・ Report By Natsumu・

26 Augst 2006 @Tokyo in Japan


 『エドワード・シザーハンズ』はマシュー作品の中で、少し異質な作品である。

 振付家マシュー・ボーンが映画から多大な影響を受けており、彼の作品は映画からインスピレーションを受けたものが数多くみられるのは言うまでもない。
例えば、『Cinderella』は第2次世界大戦を題材にした映画『天国への階段』、 『Play Without Words』は『召使』にそのルーツがある。また、『The Car Man』は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』や『ウェストサイド物語』を彷佛とさせるシーンが多数出て来るし、それどころか彼が世に出る事となったカンパニーの名前自体「Adventures in Motion Pictures」だった事からも分かるように、とにかく彼の作品は映画とは切っても切れない関係にある。

 がしかし、今回の『シザーハンズ』は今までの作品とは一線を隔している。本作は映画からインスピレーションを受けたものではなく、映画を舞台化するという、今までとは違うスタンスで作られているのである。

 マシュー個人の仕事で見ていけば、ミュージカル「マイフェアレディー」や「メリーポピンズ」も映画として有名なミュージカルの舞台化に携わっているので、映画作品を舞台化するのは初の試み、と言われてもピンと来ない人もいるかもしれないが、依頼を受けての作品ではなく、マシュー本人が望み彼のカンパニーが演じるという点においては、初の映画とイコールで結べる作品となったのである。つまり、今までは「オリジナル作品」だったのが、今回は「原作付の作品」というう事になる。

 さて、映画『シザーハンズ』といえば、悲しいおとぎ話しのようなオープニング。そして、ジョニー・デップ演じるエドワードのピュアでセンシティブな心が実に印象的な作品だった。ティム・バートン特有のダークな映像美も冴えていて、映画『ビートルジュース』が気に入っていた私にとっては、ティム・バートン好きを明言するきっかけとなる作品となった。エドワードを演じたジョニー・デップが好きになったのもこの映画がきっかけだったと思う。
 ハリウッド映画なので、舞台となる場所は単純に考えてアメリカのとある田舎の街なのだが、彼の生み出す世界はティム・ワールドとしか言い様のないような、少々現実離れした無国籍感というか、現実と御伽噺の曖昧な空気が漂っている。そして、彼の作品を観る度に感じるのは、淡い恋心が出てくる事もあるが、基本的にセクシャルなものにはどうやら余り関心がないとしか思えないという事である。
『ビートルジュース』は幽霊になった夫婦と孤独な女の子の友情。『エドウッド』にしても、女装趣味の監督ではあったが、中心となるのは年老いた俳優と監督との友情だったし、最新作『チャーリーとチョコレート工場』にしても、メインになるのは家族愛である。そして主人公はいつもマイノリティで、孤独を抱えている。
 マシュー・ボーンとティムの作品を考える時、共通点といえば、この「主人公がマイノリティ」で「孤独を抱えている」という事になるだろう。しかし、それ以外では共通点といえる所は余り見出せない。という訳で、一体どんな作品になっているのか、非常に興味を覚えながら、この目で観る時を迎えた。

 私が観たのは8月26日のマチネとソワレ。マチネはリチャード・ウィンザー、ソワレはサム・アーチャーがエドワードを演じた。26日のマチネは、キムのボーイフレンド役のジェームズ・リースが体調不良で、途中からアダム・ガルブレイスに変わり、それに伴い他のキャストもメンバーチェンジを起こすなど色々あったが、とにかく。私の席が前方すぎて見えなくていい物まで見えてしまったという事も影響していると思われるが、リチャードのエドワードは残念ながら冴えてるとは言えず、つなぎが非常に悪い舞台に感じられた。翌日27日の舞台でリチャードを観た友人によると、26日とは別人だったという事なので、私が観たリチャードについては、本調子でなかったようだとだけ言っておこう。
 という訳で、サムがエドワードを演じた舞台をもとにこの作品について語っていきたいと思う。

 まず、オープニング。エドワードというハサミ好きな子供が表で遊んでいて雷に打たれて死んでしまい、その親である発明家が自分の息子を蘇らせ、エドワード・シザーハンズが誕生したという映画では確か無かった説明のつけかたが、何だかとてもマシューらしい。ある所に発明家が居て、そのおじいさんがピノキオのようにシザーハンズをつくったというのではなく、きちんとした説明がなされているのが非常にイギリス人的だと感じさせられる。
 エドワードの葬儀のシーンは非常に映画的で美しく、レズの舞台は色々観てきたが、このシーンはまた新たな世界観に感じられる。ハロウィンの夜に街の悪ガキたちが、エドワード・シザーハンズを誕生させた発明家の家に忍び込み、発明家を驚かせ結局死に至らしめてしまう所から物語は始まる。
 映画でいくと、遠い記憶になっているが、確か発明家は高齢だった為自然死を迎え、一人残されたエドワードが途方に暮れている時に、ヒロインの母親であるペグ・ボックズが化粧品のセールスレディーとして偶然その館を訪れ、困っているエドワードをひろって家に連れ帰るというのが事の起こりとなっている。
 という訳で、映画と比べるとマシュー版は暴力的な死を取っている。そして、困ったエドワードは自ら街に下りて来て、ゴミ箱の中味を見ている時にペグにひろわれるのである。

 この街の人々は非常にアメリカっぽい。というより、イメージの中のアメリカになっている。セットはとある住宅地で、家の中からそれぞれの家族が出て来られるように面白い縮尺になっている。常に新しい物を生み出すレズらしいセットだ。
 登場人物達はいつものように、それぞれに個性的。にもかかわらず、アメリカ人だけに、いつもの饒舌さはない。その中では饒舌に見えたレポーター役のカーカムでさえ、アメリカ的な饒舌さに留まり、心の中までを大いに語っているようには見えない。これは面白い発見だった。
 とにかく、基本的にこの舞台に出て来る人たちは基本的にアメリカ人に見える。映画以上にアメリカが強調され、中にはパロディーに近いところまで持っていかれている部分もある。がしかし、一人だけアメリカ人を演じていても、やっぱりイギリス人だった男が居た。ヒロインの父、ビルを演じるスコット・アンブラーである。役になりきれていないというのとは全く別の次元で、彼はしっかりビルになっていながら、自分のテイストを全く損なわず、魅力的な演技で妻役のエタと素晴らしいコンビネーションを見せてくれた。そして、とにかくスコットテイスト=イギリス人なのだ。彼は物語で浮く事なく、イギリス人のままアメリカの街に住んでいた。
 さて、エドワードを演じるサムである。そういえば、映画でもエドワードは一言も言葉を発しなかった記憶あるが、サムもジョーニー・デップと同じく言葉は無くてもその動き、佇まいで我々の心の中にするりと入ってくる。彼にかかると両手のハサミは彼の手とイコールとなり、ハサミの先までもが、彼の感情を表すものとなる。ペグに傷付いた顔を手当してもらう、ボッグズ家との出会いのシーンで既に観客はエドワードというキャラクターの持つかわいらしさと、彼のかわいそうな境遇にハートをぎゅっと掴まれてしまうのである。

 饒舌でない人々、やさしいボッグズ家。非常に口当たりの良い物語が次々に展開していく。マシュー作品の中に一人や二人出て来る、神経がちょっと普通のありようと違うというか、偏執狂というか、とにかくある意味心が少々病んでいる人というのは今回居ない。見た目が変わっているといえば、ゴシック好きな雰囲気漂うエヴァークリーチ家ぐらいだが、しかし彼等は実害を及ぼす事なくマシューらしい登場人物が居る、ぐらいに留まっている。
 マシュー作品の大きな特色の一つであるセクシャルな部分は、ボッグズ家の隣の奥さん、ミケーラ・メッツァ演じるジョイス・モンローが一人で担当しているに留まり、いつものテイストは非常に薄い。プールサイドでオイルを塗りあう人々のシーンにはマシューテイストが感じられるが、とにかく、年齢制限の必要性が感じられるようなシーンは無い。
 上手く出来ていると思わされるのは、エドワードがハサミを使ってトピアリーを独創的な形にカットしていくシーン。非常に上手く再現されている。そして、ヒロインであるキムと切なくも美しい、トピアリーの国でのダンスシーン。このシーンは実に幻想的で印象深い。両手のハサミがこの国では消え去り、両手に愛しい人を抱く事が出来る。ここでまた、観客はエドワードの境遇に胸を痛める事になる。

 2幕ではエドワードのハサミ技が披露される。床屋になったエドワードである。そして、ハロウィンから始まった話しはいつの間にかクリスマスへ。氷でキムの像を作るエドワード。このこのクリスマスのダンスシーンンが非常に美しく、かつ切ない。エドワードの両手はハサミで出来ているが故に、キムをしっかりと抱きしめる事が出来ない。このシーンを見ながら、両手が翼であるが故に、しっかりと王子を抱きしめられないもどかしさを感じていたThe Swanを連想したのは私だけではないだろう。

 続くクリスマスパーティーのダンスシーンは非常に楽しく出来ている。スコットとエタが演じるボッグズ夫妻のダンスから目が離せない。そして、サム演じるエドワードのステップも素晴らしい。だが、いつものマシューのダンスシーンのように、誰かが何処かで必ず何かをやっているか分からないから目が離せないというものではなく、今回は全体的なまとまりがあり、非常に良く出来た楽しいダンスシーンで落ち着いて観ていられるものとなっている。
 そんな楽しいパーティーシーンなのだが、アルコールを無理矢理飲まされ、ふらふらになったエドワードが誤ってボッグズ家の男の子、ケビンに怪我をさせてしまった所から悲劇は始まる。結局は子供に怪我をさせてしまった事からボッグズ家の人々から一時的とはいえ拒絶され、フランケンシュタインのように街の人々から追われ、最終的に彼は発明家の息子、エドワードの墓がある墓地に逃げ込む事になってしまう。
 墓地まで彼を追って来た人々にエドワードは取り囲まれ責められる。その結果、彼の肉体は消え去り一丁のハサミになってしまうのである。
 何とも悲しい物語の最後である。そして、この悲しい物語を思い出として回想していた年老いたキムが、舞台の上に現れる。その背後に現れるエドワードの影。そして、物語の幕が閉じられる。

 この終盤のエドワードが非常に切ない。最後に出て来る影ですら、涙を誘われる。何故発明家は両手をハサミにしてしまったのか、本気で彼を恨んでしまいそうなほど、エドワードは観客の心をつかんでいくのである。

 全体を通して感じた事。それは、この作品が非常に多くの人、広い層に受け入れられるだろうという事だった。マシューの真骨頂は『Play without Words』といった大人の心理劇だという人には少々期待外れの作品かもしれない。全体に尖った所はなく、強烈な悪意もなく、セクシャリティを問う所もない。しかし、『シザーハンズ』を観て涙する人は多いだろう。本作を観て、劇場に足を運んで本当に良かったと思う人は多いだろう。

 『シザーハンズ』は46歳という年齢になり、世界的にも認められ、トレバー・ナンといったヒットメーカーと仕事をしたマシュー・ボーンだからこそ出来た舞台と言えるのではないだろうか。
 いい意味で力が抜けている。いい意味で万人受けする作品となっている。そして他のカンパニーが踊っても楽しめるに違いない、良く練られたダンスシーンが多数登場する。  沢山の人が楽しめるファミリーエンターテイメント、とも言える『シザーハンズ』は、ある意味マシューの新境地と言えるのではないだろうか。

 次の作品は、『Play Without Words』のような少人数の作品を考えていると聞いている。観る人を選ばない優れた作品と、アート系の映画のように観る人を選ぶ個性的で魅力的な作品。これからはこの2つの間を彼は行き来していくような気がする。
 Adventures in Motion Picturesを立ち上げた頃に感じていたであろう、様々な思い、枷のようなものから解放されたであろう現在。今後彼がどんな作品を生み出していくのか。マシュー・ボーンはこう変化していくのかと、次回作でも思える事を期待している。


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