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メモ帳 -- 抄録、覚え (その14)



長慶寺

奈良市法蓮町に長慶寺というお寺がある。大阪平野の大念仏寺を総本山とする融通念仏宗の寺院である。融通念仏宗の寺院数は359とされるが、奈良県内に205、そのうち市内に30の末寺があって(*)、長慶寺はその一つになっている。

過日このお寺を訪ねてみた。門前、階段を上がった中央に大きな石柱が、人を通せんぼするかのように、立っている。

choukeiji
是より境内地
死んだ宗教を活かす長慶寺
神佛となるは生きた人間にかぎる

いきなり妙な気分にさせる告知だ。わが長慶寺のほかは死んだ宗教を祀っている? 生きた人間だけが神佛になる、では死者はどう? 先に進むと寺名を彫ったどっしりした石があり、その後ろにまた石柱がある。

choukeiji
不許楽生不遜死者外入門内
(楽生不遜死者は外、門内に入るを許さず)

楽生には「がくしょう=雅楽を学んだ生徒」という古語もありますが、ここはそれではないでしょうね。のうのうと気楽に生きている人間のこと? 不遜は思いあがった人間でしょうね。それと死者は入るなとは。石柱右隣の高さ1メートルほどの石に碑文が刻まれている。

choukeiji
當山は念佛を唱へる寺でも参る寺でもない活た一切経を教へ南無阿弥陀佛の理智を行ふ寺で正覺解脱の實行道場である・・・病人や信仰狂、遊山の参拝は勿論厭世迷信陋習の人も門前に近寄る事お断り。病気は病院、遊びは公園、信仰狂いは脳病院へ・・・岩窟は勿論山内の拝観も許さず。山主著作の昭和信仰を理解する人へは當寺の差支なき日に拝観を許すことあり。昭和信仰は山主で賈渡志ます。僅か五拾銭で神佛の何たるやの筋合が能くわかり迷信陋習がさめます。・・・山主は冬を羅馬に夏は富山に居られます。御用あらば前日文書で申込下さい・・・

なるほど生きた人間に活きた一切経を教える道場か・・・この解説は痛快でエスプリも効いているが、「病気は病院、遊びは公園、信仰狂いは脳病院へ」はちょっと過激じゃない? 文字をたどるのはいい加減に切り上げて、もう少し進むと如来道宣布の石標と宗憲碑がある。碑の上部はつる草に絡まれて見にくいがどうやら長慶寺建立者の全身像レリーフらしい、その下に漢文と英文で宗憲が刻まれている。

choukeiji

近寄って漢文と英文を読んでみようか。

choukeiji
  宗憲
宇宙萬象即是眞理所
發眞理即神也・・・
・・・
本宗教是理法
    普門長慶

    THE LAW OF OUR SECT
  THE SPIRIT OF OUR SECT
ALL THINGS IN UNIVERS ARE ...
...

  THE DOCTRINE OF OUR SECT
EVERY THING IN THE WORLD HAS ...
...


漢文も読みやすいとは言えないが、下の英文の方はもっと解りにくい。その場での解読はあきらめ、カメラに収めて正面を見る。

choukeiji

もう一度「不許死人入門内」の石標があって、そして両側を「佐保山普門院長慶寺」の石標と「當山主を訪ねん者は前日に申し込むべし 云々」の規定を彫った石柱で挟まれて、山門はしっかりと閉じられている。

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実はこの寺院を知ったのはつい最近、図書館で安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』(奈良新聞社 2011)を見つけたことによる。本文ページ ―― 写真が豊富だ ―― をぱらぱら繰ってたちまち引き入れられてしまった。これは手元に置いてじっくりと読む本だと古書で取り寄せた。B5判315頁のずっしり重い書物である。表紙またタイトルページに「幕末の奈良まちに生まれた奇豪」とのキャプションがある。これまでまったく未知であった𠮷村長慶のこと、また長慶寺のことを詳しく教えられ、こんなに変ちくりんな人物がいたのか、身近にこんなお寺があるのか、どうしてこれまで知らなかったのかと、しばし呆然となった。

この寺は建立されてまだ百年に達しない新しい寺院である。開基したのは𠮷村長慶(幼名:登、1863-1942)で、1923(大正12)年のことだ。彼は市内奈良まちにあった𠮷村家の菩提寺、徳融寺(融通念仏宗大和七大寺の一つ)の寺子屋「魁化沙」で学業をスタートさせ、これが明治6年の新学制で「第三番小学校」になって、そのまま通学した。明治12年の秋、慶應義塾で学ぶため東京へ出る。どうやら義塾は早々に退学し、陽明学に傾倒する一方、憲法制定を論議する政治集会、立憲改進党の設立運動に参加したりしたが、2年足らずで東京生活を終えて奈良に帰郷し、家業の質店経営を手伝いつつ、大阪の北浜の証券取引で財を成した。

よしむら ちょうけい は一般の文献では吉村長慶と記されることが多い。『宇宙菴 𠮷村長慶』巻末の用語解説(p.305)に「𠮷村の字体」として注釈が添えられている:
「𠮷」のかんむりは「士」ではなく「土」を用いる。ただし著作活字印刷物には総て「吉」が使われており、大正後期から銘にも「吉村」と刻んだ石碑が現れる。[中略]長慶晩年のペン字手稿にも「𠮷村/吉村」が混在する。

『畿内遷都』を建議し、また『世界平和論』を著すなど独自の活動を続け、奈良まちではその短躯な身体から「三尺将軍」と親しまれていた。奈良の市会議員を10年ほど勤めた後、衆議院選挙に出馬して落選。翌年また市会議員に当選したが、そのころから次第に宗教的傾向を強めていったようだ。長慶寺建立を発願した理由として、国民思想が日増しに紊乱に向かうのを憂い、神仏の加護によりこれを善導するよりほかに道はないと思うようになったからだと「長慶寺記」(**)に記されている。法徳寺の良忠和尚に師事(***)して僧籍に入る。法蓮村・佐保山のふもとの土地を村の人々の協力を得て買収し、本堂、山門と裏門、石倉、石祠、庫裏などを建設した。

長慶寺の参拝者のために寺内に置いた昭和3年印刷発行、本文20ページの小冊子があった。門前の碑にも記してある「僅か五拾銭」の『昭和の信仰』だ。ほとんど後世に残っていない貴書(奇書?)で、安達氏は国立国会図書館蔵のものによって紹介されている。内容は長慶の信条・信仰を言葉を尽くし、かつ軽妙に説いたもので、自ずと門前の石標や碑文の解説にもなっている。少しだけ引用してみる。
迷信者が望むとはゆへ、神前仏前に病気の全快とか、来る年の開運とか、働かずして金が儲かるやうとかの、御利益を祈祷し御守札を授ける如き間違も甚しい。神官僧侶として神仏を拝むは職務で当然のことであるが、御利益を祈るは筋道が大違ひである。・・・拝まぬ仏に罰当らぬとは昔からの諺。南無阿弥陀仏と念仏や妙法蓮華経と題目を、一体誰に上げているのであるか。真に可笑しいわけである。仏像に上げているとしようか、其仏像は金箔塗りで燦たる光輝は放つも、元々木や金で拵へたもの、紙や絹に描いたものである。こんな仏像に御経を申すも何の答へがあらうか。況や御利益を願ふに於てをやである。南無阿弥陀仏妙法蓮華経は自己の行ひにあるべきである。殊に可笑しきは古き慣習とはゆへ、死人に念佛を上げることである。念佛すめば急ぎて火葬場へ運び、焼きて灰にする所は、心臓の鼓動止まりし骸骨だから・・・この骸骨に西方極楽浄土へ行けというたとて何の答へがあらうか。
なお安達氏の著書タイトル『宇宙菴 𠮷村長慶』の宇宙菴とは、長慶が明治44年に京都嵯峨二尊院門前に布教の居所《宇宙菴》を建て、宇宙教を神道スタイルで祭祀したことによる。安達氏はこのことを以下のように説明する。
奈良時代すでに神官が「仏法に帰依すべし」と宣うまでに神仏習合が及び、天照大神と大日如来が一体化した民間の俗信仰が存在した。そういう神仏習合した民間信仰が、南都奈良まちの人々の宗教観であり、長慶のルーツである。明治政府発足後の皇国思想と廃仏毀釈の反動もあって、以後続々と新宗教が、雨後のタケノコの如く各地に出現したことはよく知られる通りである。その多くが神仏両方に立脚し、軸足の比重が少し違うくらいの差であった。長慶の場合は神仏を混合して一つにしたのではなく、混合したままTPO(時・場所・機会)に応じて適時、軸足を使い分けていた。
-- 安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』(奈良新聞社 2011)
長慶は大正2年伊勢神宮に参拝、日本刀一振りを奉納し神宮廳から「御神号宣下」を受けていて、神道祭祀の資格を有していた。先ほど見た「宗憲」に宇宙萬象即是眞理・・・と記されていたが、長慶にあっては神道も仏教も宇宙の真理に発するのであった。

𠮷村長慶は近世奈良が生んだ奇人変人のおそらく最右翼に位置付けられよう。こんなけったいなお寺の住職はほかにいないだろう。この人物を修飾する枕詞・形容詞を考えてみた。奇人、変人、偏屈、酔狂、粋狂、奇行、奇癖、暴慢、異端、異分子などなどが思い浮かぶ。だが本書で安達氏の与えた《奇豪》がもっともふさわしいか。氏は『奈良まち奇豪列伝』(奈良新聞社 2015)なる書も執筆されていて、そこで「ひと昔まえ、明治・大正の激動期の奈良まちには、眩いばかりの偉大な「変人」、つまり「奇豪」たちが生きていた。人間的には、品性申し分のない偉人もいれば、気難しい人物まで各人各様の個性であるが、「奇豪」と呼ぶべき共通項がある」とされている。

著者の安達氏は1941年の奈良市の生まれとのことだが、1971年ノルウェーに移住。ずっと北欧で地質構造図、都市の鳥瞰図、観光市街地図などを制作する仕事をされているそうだ。ひょっとしたら安達氏も奈良まちの生んだ奇豪の一人ではあるまいか。
* 神社・寺院検索サイト「八百万の神」http://yaokami.jp/ による。
** 長慶寺建立を発願した理由を記す「長慶寺記」による。安達書 p.166
*** 菩提寺である徳融寺の当時の若い住職が「五歳年長で議論好き、奇人の将軍さんを弟子にするのは気が重い」と同じ融通念仏宗の法徳寺(奈良市十輪院町)に振り向けた、との証言あり。安達書 p.156

石人長慶

前項で紹介した長慶寺だが、門前に石碑、石柱など石造物がやたら多いことに気付かれるだろう。𠮷村長慶は生涯に200に及ぶ石像・石造物を残した。石道楽と呼ぶのでは収まりきらないスケールの大きい《石の人》だったのである。

安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』序文にこうある。
江戸時代幕末に生まれ、明治・大正・昭和の激動時代に生きた𠮷村長慶は、生涯二百をくだらない夥しい石の作品を遺した。石灯、狛犬、鳥居、道標、石碑、自像、墓標、多宝塔、磨崖仏、等々を奈良市内県内はもちろん、京都、大阪、高野山に到るまで足跡を残し、各社寺に寄進した。遠く小豆島の寒霞渓、九州中津の耶馬渓に石工を伴って旅し、石碑を彫らせたこともある。夥しい数の石造物はすべて私財を投じて建造した。しかもどれも一癖ある風変わりなデザインが人目を惹く。
長慶は多くの石像に自分の像を刻み自分に似せて髭を生やした大黒天を作らせた。目立ちたがり屋、奇人と世間に言われたが奈良まちの人々には大変愛され「長慶はん」「三尺将軍」と親しまれた。一方で彼の宗教思想《如来道・宇宙教》の教えは、普通の感覚では理解しがたいものであり、既成の仏教界にも新興宗教にも敬遠された。安達氏は「風変わりな石の作品の一つ一つが、実は長慶思想のヴィジュアル化であったといっても過言ではないだろう」として、丹念に一つ一つの石造物を見てゆき、「背後にある氏の思想と照らし合わせて見れば、石造物それぞれに長慶の声を聞くことができる」と、著者はこの破天荒な人間の生涯をたどってゆくのである。

長慶の石像作りが始まるのは日清戦争のころから。はじめは狛犬や石灯籠などを寺社へ奉納している。戦後の好景気を背景に家業も順調、証券相場でも大儲けし、いよいよ石道楽に邁進し始めたようだ。当初は出来合いのものを購入して台座だけ別誂えで作らせた。台座に刻まれた文字は長慶の下書きを元に石工に彫らせている。この石工、新谷信正はその後長慶のほとんどの石像、石碑を制作することになる。

やがて長慶は自らデザインした石像、石柱をまるまる新谷信正に作らせた。奉納した石には初めからいずれにも思いっきり大きく𠮷村長慶の名を刻んだ。余計な遠慮はしないのであった。明治期にはまず石灯を多く作らせている。奇抜な形をした石灯を様々な寺社に奉納したが、極め付きは明治43年の東大寺大仏殿(中門)前、鏡池ほとりの「奉献大佛殿新世界平和」と刻んだもの、これであろう。

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右側の石灯が長慶のものですが、何だかへんな感じがしませんか? 石柱を地面に差し込んだような、あるいは石が地面からにょきと生え出たような。

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妙な印象を受けるのも当然で、実はこれは台石に大砲がついている石灯なのである。その台石が見えない(*)のはなぜか。安達氏の説明を聞こう。
・・・東大寺大仏殿前鏡池に面して、ずんぐり頭でっかちな八幡形と呼ばれる石灯が地中から生えるように出ている。それもそのはず、石灯の台石を貫通するように大砲を象った石筒が地中に埋められたからである。銘記が「𠮷村長」で終わり「慶」が地中に埋もれて見えない。
戦後、米軍が奈良黒髪山と紀寺の旧連隊場跡にベースキャンプを置き、菊水楼が指令本部、奈良ホテルを幹部宿舎に使用し、市内の邸宅を接収して家族で赴任した高級将校に充当した。古都奈良は爆撃を受けなかった代わりに米兵がやたら目につく町になっていたのである。それで東大寺側がジープで見廻る進駐軍に配慮して、“大砲は具合が悪かろう” と自主的に埋めたという。
[中略]
先述したように制作された年代が日露戦争後であったことと大砲は無縁ではない。日清戦争と異なり、日露の戦いは日本が遂行した近代戦争の始まり、戦車と大砲が戦況を決する戦いであった。経費のかかる兵器は日本経済を疲弊させたが、とりあえず勝利した戦争ということで、戦後は巨大無用になった大砲が各地で展示され、中之島府立図書館前に無用になった巨砲を見世物に展示したことがある。・・・憤懣やるかたない石人長慶にアイデアが閃いた。“大砲を踏んづける石灯を造ろう”・・・軍拡に反対する長慶の主張を大砲を素材に視覚化したのが、この「大砲付き石灯」(**)である。
前項でも触れたように、𠮷村長慶は明治37(1904)年に『世界平和論』を出版している。『宇宙菴 𠮷村長慶』にその全文が紹介されているが、1.総論 2.戦争の害 3.世界の一大政府 4.結論、そして「平和会創立趣旨」が付された堂々たるマニフェストで、これを和英両文それぞれ14ページ+案内状1ページのパンフレットにしたもの。国内外に送られ、相当の反響はあったようだ。平和会設立は成らなかったが、英、米、ドイツ、スイスなどから少なからぬ返信が寄せられた。なかにドイツの新聞 Frankfurter Zeitung(***) が「平和の使徒」 ≪Ein Friedensapostel≫ というタイトルでマニフェストの内容を論評し、それを長慶のもとに送ってきたものがある。「𠮷村氏は非常に詩的に、宇宙の調和を見よと述べておられる云々」と総論の部分を引用し、世界中の人々が結集する一大政府たる「世界平和会」創設を提唱していると伝えている。最後の行には「日本の新聞はほとんどが𠮷村氏を黙殺している」 Die japanischen Zeitungen haben fast alle Herrn Yoshimura totgeschwiegen. とある。

安達氏の著書から『世界平和論』の冒頭部分を転載させていただく。明治の擬古的な美文よりこちらの方が分かり易いかも知れないので、英文も引用する。安達氏もこの翻訳はおそらくネイティヴの米国人によるものだろうと推定し、日本語独特の言い回しについて、比喩の言い換えや適切な省略などを指摘し、「名訳」と評されている。
夫れ万物生々は天地の真理にして博愛は人道の志徳なり。人類たるもの宜しく相愛し相憐れみ相助け一国恰も一家の如く、全世界亦一国の如き親睦情誼あらしめざるべからず。吾人宇宙を大観すれば滄海の一粟も啻ならざる眇たる地球の表面に存在する人類が、徒に人種の区別により邦国の畛域により、自尊排他を是れ努め蝸牛角上の紛争に得々たるは、もと偏狭の見に固着せるより起るものにして、人道の大本を没却し、天理の正道に悖戻するものといふべし。
Love is the greatest virtue of humanity. This is a truth as universally accepted as the truth that nature ist life.We ought to love each other; We ought to sympathize with each other; We ought to help each other; and all the members of the same nation ought to live like the members of one family, and all the nations of the world like the men of the same nation. Although human beings live together on the surface of a little earth, which does not count more than a grain of mustard seed in the vast universe, and ought to therefore love and help each other, still they never cease brawling and fighting, dividing themselves along racial lines and shutting themselves off from each other by the boundary lines of their countries. Such a condition is contrary to the principles of human life and the natural order of the world.
-- 安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』(奈良新聞社 2011)
大砲を踏みつける石塔には長慶なりの一貫した思想根拠があった。造形作品としての評価はともかく、まさに 《長慶思想のヴィジュアル化》 なのである。年間何十万の人が訪れる奈良でも最も観光客の多い東大寺だが、この石灯に注意を向ける人はほとんど皆無ではないか。一般の参拝者はともかく、お寺関係者の間で石灯のいわれは伝わっているのだろうか。
* 大正時代の写真に、鮮明ではないものの、大砲付き石塔が元の姿で写っているものがある。安達書 p.100
大仏殿前を選んだ理由については、明治維新で奈良入りした久我通久の兵士が東大寺中門前に大砲を据えて大仏殿に砲弾を撃ち込もうとしたとき、中山忠愛(父忠能は王政復古に貢献して侯爵を叙爵)に止められたという逸話があった。安達書 p.102
** そのとき長慶は大砲付き石塔を少しデザインを変えて二つ作っている。もう一つは興福院(こんぶいん)にある𠮷村家の墓所に完全な形で残っているとのこと。安達書 p.101
*** ≪Frankfurter Zeitung≫ は1856年に創刊され、自由主義的な新聞として第二次大戦時ナチスによって発禁になるまで続いた。現在の ≪Frankfurter Allgemeine Zeitung≫ の前身のひとつ。

長慶さんの橋

𠮷村長慶は石柱、石像、石碑だけでなく石の橋も作った。私費を投じて三つの橋を地域の住民に提供している。彼が寄進した最初の橋は明治47年に母の還暦を記念して興福寺南の猿沢池畔に建てたもの。荒池から流れる菩提川がその場所でちょうど直角に折れ曲がっていて、角に東西と南北に二つの橋が架かっていた。その南北の木橋を石橋に代えて母の名により《志奈子橋》と命名したのである。界隈の人々はその名で呼んだが、市街図や市の資料には橋名の記載がなく、菩提川が暗渠になった昭和12年ころに橋は解体され、人々の記憶からも消えていった。上部の構造物は長慶寺門内に保管されているとのこと。奈良新聞に写真家北村信昭氏が書いた「長慶さんを偲ぶ」(*)に在りし日のこの橋の写真が掲載されている。

自らの還暦の年、1923(大正12)年には佐保川に二つの石橋を寄進した。《長慶橋》と《下長慶橋》である。佐保川はよく洪水があり従来の橋はほとんどが木製でしょっちゅう流されていた。市当局が市内と佐保村とを結ぶ道路整備を計画している話を聞きつけて、長慶は石橋を架ける資金をポンと提供したと伝えられる。前年に長慶寺を開いたので、その参拝に便宜を図るためだったとの見方もあるが、それは下長慶橋には言えても上流の長慶橋は参詣コースから外れている(**)ので当たらないだろう。

佐保川の二つの石橋も今は無い。上流の長慶橋は昭和25年のジェーン台風は持ちこたえたが、昭和28年の台風による洪水で、濁流と流木によって橋梁が折れ砕けたとのこと。そのあとコンクリートで作り替えられて、標識だけが残されている。根元が折れたのか橋名が読めるぎりぎりまで深く埋めたのか、寸詰まりの姿ではある。

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同じ時に架けられた下長慶橋は現在より少し西寄りにあった。昭和の初め川幅を広げる工事があり、橋には鉄製の桁を継ぎ足すなどの手が加えられた。そのため強度が落ちたのか、昭和8年の豪雨による洪水で流された。そのあとコンクリートで架けられたのが現在の下長慶橋。崩れた石材の大半は長慶寺境内に運ばれ、残りは石碑などに再利用されたようだ。

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その橋の下手、標識も案内板もないので知らない人には見逃されるが護岸壁に2つの石碑が並んで埋め込まれている。写真でもわかると思うが、左の石碑の周辺の石組を見ると、ここに元の下長慶橋が架けられていたように見える。

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ズーム・アップしてみる。右下の小さな石碑の方、太陽と3人物と文字からなっている。人物はキリストと孔子と釈迦らしい。安達氏は「釈迦三尊像のグローバルなバリエーション」で、「神仏森羅万象を統一する真理は一つ、日の光から天地自然の真理が生まれる、という宗教観が根本にある」と指摘されている。

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長慶は多くの石碑に「真理は神にして太陽より来る」という趣旨の文言を彫らせている。これは彼の宗教観の核となるもの。太陽はここでは《高光大御神》と表現されている。キリスト教も儒教も仏教も、ひっきょう一つのものという気宇壮大な(?)宗教観をヴィジュアル化した石碑であろう。聖人を連ねたレリーフも長慶のお気に入りで、この類の石像をいくつも作らせている。末尾の「自刻」とは自らの筆跡で彫らせた、ということ。左の石碑には漢文の《宇宙教典》が彫られている。

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こちらは《宇宙教》の教義を、そのエッセンスを短い言葉で語っている。そして「天地萬有者悉以不平等為原則」というところ、長慶が繰り返し強調する彼の教えのかなめで、不平等が原則だという特異な思想はなかなか世間に受け入れられない教えであろう。人は生まれながらにして平等だという近代思想と真っ向から対決している。

一体どのような経路でこの考えに到達したのだろうか。長慶は明治12年、慶應義塾で学ぶため東京へ出たものの、義塾は早々に退学して陽明学に向かったというが、陽明学のどこに惹かれたのか。そのころ憲法制定論議が盛んになって、「立憲改進党」結党を目指す政治集会に長慶も塾生たちと参加した。陽明学は明治維新の思想的原動力として大きな影響を及ぼし、自由民権運動の思想的背景にもそれがあったといわれる。天地萬有不平等という発想は陽明学と関連するのか、儒学の門外漢には見当もつかない。

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長慶は憲法に相当な思い入れがあったことは確かだ。彼が自らの像を彫らせるとき、憲法の巻物と如来道を手にする背広・ネクタイ・カイゼル髭の洋服姿が定番となっている。昭和14年、喜寿の記念に𠮷村家の菩提寺、徳融寺に等身像を建てている。右手に帝国憲法、左手に如来道の巻軸を持っている。昭和16年の長慶最後の自像となった長慶寺門前の石碑も同じ姿である。

安達氏は問いかける。「帝国憲法と如来道の教典を武芸の免許皆伝のように、また卒業証書のように丸めて手に握るのはどうしてだろう。長慶は何を意図したのだろう。二つの巻軸が象徴するものは何だろう。」確かに二つの巻物を持つ像は現在のわれわれにはなかなか理解しがたく、「そういう素朴な疑問」を抱かないではいられない。長慶と憲法について、彼が立憲改進党の結党運動に参加したことは先に述べた。安達氏は「五箇条の御誓文」に遡ってこれを考察しておられる。特にこの箇条。
 《旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし》
古い迷信や慣習をやめようというのは長慶の碑文や文書に繰り返し表れている。天地の公道とは如来道と憲法か。「総じて御誓文と長慶思想は一致すると考えてよい」と安達氏は評する。
多感な少年の長慶は、東京に住んで慶應義塾に学び、自由民権運動の志士と交わり、いわば時代の空気の発祥地で過ごしてきた。憲法を右手に持つ下地は深いとえよう。喜寿を迎えなお矍鑠とした洋服の長慶像にもう一度対峙すれば、憲法と如来道を礎に来るべき世界を開こうと、ハッタとにらむ長慶が生き生きと見える。
-- 安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』(奈良新聞社 2011)
徳融寺の長慶像は山門を入ってすぐ右側、先に進むとこれも長慶が奉納した大日如来坐像がこちらを向いている。右上に雲の上の太陽、如来の左に地球と三日月。

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その裏側のレリーフ。下長慶橋と共通するモチーフだろうが、こちらは釈迦とキリストを長慶が揺り起こしている図。右上の煙を吐いて進む汽船の下に、「普門来た/来た 起きよ/今日 日本の昭和/長慶 戯刻」とある。のんびり寝ている場合じゃないぞ、今は昭和の日本、大変なのだ、ということか。ふうむ、すると下長慶橋のレリーフに付された文言「喝 汝 及 汝等信徒よ」も通行人に対する呼びかけではなく、三聖人キリスト・孔子・釈迦(とその信徒)への、全てを統べる太陽に合掌せよとの呼びかけだったのか・・・そうなのか、と唸らされる(***)

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左に「嘶軍馬即亡國 聞弦歌即亡家/箏音鐘響亡身」とある。軍馬嘶き国亡ぼすとは穏やかでない。昭和12年のことである。傍らに立つ解説文を見られたい。

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軍備に傾く経済は国を亡ぼすとは、東大寺中門前の大砲を踏みつける石塔と同じ主張だった。そして歌舞音曲は家をつぶす、どんちゃん騒ぎは身を亡ぼすと警告している。官憲の目を憚って、こちらは「扉をつけて秘仏と」することで時代を乗り切ったが、無残にも碑文を削り取られたところがある。それも戦争が終わって四半世紀以上過ぎてからのこと。これについては項を改めて。
* 安達書 p.11
** 安達書 p.19/20
*** 「長慶は世界の宗教を一つにする野望を抱いて、大正の末頃から、釈迦や基督など世界の聖人を前に、自身が仲介者・メディエイターとなって大神宮を掲げ示す意匠を石碑に彫り、あるいは木版画にして頒布した。聖人には孔子や宮司、イスラム・イーマンが加わった絵柄もある。」 安達書 p.149

不平等が天則

「軍馬嘶き国亡ぼす」のレリーフは、戦中は「扉をつけて秘仏」とすることで乗り切り、大砲を踏みつける石塔は、戦後の占領時代に大砲の部分を地中に埋めて人目に触れないようにした。だが長慶の石造物は戦後の1973(昭和48)年に最悪の受難を被る。それは宇陀市榛原、有名な史跡・大野弥勒磨崖仏の向かいの岩壁に作られた磨崖大黒天で、石工・新谷信正の代表作といわれる見事な作品である。

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長慶は数多くの大黒天を作った。父の巳之助が眉間寺を出て質商の𠮷村家に養子に入るとき、寺から餞別(?)として頂戴したという小さな木彫大黒天を、彼は父の形見にしていたという訳もある。しかし大黒天石像やミニチュアをたくさん作ったのは商業・金融に携わる本人の意向というより、長慶の成功をうらやむ相場関係者の願いに応えるためだったようだ。

彫師の新谷信正は大黒天を得意としていたらしく力作ぞろいである。ここでは大正13年に壁に高さ2メートルほどの大黒天が彫られた(*)。仏師・仏像研究家の太田古朴が「大野寺から明瞭に見えるため史跡弥勒仏と間違えるくらいの出来のよさ。大正時代の彫刻の一名作として世々伝世するに違いない」(**)と絶賛するが、下に刻まれた碑文が問題となった。「不自由不平等が天則」と、例の長慶思想の宣言である。

昭和48年はまさに昭和の高度成長がピークに達したとき、折からの観光ブームで大野寺、室生寺にも多くの人々が訪れるようになった。不自由不平等が天則などという碑文が人々の目に触れるのはいかがなものか、これは消してもらいたいと地元榛原町の議会が決議した。町長と助役が磨崖仏を管理している大野寺を訪れ、議会の決定を通知した。そして碑文は削り取られたのである。

ズームアップしてみる。メインの4行は完全に削り取られ、年号、発願者や石工の名と花押(彫師信正の最初の一字が「彫」かどうか不確か)は埋められた。下の緑で示した文字だけが残されている。

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確かに「人間はそもそも不自由不平等が天則」などというメッセージは、近代人権思想の根幹たる「自由・平等」にまったく反するもの、大方の人々が反発するであろう。とはいえ半世紀を経た石碑の文字を修復不能な形で消し潰す必要があっただろうか。陰刻部分の制作年・発願者・石工名は埋められ、助手定吉は残された。地元の人間だったからだとされるが、この辺りは誰の判断?

長慶はこれより2年前の大正11年、宇陀市榛原赤埴佛隆寺の裏山に厄除十一面観世音を中心とした磨崖仏を作っている。観音像、大黒天、天照皇太神宮、長慶自像、教義銘文からなる大作である。こちらの教義銘文「不自由不平等是/人道之天則有元/首有階級是人世/之理法 宇宙菴」は大野寺近くの大黒天と同じ信条の宣言だが、人目につかない山中にあるためか残っている(***)とのこと。そのうち訪ねてみましょう。

下長慶橋の《宇宙教典》石碑にも「天地萬有者悉以不平等為原則」とありました。こちらも目立たない場所で読みにくい状態なので、見逃されたのでしょうか。

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右は長慶寺門前の一番奥まったところ、正面に「大乗」と彫られた石碑の側面。これは長慶古希のころのものとされるが、「こゝは如を教ふ」とある。「如」は長慶の思想・信仰の常に中心にあった。知恵に達したもの、煩悩を滅したものとして如来とも如去ともいわれるが、仏の尊称である。釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来などなど。融通念仏宗の本山、大念仏寺の本尊は阿弥陀如来を中心に十菩薩が囲む「十一尊天得如来」と呼ばれる曼荼羅風の絵像。長慶はこれを石彫にしたものを3基作り、一つはオリジナルに忠実な天得如来像、二つは、何と何と、中心の阿弥陀如来を自分に似せた「十一尊長慶如来」(****)なるものだ。長慶にとって「如来」は中心にあるが、語るところを辿ってみてもその細かな教義には拘っていない。自分が阿弥陀にすり代わってしゃあしゃあとしている。

そういえば、長慶寺門前の石碑に「當山は念佛を唱へる寺でも参る寺でもない、活た一切経を教へ南無阿弥陀佛の理智を行ふ寺で、正覺解脱の實行道場である」とあった。正覺解脱を求めて修行する者たちの道場だとすれば、それは菩薩の集まる場所ではないか。覚りを求めて修行する人とは菩薩の謂いであろう。ならば「如を教ふ」長慶を菩薩が囲む「十一尊長慶如来」はまさしく長慶寺の教えの姿でなくて何であろう。

一条通から長慶寺へ向かう道筋に寺の方角を示す道標と「長慶寺教示」の石標が立ててある。そこに教義の中心思想が刻まれ、最後の2行に「人生如来道也」とある。そして注目すべきは続く、「破迷信陋習行大慈悲/基天地公軌歩如来道者佛而是人生」の「迷信陋習を破り天地の公軌を歩む」の箇所が、「五箇条の御誓文」の《旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし》の、そのままの引き写しと言えるほどそっくりであること。

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「天地の公軌をもって歩むが如来道」とする信条は長慶が布教を始めた時から死に至るまで貫かれている。如来道と帝国憲法(五箇条の御誓文)は長慶にとって一つのもので、この石標にも刻まれている「万事に中心有る如く國に元首有り」の信念は終生変わらなかった。福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と、西洋近代思想の精神を揚げて、従来の儒教的封建思想を否定している。長慶も封建時代の旧弊陋習を烈しく否定するが、人は生まれながらに上下がある、とする。世の実態はそうであり、諭吉も社会の実態を知らぬわけではないだろう。この不平等を許してはならぬ、だから学問せよと勧めたのではないか。

安達氏は削り取られた碑文、そして「不平等が天則」という長慶の信条についてこう述べておられる。
長慶は慶應義塾に学びながら師・福沢諭吉が『学問のすゝめ』の冒頭に書いた「人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず」との考え方に、直接反論こそしないが宗教的見地から「不平等が人道の天則」との説を主張した。[中略]歴史を直視すれば、問題の碑文が本音であることは、誰もが認識している社会通念ではないだろうか。全ての人間が平等にして階級差がない社会は有り得ないし、有れば実際問題として私たちの社会は機能しない。自明の理である。人間は生まれながら出自に差があり、運と不運は紙一重である。長慶は物事の差異に拘泥せず、ねたみ心を抱かず不自由不平等を認めた上で出発しなさい。「因果は循環して遂に一如となる」との見地から繰り返し不平等天則を解くのであるが、短い碑文では真意が伝わらず、土地の人から危険視された。そして刻文は削り去られた。
-- 安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』(奈良新聞社 2011)
何も削り取らなくとも、徳融寺のように長慶の真意を解説する板札を掲げるとか、別の方法があったのではないか、と私などは思うが。戦後民主主義の思想統制の方が軍国時代よりも占領時代よりも苛酷だった? まあ、時代の雰囲気というかムードによる無言の圧力が為したことだろう。
* 長慶が彫師・新谷信正に与えた手書きの指示書「宇陀大野寺仕事之覚書」が残っている。安達書 p.135
** 安達書 p.111  太田古朴(太田亀一 大正3年~平成12年没)
*** 安達書 p.291
**** 原則非公開、「実際に見た人は数えるほどしかなく、辰巳旭氏(著名な石仏写真家、昭和54年に開催された長慶写真展の展示作品を撮影:引用者註)ですら拝観できなかった。もちろん私は見ていない」とのこと。安達書 p.121/122