバレエを観に行った時にも同様であり、それがバレエであれミュージカルであれ、オペラであっても必要不可欠な事である。
しかしAMPの場合この主役が注目を集めすぎるというのが最近の問題になっていたと思う。
特に「SWAN LAKE」イコール「アダム・クーパー」という図式が出来上がっているのは私に限った事ではないだろう。

白鳥の成功の後、繰り返しマシュー・ボーンは「なぜプリンシパルダンサーを外部から連れてくるのか」と聞かれていた。
アダム・クーパー、サラ・ウィルドー、フィオナ・チャドウィック、リン・シーモアと、主役はAMPのダンサーも踊ってはいるが、オリジナルキャストは元、そして現役のロイヤルバレエのプリンシパルが務めるというのが「SWAN LAKE」それに続く「Cinderella」の共通点だった。
完成された人を連れてくればいいものが出来るという事を言われた事もあったに違いないし、彼らの力がAMPの成功には必要だと言われる事もあっただろう。
AMPがカンパニーとして更に成長していく上では、どうしても自分たちのカンパニー、AMPのダンサーだけでも見せられるという事を証明しなければならなかったのだと思う。

今回の舞台にアダム・クーパーの姿はない。そして、プログラムにあるAMPの今までの作品紹介の写真からも、オリジナルキャストであるにも関らず、外部からよばれたダンサー達の写真は一枚も使われていない。そこからは決意のようなものを感じる。
それはゲスト・プリンシパルへの決別を意味するというより、自分たちだけでやって行こうと思っているという意思表示と、AMPでダンサーとしての人生をスタートさせた若手がプリンシパルとしてやっていけるところまで育って来たという自信の表れであると思う。
現にウィリアム・ケンプを筆頭に、AMPには主役を演じられるダンサー達が着々と育ってきている。
振付家として、ダンスカンパニーとしてマシュー・ボーンとAMPが認められるには、AMPダンサーだけで公演を成功させるという事が必要なのであり、今回の公演ではそれを強く求められていたのだと私は思う。

次に、クラッシックバレエの名作のリメイクからの脱出である。
今まで一部の批評家は、「マシュー・ボーンはクラッシックバレエの名作ばかりをリメイクしているのだから成功するのは当たり前」と言いきってきた。
実際最近のAMP作品は「くるみ割り」「ラ・シルフィード」「白鳥の湖」「シンデレラ」とクラッシック・バレエの名作をベースにしたものが続いていた。以前は完全なオリジナル作品を作っていたのだが、彼らに世間が注目し始めたのは、「くるみ割り」あたりからであるのは事実である。
もちろん私はマシュー・ボーンの作品はただのリメイクではなく、全く新しい作品として成り立っていると思っているが、自分の独創性を認めさせる為には、ここでバレエの名作をベースにする事から一度外に出てみる必要があるとマシューは感じていたのではないだろうか。

マシューが作品を作る時の出発点はとにかく音楽が気に入る所から始まるらしいので、たまたま今回は『カルメン』だっただけかもしれないが、私にはあえてバレエの名作を避け、今回はオペラの名作を選んだような気がする。
もちろんご存知のように『カルメン』は既に何度もバレエになっている。しかし、マシュー・ボーンの生みだした「The Car Man」の物語は、今までのバレエ『カルメン』がオペラをベースにしてきたのとは全く違い、独自の物語を展開していく。

今までにない、露骨なセックス描写にたじろぐ人もいるかもしれない。しかし、そこには『欲望という名の電車』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』といった物語と同じ匂いのようなものがあり、この物語を語る上でそれは必要不可欠なものである。

今までの作品も多分に演劇的であったのだが、更に「The Car Man」はドラマティックになっている。
人間の欲望、色々な愛の形、そして小さなコミュニティーの持つ閉鎖性、窒息感をマシュー・ボーンは観客に見せていく。

息をのむ展開、そして時々その緊張をほぐしてくれるウィット。自分のやりたい事は出来るだけ折り込んでいるが、物語が破綻をきたす事はないようにうまくすりぬけ、自分らしらを出した上で、全く新しい作品を生みだす事に成功していると私は思う。
ここにはもう、クラッシックバレエの名作のリメイク作品と言われる要素は存在していないだろう。まだまだ改善すべき所はあるだろうが、今の時点で彼はこの二つの課題をクリアーしたのではないだろうか。

最後に、ダンサー達について触れておきたい。
今回私が観た日は二回とも主役のルカはアラン・ビンセントだった。彼がこれほど重要な役を演じるようになるとは正直なところ思っていなかったのだが、正しくはまり役ではないだろうか。
ルカの魅力は洗練されたダンディズムではなく、筋肉で盛り上がった腕、けんかに強く汗が良く似あうタフガイぶりである。どこか垢抜けていないが、そのワイルドさとストレートな感情表現、そしてそこに潜む危険な香りのする狡さにラナもアンジェロもまいってしまう。
そんなルカを、アラン・ビンセントはオーダーメイドで誂えた服のように、自然に自由に纏っている。
他のキャスティングのルカを観ていないので、私のルカのイメージは彼で固められてしまっているが、とにかくマシューの考えるキャラクターに彼はフィットしていると思う。

さて、もう一人の主役。ラナであるが、一日はミカエラ・メッツァ、もう一日はサラーネ・カーティンだった。
メッツァとカーティンを比べると、メッツァの方が若いラナという印象を受ける。二人とも観客に魅力をふりまき、充分にその魅力と実力をアピールしている。
メッツァのラナは若いが故にディノにうんざりし、そこから連れ出してくれるルカと真剣に恋に落ち、つっぱしっていくという印象を受ける。カーティンのラナからは、もう少し落ち着いた女性を感じ、罪悪感から自暴自棄になるルカとの関係を修復しようとする深い愛情を感じる。
ラストで結局男と女、どっちが怖くて強いかというと女だと言っているように感じたのだが、より女の強さのようなものを感じたのはカーティンのラナだった。

そのラナの夫で冴えない中年男ディノだが、初日はニール・ペリントン、二日目はスコット・アンブラーだった。両人ともディノをコミカルに上手く演じていたが、やはりスコットのディノが印象深い。
スコットはやることなすこと派手で、存在そのものがユーモラスに私には感じられる。舞台の上の彼は生き生きと楽しげに演じている。血のりの量も他の人より多いのではないだろうか。
途中のマーサー・グラハムのパロディーシーンでバックダンサーとして出てくるのだが、その時もあの大きな目をぎょろぎょろさせて、観客の笑いを誘っていた。

さて、注目のアンジェロ。初日はウィリアム・ケンプ、二日目はアーサー・ピタだった。
ウィルのアンジェロは母性本能をくすぐる、本当にかわいい男の子。彼が困っているとこっちの胸も痛む。彼には出てくるだけで観客の目を引き付けるオーラのようなものがある。
一方アーサーのアンジェロはとてもナチュラルだ。弱々しさも、傷ついた心も上手く表現し、物語の展開に説得力を与えている。

最後にラナの妹でアンジェロの恋人のリタ。初日はヘザー・ハーベンスで、二日目はエタ・マーフィット。
ヘザーとウィルのカップルは初々しさが漂い、ヘザーのリタはとても優しく、母性なようなものも感じさせる。一方エタのリタは少し落ち着いた感じでアンジェロを包み込む、あたたかで大きな包容力を感じさせた。
役は違うが、エタのマーサー・グラハムは、長年共に踊っているスコットとの絶妙な掛け合いも相まって、最高の出来だった。

今あげた主役達の他にも、注目すべきダンサーはまだまだ沢山いる。これから主役をはれるようになる予備軍も沢山いるだろう。

今回ウィリアムのルカが観られなかったのが少し心残りだが、とてもいいキャスティングだったと思う。
各々が各役柄にぴったりフィットしている。無理をしているダンサーは一人もなく、のびのびと全員が演じきっている。満足のいく舞台だった。

であるが、それ故にまた別のキャスティングも観てみたくなる訳で、何度も劇場に足を運びたくなるという、なかなか観客の心を揺すぶってくれる心憎い作品である。


◆◇◆上の写真は、The Old Vic Theatreです(著者撮影)◆◇◆


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